『発酵文化人類学』を読み終わって発酵した/手前みそのまちづくり

『発酵文化人類学』リリース直前、事前予約のお知らせ

というページがTwitterのタイムラインに流れてきて、リンクをタップした瞬間にはもう、『発酵文化人類学』が自分に必要そうな本だってことが分かってたんだと思います。

リンク先の<こんな人が読むと面白いかも?>という見出しのところには

「発酵食品が好きな人」

「微生物や遺伝子工学が好きな人」

など、大きく発酵に関心がありそうな人たちを指すらしい項目のあとに

文化人類学や民俗学が好きな人

デザインやアートに興味がある人

ソーシャルデザインに興味がある人

まちづくりやコミュニティづくりをやっている人

働き方に関心がある人

と僕が自分のブログでテーマにしているものに当てはまりそうな項目が並んでいてちょっと興奮する。ああ、これは読んでおかなきゃなと思う。

事前予約のお知らせを見て購入を決めたにも関わらず、僕が本を手に入れたのは5月序盤、そして読み終えたのはつい先日(今日は6月19日)。

そもそもなぜそんなに手に入れるのが遅かったのかと言うと、僕の習性として、「事前予約特典!」などのお得情報を目にすると逆にグイグイ行けなくなるというものがあって、つまり無駄に自意識過剰なのであって、考えてみれば小さい頃からずっと「おまけ」とか「サービス」とか聞くと尻込みしてしまって、欲しいです!って言えない系の僕はこれを読むと決めていたにも関わらず一般販売を待って購入。それもちょっと一拍置いて購入。

では読み終わるのに1カ月もかかったのはなぜかと言うと、内容が難しく読みにくかったからではなく、僕の脳内に共鳴する部分が多かったせいで本を閉じてもそもそと瞑想する時間がとても長かったからです。

読みたてホヤホヤでどうまとめたら良いか分からない状態なんだけど、僕の頭の中は今確実に発酵している感覚がある。

ゆっくり読み進める時間の中で、少しずつ僕の思考とテキスト内容が混ぜこぜになる。

ヒートアップしている頭を感じながら、ああそういえば脳みそって「みそ」なんだよなあとか思って、そういうのがなんか面白くなると同時に、この記事を書き上げたときにたぶん発酵が完了し、「どうこれ」って言える程度にはコクとかうま味みたいなのが生まれるのではないかと思う。

そういう意味でこれは『発酵文化人類学』の内容をレビューするというよりは本から少しずつ離陸して僕の読書体験をそっと置く形の「手前みそ記事」になるけど、本書に「手前みそがイケてる理由」という章があるくらいなので間違った試みではないのだろうと思う。

味噌には「スタンダード」はない。あるのはその土地、その家庭のローカルスタンダードの集積であり、その地域性・多様性こそが味噌の文化の神髄なんだよね。(86p)

本の読み方にも正解はないと思う。

あるのは読み手の個性であり、パーソナルな感性。

小さい頃に読んだ本を大人になってから読むと全然違うところでジーンとしたりすることがあるように、その本の価値は人により時により様変わりする。

つまり、テキストを触媒として、書き手と読み手の間に生まれる何かこそが、その本の価値になる。ああ発酵。なるほどなるほど、と思う。

それぞれ異なるもの同士がただ存在しているだけでは多分何も生まれない。

あるものとまた別のあるものが何かのきっかけで関わりあって、相互的なやりとりをする時間の中に生まれるものが、新たな価値、もしくは美的なものを作っていく。

たぶんこのあたりの概念を説明しているところが僕にとっての『発酵文化人類学』のハイライトだから、飛躍、曲解、恣意的な編集、長くなりすぎのすべてを恐れず、大いにこのあたりを意識した記事を書いてみようと思う。

目指すゴールはこのブログのテーマである「まちづくり」と「ものがたり」の関係について寄せてたっぷり書くこと。

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相互的なやり取りの末に生まれる価値を目指して

さっそく『発酵文化人類学』中盤以降の話に飛ぶのだけど、本書では発酵や微生物や文化人類学の話題から緩やかにアートの世界に足を踏み込みます。

「深入りすればするほど、酒づくりの世界はアートなのだと実感する(254P)

から始まる章では、主観と客観、作り手が見せる世界と受け手が構築する世界、そして新たに構築される主観についてが書かれている。

普遍的な美はあるのか、絶対的な価値はあるのか、いや、あるのは相互的なやりとりの間に生まれる一瞬の輝きである。

異なるもの同士の間で起きるやり取りのプロセスは以下のように書かれていました。

・作り手(芸術家・醸造家)が芸術や醸造を通して自分の捉えた自然を表現する

・受け手(鑑賞者・飲み手)が表現を享受することで、作り手の認知を追体験する

・受け手がその体験を自分の認知に反映してアップデートする

という一連のプロセスを辿りながら、世界を捉えるセンスを豊かにしていく。同時に自分とは違う世界で生きている人たちへの共感を育てる。大事なのは「どれだけ詳しいか」という知識ではなく、プロセスの豊かさ、つまり愛でかたの深さなのであるよ。258p-259p

『発酵文化人類学』という表現のかたまりを受けて、僕がこうしてブログを書く。

著者である小倉ヒラクさんの思考に触れ、一読してなんとなく理解した僕は、こうして受け取ったものの断片を僕の言葉に置き換えていく。

こういう発酵のプロセスを公開することで、またこの記事を読んでくれた数人の思考と結び付き、化学反応が起こり、何かが生まれたり生まれなかったりするのかもしれない。

このことを指して、作り手はもちろん、受け手だってみんなアーティストなんだと『発酵文化人類学』では言います。

うん、今後僕らはもっともっと創造的な人生を歩むことになる。

こう言うと「は?」ってなる人もいると思うんだけど、そういう人が感じるアーティストっていうのはいわゆるテレビに出たり雑誌に載ったりするようなアーティストであって、ここで言うアーティストは物事に自分なりの意味付けをして、価値を見出し、納得するという丁寧な作業を、自分の人生に対して行える人だと思う。

じゃあじゃあそのアーティストってどうやるの?って辺りを『発酵文化人類学』から探っていきたい。

交換・循環・ものがたり

僕たちの生きる世界では、あらゆる場面、あらゆるレベル、有形無形問わず、様々な価値の交換が起こっている。

そしてこのときに言う交換とは絶対的な価値自体のやりとりではなく、交換をする過程で生まれる何かだと言います。

『発酵文化人類学』では、パプアニューギニアの部族の間で行われる「クラ」という物々交換によって維持されるコミュニティの文化を引き合いに出した上で、贈与経済、交換、循環、そして副産物的に生まれるものについて説明されていました。

さらに芸術に関する章では、交換の関係が二者間から三者間、四者間と増えていき循環の図となるときに、相互的に誰もが受け手であり作り手であるからして、みんながみんな今自分の目の前にあるモノを愛でて、そのめぐり合わせを喜び、自分の人生の意味とするアーティストである、というようなことが書かれています。

なるほど、僕らは実利を求めて交換をしたりすることもあるけれど、実は交換というコミュニケーションを取るためにモノを使ったりもするのだな、と知る。それは単純な物質であることもあれば、仕事とか、お金とか、概念的なものであったりもする。

交換、そして循環、そこに使われるエネルギーこそが人間を人間たらしめていて、僕らはそういった人間らしい営み通じて形成される輪をコミュニティーと呼んだりする。

物語の構造としての循環

本書ではこれが生物界全体の話に広がっていくけれど、本全体を通して「プロセス」とか「循環」とか「コミュニケーション」とか「アート」とかいうキーワードを見るにつけ僕が思い浮かべるのは、「物語の構造」についてです。

物語の構造というのは例えば、「古典的な英雄譚、神話の構造は主人公が旅立って、色々乗り越えて、帰って来るという循環の構造を持っている」みたいなこと。

はじめにいたところから一周くるっと途中でなんやかんやあってまたはじめのところに戻って来るというのは、もっとも古典的な物語の形式に共通するパターンであり、多くの物語がその典型に基づいて少しずつかたちを変えながら展開されている。

そんなことを『千の顔を持つ英雄』という本で僕は知ったのだけど、正確に言えばそういうことが書いてある本だって知って『千の顔を持つ英雄』を読んだので色んな情報の受け売りでしかない情報をここに書いてるんだけど、とにかく『発酵文化人類学』を読んで僕はそんなことを思いだした。

そんで、このくるっと一周回って帰ってくるという物語の形式の面白いところは、一周して帰ってくると、同じ場所のはずなのに、微妙に最初見た景色と変わってるということ。

つまり発酵。

一周する間に何かがあって、そのプロセスの間で少しずつ少しずつ何かが変わって、始めの場所に戻るとなんかちょっと、もしくはガラッと世界が変わってる。その過程を見て、変化を見て、おーって思うところに物語の醍醐味はある。

これね、ちょっと混乱させてしまうと思うんだけど、必ずしも移動を伴う必要はないのです。

アナログ時計を想像してもらうと分かりやすいんだけど、自分が秒針になってくるっと動いて(旅をして)も良いし、自分が文字盤の文字の一つになって、巡ってくる何かを観察しても良い。

かえって分かりにくいだろうか。

でも秒針が一周する度に、自分では気づかないかもしれないけれど長針の位置が少しだけ変わるのです。そして長針が一周する頃には、短針がけっこう進んでいるから、けっこうな違いになる。こんなことを繰り返しながら、それぞれがそれぞれのペースで、僕らは少しずつ変化している。

発酵文化人類学で言うところの「発酵のプロセスを愛でる」ことと「物語を愛でる」ことってすごく似ていて、そしてそれは「人生やそのプロセスに関わった人間関係や関わったものを愛でること」にも似ている。

つまりそれは自分が自分らしく刻む時間こそを愛でることである。

衰退の物語を逆回転させる

考えてみれば、僕が「まちづくり」に関心を持ったのも、「帰って来る度に変わっている」という実感がきっかけの一つでした。

大学時は札幌にいたし、ちょっとだけ海外に行ったこともあるけど、帰省する度にどこかのお店がなくなっていたり、色々な理由で誰それさんがいなくなっていたりするのです。

目に見えるものだけじゃありません。情報に乗り遅れているという実感や、文化の熟成具合と言った目に見えにくいものまでも、過疎地域では知らずに失っているという感覚がある。

言わば僕が自分の故郷に見たのは、「急激な衰退の物語」だった。そして多分、というか間違いなく、日本国内色々なところに横たわっている珍しくも何ともない物語なんだろう。

そして漠然と、例えば今は各地に散らばっている僕の地元の友達がこの町に帰ってきたときに、「来る度に何か増えてるな」に変われば良いんじゃないかなって思ったのです。

帰って来るたびに何かやってる、前となんか違うけど、その分空いたところでなんかやってる。

それは余計なことかもしれないし、バカげてることかもしれないし、意味の無いことかもしれないんだけど、そんな実利的なことは割とどうでも良くて、「時間を経て、変化する」というプロセスの向きというか行先を、腐敗にするか発酵にするか、さあどっちを望むんだい?というところに僕らは立たされているのだと思う。

そしてその行先は、世界から見れば微生物のごとく影響力も存在感もない微力な僕らそれぞれのコミュニケーションの在り方やエネルギーの使い方にかかっているのではないか。

都合よく言えば僕がブログで主に書かんとしているのはこういうことで、そこのところをクリアに意識するきっかけになったのが『発酵文化人類学』という本でした。

サムシング・ニューをサムシング・スペシャルへ

ここで言いたいのは、というより『発酵文化人類学』を読んで共感したのは、やっぱりプロセスにうま味がある、ということ。

たぶん、まちづくりに期待されるのは変化なのだと思う。

簡単に言えば「衰退の物語」から「逆転の物語」への変化という憧れがある。「発展の物語」ではなく、「逆転の物語」だというところに注目して欲しい。

成長の経過を目指すのではなく、勝つという結果にこだわる傾向があるということ。

この町に人が集まる方法はないか、この町に注目が集まる方法はないか。僕らはついそんなことを考えてしまう。結果を一足飛びに手に入れようとして、正解を求めようとするし、メディアではその方法を知らしめる。

ここで『発酵文化人類学』から引用させてもらいたいところがあります。手前みそのすばらしさについて書かれている章で、発酵の楽しみの本質はプロセスにあるということが書かれているあたり。

この喜びは、情報過多の現代における「サムシング・ニュー主義」へのカウンターでもある。世界中の情報がオープンに手に入るこの時代特有の苦しみは、「自分が自分である特別さ」を感じることの困難さだ。

ー中略ー

この「サムシング・ニュー主義」は現代における強迫観念の一種といえる。これは「結果」ばかりが切り取られて目についてしまう弊害だ。結果を出さなければ、自分らしさが認められない。仕事でも人間関係でも「結果」を追い求めすぎると、息苦しい。(92‐93p)

これは地域の行いにそのまんま当てはまることで、僕らは何かと世間をあっと言わせる何かを生み出さなければならないという気分にさせられてしまっている。

そしてそれは個人も然り、だと思う。誰もがどこかで「他ならぬ私」でなければならないと思っている。もともとオリジナルなはずの自分をわざわざ文明の俎上に乗せて、つまり便宜のため経済という価値基準を無理やり統一するあの場である市場に売り出して、誰にも選ばれなければ自分は無価値だとか思ってしまう。

ちょっと長いけど、続きも引用させてもらおう。

だからもう一度、自分のカラダやアタマを使って「プロセスを味わう楽しみ」に戻ってみよう。結果の手前のプロセスにフォーカスする。大豆と麹を混ぜれば、自然と発酵が始まっていく。あとは目に見えない自然の力にゆだね、醸されていく過程を楽しむ。その過程を楽しめば楽しむほど、結果として生まれた味噌が美味しく、スペシャルに感じられる。そしてその「自分だけの手前みそ」を、家族や仲間たちと一緒にシェアすることができる。人と競争するのではなく、分かち合うことで「自分が自分であること」を確認する。

その瞬間、その場所で自分が感じている幸せは誰にも比較されない、比較しようがないサムシング・スペシャルなのであるよ。手前みそを仕込むこと。自分の手で美味しいものをつくりだすことは、サムシング・ニューからサムシング・スペシャルへの飛躍だ。

 全力でゴミを生み出す

僕らの致命的な欠陥は、自分がもともとサムシング・スペシャルで、唯一無二で、他に類を見ない存在だということなんかもう正直分かっているのに、同時に普遍的な美、つまりそれが多くにとっての正解であって欲しいと思ってしまうことだと思う。

もっとも普通の特別を目指すという不思議な気持ちが、僕たちには備わっている。

だけど、普遍的な美や絶対的な価値なんてものは存在せず、その価値は時間を経て、他と関わって、何かが生まれ、変化するプロセスにこそある。

自分自身はオリジナルではあるけれど大した価値はなく、自分がいることでこの世に生まれた価値にこそ、人間がエネルギーを費やす意味がある。

こう言うと少し身構えてしまうというか、なんか、しんどいな…って感じるかもしれないけど、ここでまた『発酵文化人類学』から引用したいところがあります。

乳酸菌は元気を得るために糖分を食べるのだが、この「乳酸」はいったい何なのかというと「うんち」なのだね。

ー中略ー

でね。この「乳酸菌のうんち」だが、人間にとっては「美味しいごちそう」なのだよ。「酸っぱくて美味しいし、牛乳も腐りにくくなるし(酸性の防腐作用)そのうんち喜んで引き取りまーす!」となるわけさ。160p

僕らは全力でゴミを作り続けることが大事なんだろう。

わざわざゴミと卑下する必要もないんだけど、それこそ手前みその精神も必要なんだけど、それは好きなように捉えれば良い話であって、やっぱり客観的に、ドライに見れば、例えば僕が書くすべてのものはゴミだと思う。

もっと思い切って言えば、下品な話だけども、排泄物と変わらないと思う。

だけど、乳酸菌の排泄物をありがたがる人間のような存在もいるように、こちらの意思とは無関係にどこかの誰かが勝手に役に立てたりして、勝手に材料にして何かを生み出したりして、そうやって世界は壮大な循環を作っていて、結局まるっと辻褄があってしまったりしているのだろう。

でもそれは全身全霊を込めた、かつ自然なゴミじゃなきゃいけないと思う。つまり、自然に好きで、エネルギーを費やせるものであることが望ましいと思う。

僕らは自分のペースと自分にとって適切な熱量を守って、与えられた時間を思いきり愛すことにエネルギーと知恵を使うべきなんだろう。

発酵にかかる時間

僕が発酵文化人類学を手に入れるのが遅かったのも、読むのに一か月もかかったのも、そして読んだあとに書いたブログがこんなにまとまりがなく長くなってしまうのも、僕の思考回路が非常に遅く、行動も遅く、発酵し、変化が生まれるまでの時間が非常に長いからだと思います。

時計に例えれば僕は短針で、その動きは非常に緩慢です。

でもそうじゃなければ僕はダメ。ペースを上げようとしたり焦ったりすれば僕は僕を見失い、結局本は頭に入らないし、文章に熱がこもらない。

きっとヨーグルトを作るにはヨーグルトを作るのに相応しい時間があって、味噌を作るには味噌を作るのに相応しい時間がある。

たぶんそういうところも、人間の営みと細菌の営みは似ているのだと思う。

じゃあ『発酵文化人類学』を読んでそんなことを学んだ僕は、地域は、まちづくり的には、どうするべきだと感じたのか。

それは、言わば本題なんだけど、ちょっと正直分かんない。

というか、書きたいことはあるのだけど今日はもう時間と体力的にこれ以上考えられないので、すみませんが続きはまたリライトしながら書き足します。次の更新日は明後日。

更新日に時間切れになるのは初めてなのだけど、なんか熱くなってしまって、もうすぐ12時になってしまう。月曜更新と決めているのでこの時点で公開します。

書き終わると思ったんだけどな。

ここから追記!

ということで1日あけて以下追記です。

『発酵文化人類学』がまちづくりにどんなヒントを与えてくれるか。

と言ってもやっぱりまちは人の集まりだから、人のことから考えなければならないと思う。

ここまでのおさらいみたいになるけど、グローバルでネット社会な現代で生きる僕らの人生はなんとなく「自分が自分であること」を意識するのが難しくなってきたってところが大きなポイントでしょう。

こんなの書いてました

あってもなくても構わない人生の小説的な面白さについて

ネットの発達で距離を物ともしなくなった僕らは、最先端のすごいヤツや未知の魅力に毎日のように触れ、ああそうか、今生き残るためには最先端でなければならないのか、未知を既知に変える魔法を使わなければならないのかという強迫観念で生きている節がある。

日々目に見える範囲、手の中で変化していくものを愛で、慈しむというより、まだ存在しない結果を求めて生きている人が多そうな気配。もちろん僕も例外じゃない。

結果を求めて行動することってありますよね。今より幸せになるために、成功するために、この結果が必要だって思うことあるはずです。

例えば恋人がいなかったりすると、彼女さえいれば幸せなのに!とか思うことあるだろうし、結婚さえすれば幸せになれるのに!とか、創作者やブロガーならこの作品が、この記事が認められれば!とかって考えて行動すること、この手のこと、誰にでもあると思う。

つまり世に求められる正解を目指して、今を作ったりする。

結果から逆算して考えるから、方法を求めるようになる。成功するためにはどうすれば良いか、結果を得るためにはどうすれば良いか。

正解に至るレシピは公開され、シェアされて、一般的な法則になるから、あらゆる結果を求める行為が手続き的になり、予定調和になり、既製品になる。

僕らオリジナルで唯一無二で、お前じゃなきゃダメだって言われたいのに、その割にパッケージングされてどこのスーパーでも親しまれる新製品になりたがる。

少し言い方に悪意があるかもしれないですね。なんかこんな言い方になってしまった。でもそう思う。ただ、それが悪いと言うのではなく、ちょっと賢くなりすぎたが故に起こってしまう「生き急ぎ」に燃えるというよりは窮屈さやプレッシャーを感じるのなら、ちょっと視点を変えても良いのではないか、『発酵文化人類学』にはたぶんそんなメッセージが込められている。

「サムシング・ニュー」から「サムシング・スペシャル」へという、結果からプロセスへ視点を動かす工夫は、この競争からすっと一歩引いて、「世界の文明に寄与すべく生きる」のではなく、「私の人生を育む」という視野の限定を促すメッセージのように感じました。

もともと制限とブリコラージュせざるを得ない人生

視野の限定と書いて思いだしたのだけど、『発酵文化人類学』では「制限がクリエイテビティを育てる」という章があります。

これはある3つの発酵食品のなりたちを紹介した上で、いずれも制限によってユニークな存在となっていると言います。

制限があるからこそ、ないものは何でも使うというブリコラージュの発想がさく裂する。無いことに文句を言うのではなく、そこにあるものを集めてきて分類・整理し、それをじっくり観察するうちに思いがけないアイデアが湧いてくる。137p

ブリコラージュの発想というのは、レヴィ・ストロースという文化人類学者が用いる概念だと言います。

フランスでは日常的に日曜大工とかDIYのことを「ブリコラージュ」と言う。「素人があれこれ工夫してモノを組み立てる」というニュアンスだ。レヴィ=ストロースは世界中の神話を集めているうちに「なぜ世界各地でこんなにも多様で摩訶不思議なストーリーが生み出されるのだろう?」という疑問を持った。そして主著のひとつ『野生の思考』において、「神話は、一種の知的なブリコラージュである」と定義する。いわく、

「神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるといってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである」※

※すみません、レヴィ=ストロース『野生の思考』(P24)からの引用、とあるので孫引きになります。

僕らだって足りないものばかりだと思う。でもだからこそあるものをフル活用するしかないわけで、それらを寄せ集めてどうにかこうにか辻褄を合わせ、形を整えるしかないわけで、みんなそういう風に自分にあるものを寄せ集めてオリジナルの人生を生きている。

そんな人・人・人が暮らし、エネルギーを費やし、生き物のように形を変えながらなんとなく形を保っている器の一つが、「まち」なんだ。

僕のまちの話

ここでちょっと自分のまちの話になるけれど、僕が言う「まちづくり」って今はまだとても狭い範囲のものです。

近所にある元病院「旧佐藤医院」は独特な空気を持つコミュニティスペースをとしてオープンしていて、くつろぎの場でありイベントスペースとして活用されています。

僕はこのコミュニティスペースの奥に私設図書館をこっそり作ろうと思っていて、ごくローカルな文学体系を育てていきたいと思っている。

出版業界の未来は多分手放しで明るいとは言えず、今後どんどん大きな市場では拾い切れない多様な文学をごく小さい領域で愛でるという偏執的な行為が活発化するだろう…っていうかそうなったら面白いなって思ってて、その土地によって読めるものが違って、生まれるものには独自の成り行きがあって、多少粗があっても、ムラがあっても、その土地で生まれたという特別感がある文学があれば、僕のような出不精の人見知りでも旅をする動機になるなと思う。

巡り合わせの妙というか、その土地の空気、その場の気配とテキストがフィットする感覚みたいな特別感を作り出すことができるのではないか。

大型書店に並んでたらパッとしないし、売り上げなんて考えるまでもなく、当然夢の印税生活なんて夢でしかないけど、「旧佐藤医院」の中で読む分にはめちゃくちゃいい味が出てる本とかを全力で作る流れになれば、独自の文学大系から、独自の小さな市場が生まれるかもしれない。

その市場でやり取りされるのは経済だけではなくコミュニケーションであり、つまり交換であり、誰かが外から持ち込んできた文学観やアイデアが場の力で昇華され、コミュニティスペースの価値が上がり、町の魅力になる、かもしれない。

大げさなことを言っているようだけどこれは当然「手前みそ」の話です。

在り合わせの材料とありったけの知識と長年の勘で手作りの発酵食品を作るように、文学を作ろうという話。そしてその独特の文学に触れ、それぞれ個人の文学観が少しアップデートされたりしたら最高だ。それがネット上に散らばったり、出版業界に寄与されたりすれば、それは文明のレベルで日本の文学をアップデートするものとなる。

そんな、文化が文明へと繋がっている温床として機能するように、自分のまちを形作りたい。

惜しみなく与えられるもの

与えるべきは価値ではなく、「その人の存在価値」なのだと思う。

私がここにこうしている理由とか、私がいることで変わる何かとか、そういうプロセス(物語)に関わる土壌を与えることが、人生の創作者たる僕らにとって魅力的なものになるのでないだろうか。

『発酵文化人類学』の中に贈与経済の話があって、ああそうだこれこれ、何か書き足りないと思ったらこれを書こうと思ってたんだって今気付いたんだけど、この記事の最初の方でも触れたクラという交換ゲームの話。

トロブリアンド諸島に住む部族の間で行われる伝統的な文化で、「複数の島々で構成される円のなかを、赤い界の首飾りを時計回り、白い貝の腕輪を反時計周りにしてぐるぐる回し続ける不思議な交換ゲームだ(148p)

と紹介されています。

これ面白いんだけど、物の交換自体にはあまり意味はないそうです。詳しく書くと引用が多くなってしまうから端折るけど、これは円滑なコミュニケーションを目的とした儀式的な行為で、価値のやりとりではなく、やり取りをするために道具を使い、気持ちと手間を費やすものなのだそうです。

うわあなるほどと思った。

価値のやりとりって、文明社会においては、というか日本では特に関係をストップさせるための行為ですよね。

例えばお店で何か欲しいと思ったら、その対価として適切な額のお金を払う。これで買い手と売り手の関係はイーブンになって、貸し借りなしになる(あ、売買はバイバイっていうダジャレを思いついたよ)。

誰かにおすそ分けとかおみやげとかもらったら、前アレもらったし返さなきゃなーってなりますよね。えー何買ってく?あれクッキーだったよね?いくら高くても1200円くらいでしょ…って意識的に同価値のものを選ぶと思う。これでこの件に関しては貸し借りなし、ごたごた残したくないって気持ちが働くと思う。

でも、コミュニケーションを存続させようと思ったら、今度は意識的にちょっと上乗せして相手に返す、そしてそれを貰った人はまたそれに上乗せして返すっていうギャップを作ることで、高低差を生み、循環の構造を作ることができる。

ああそう言えば僕の愛読書の一つである『鋼の錬金術師』において、あの兄弟がたどり着いた答えも等価交換の法則を乗り越え、自分の分に1を足して相手に渡す理論だった。

循環と円の力を利用する錬金術の力を失った兄弟が、自分の足でそれぞれ東周り、西周りに世界を回って新たに人生の物語を始めるというラストは完璧だった。

昔こんな記事を書いた。

優越感なしでは人は幸せになれないのか/『鋼の錬金術師』が刺さる、何度も

贈与経済の話です。

自分が持っているものをギフトとして与える。そうすることでコミュニケーションは巡り、継続し、その物語はまるで螺旋階段を上っていくように、一周するごとに少しずつ景色を変えながら紡がれていく。

こうして育まれるものが「文化」なんだろう。

与えられるのはこんな時間

問題は何を与えるかです。

惜しみなく与えると言っても、それこそ足りないものだらけの僕らには与えられるものの選択肢がそれほどない。

ここで、きっとブリコラージュの概念が活きてくる。

自分が持っているものをどうにかして形にして、惜しみなく与えられるようにする。

ここでまた自分のまちの話になるのだけど、先ほど書いたコミュニティースペースと、僕の実家の目の前には空き家があるので今後はここで生活しながら、春∼夏限定とかでゲストハウスというか合宿所のような扱いにしようと思っている(宿泊代は有料になってしまうな)。

この二つを組み合わせると文学合宿ができるんじゃないか。

その上で「文学に触れる時間」を与えられるようになれば良いなと思う。

読む量が足りないなら一緒に日本文学全集潰そう。芥川賞マラソンでもブッカー賞祭りでもミステリー怪奇小説月間をしても良い。一人じゃ難しくても一緒ならできるかもしれない。

書き出しや書き終わりに苦しんでるなら背中を押すし、執筆スピードが足りないと思ってるならその辺の強化メニューを考える。あなたの書いた本について一日話すのも良いですね。

こういうことができる場になれば良いなと思う。ストイックに文学に向き合うのはきっと楽しい。

これは価値ではなく、価値を生み出すまでの発酵期間を共有しよう、みたいなこと。

僕に価値はなく、まちに価値もなく、それが生まれるとすれば微生物みたいな僕らが場に浸ることで醸成され、不意に香り立つ何か。

僕は僕なりのペースで文章を書き、本を読み、図書館を作る。そんな全身全霊のゴミを作りだす過程は常にオープンにする。僕は価値を作り出せないけど、誰かと関わることでモノ以上の価値が生まれるかもしれないと期待しながら過ごす。

こんな風に考えていたから、『発酵文化人類学』で共鳴する箇所が多かったのです。

色々な自然が肯定され続ける発酵の場

ただ、『発酵文化人類学』を言わば利用する形で自分の「まちづくり」に引き寄せて考えたわけだけども、何もこの考え方が正解だというわけではないと思う。

後半は「贈与経済とコミュニケーションの循環や継続」の応用とも言うべきまちづくりの方法論的な書き方をしてしまったし、これからはこういうやり方が正しいのだ!と主張したくもあるけど、それじゃ『発酵文化人類学』を読んだ意味がまるで無いなと思う。

僕らは「文明の正解」に立てるとなればうれしくもなるけれど、「成功」すればホクホクするけれど、それは行き過ぎれば結果がプロセスを否定してしまう可能性と隣り合わせ。「正解」や「成功」を定めれば、「間違い」と「失敗」が生まれる。

自分の中だけでなく、誰かを失敗にしてしまう可能性だってある。

僕らの人生や、僕らの人生をささえる町の在り方は、そんな二項対立な見方で割り切れるようなものだろうか。

どうすれば幸せになれるだろうか、どうすれば楽しいだろうか、どうすれば満足だろうか。

僕らはいつもそうやって今よりもっと良い何かを求めるのだけど、分かった!と叫んだ瞬間に間違えるみたいなところがあって、これが正解だと決めた途端に廃れる傾向があって、拡散され人工に膾炙した一般解は手続き的なものでしかなくなったりする。

結果だけじゃなくてプロセスに目を向けようっていうメッセージはきっと、分かった!以前の、「分かんないけどこうなんじゃないの?」「分んないけどなんかこのまま行こうぜ」ってあたりをもっとゆったり楽しもうってことなんだと思う。

僕らなんだかんだ全身全霊でエネルギーを費やせることは限られているし、結果出てくるゴミだって知れてるし、プロセスに納得できなければ結果なんて受け入れられないんだから、なんか分からないけど熱くなれることに自分なりのペースで取り組むのがとりあえず自然なんだろう。

そんなあらゆる色々な自然が何かのきっかけで関わって、お互いの間にうま味のある何かが生まれたり、驚くほど何も起こらなかったりしながら、僕らの人生は肯定され続けるんだろう。

僕の暮らすまちが、誰かにとってそんな風に先の見えない発酵の場となったら面白いなと感じました。

『発酵文化人類学』を読んで発酵した/手前みそのまちづくり(完)

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