『ファイトクラブ』を読む/君は自分が生きていると心から感じるか。他人の不幸に癒される完全な人生について

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決して大っぴらに言いたいことではないのだけど、人の不幸に触れて安心する自分というのは確実にいる。

例えば交通事故のニュースに触れて、亡くなった方が自分と近い20代とか30代とかのとき、僕はまずとても原始的で感覚的な脳みそで怖いと感じる。

それから、絶望と言えば大げさかもだけど、まだまだやりたいことあっただろうなとか、来週も再来週も予定がいっぱいだったんだろうな、好きな人がいただろうか、結婚したばっかりだったかもしれないなとかって考えて、そういう人生の先が一気に断たれてしまった感覚を抱いて落ち込む。

それから。問題のそれから。

僕は、これが自分じゃなくて良かったと思う。思うともなく、これが他人で良かった、僕以外の30代で良かった、僕の身に降りかかったことでなくて良かったと思う。

これは普通のことか?そうだとしてもやっぱり口に出してはいけないことなんじゃないか?

そもそも、僕の人生は自分で痛ましく思うほど貴重なものなのか?

こんな風に感情が負の方向に引きずり込まれそうになるときに読むのが、『ファイトクラブ』。

この記事長いっす。7000字近いのでお時間あるときにどうぞ。

Contents

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何度も読む『ファイト・クラブ』の完璧になどしないでくれ

僕は小説のあらすじとかテーマとか、そういうものをまとめるのが苦手で、例えばある歌のこの部分の歌詞が好きみたいな感じで何回も聞くように小説を読むことがあるんだけど、ファイトクラブもその一つです。

少し長いけど、まず、僕が何度も読む箇所を引用させていただきたい。

「一目置かれたくて、やたらにものを買い込む若者は多い」ドアマンが言った。

ぼくはタイラーに電話をかけた。

ペーパー・ストリートのタイラーの借家の電話が鳴る。

頼むよ、タイラー。僕を救い出してくれ。

呼び出し音が続く。

ドアマンが近づいてきて、ぼくの肩越しに言う。「自分が本当に欲しいものがわからない若者は多い」

お願いだ、タイラー。僕を助けてくれ。

呼び出し音が続く。

「若者は、全世界を手に入れたいと考える」

北欧家具からぼくを救い出してくれ。

気の利いたアートからぼくを救い出してくれ。

呼び出し音が続き、そしてタイラーが電話に出た。

「欲しいものがわからないと」ドアマンが続けた。「本当に欲しくないものに包囲されて暮らすことになる」

完全になどしないでくれ。

満足などさせないでくれ。

完璧になどしないでくれ。

助けてくれ、タイラー。完璧で完全な人生からぼくを救ってくれ。

ハヤカワ文庫『ファイトクラブ』p60~p61

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他人の不幸に癒される

重い不眠症に悩み、生の実感を得られなくなった「ぼく」は、本物の苦痛がどんなものか知りたければそこへ行くと良いという医師の勧めで、変形性骨疾患患者の、器質性脳障害患者の、住血寄生虫宿主の、がん患者の、集会に通うようになります。

集会後の帰路、ぼくはかつてないほど生を実感した。ぼくはガン細胞や住血寄生虫の宿主ではない。ぼくは全世界の生命を集める小さくて温かな中心だ。p25

不眠症、生の実感の消失、そして圧倒的な不幸に見出す生の実感。

僕にはこのサイクルが何となく理解できる。死に瀕して慰め合っている人を見て自分の生を実感するなんて悪趣味だとか性格が歪んでいると感じるのが理性的な人の感想なんだろうけど、どうしてもおかしなことだと思えないし、何がどうとは言えないけど、分かる。

たいていは、「不眠症」と「生の実感の消失」の関わりも捉えにくいものだと思う。僕も子どもの頃ならなんのこっちゃになっていたと思う。

ただなぜか、人の不幸に触れて安堵する気持ちというものがある。

大学生のとき、僕は全然眠れなかった。毎日まいにち夜中まで起きてて、眠れそうだと感じたときにベッドへ。横になるとまた目が覚めて、ジリジリと頭が疼くからパソコンを開いた。そして朝方になってようやく眠れる気になる。

今も恐れの感情からベッドに入ることが多いです。寝る習慣を損ねたらまた眠れなくなるかもしれない。眠れなくなると感じたら眠れなくなる。眠れなくなると精神と肉体が衰える。

結婚した今、妻と生活リズムが合わなくなるのが怖い。妻の眠気に縋りつくように僕もベッドに入る。眠れない日々は現実を損ねるという実感がある。

毎日、人の声を聞きながらでなければ眠れません。怖い話を聞いて眠るなんて人に言うと、たいていは気味悪がられる。でもこれが一番罪悪感なく、生を実感できる方法なんだ、と多分僕は感じています。

現実に起こったニュースを見るとやっぱり落ち込む。現実が一つ潰えてしまった恐怖。そして、誰かの死や、誰かの失敗にホッとしている自分を見つけるときに感じる失望。

『ファイトクラブ』の「ぼく」が生の実感を得るために重い病気を持つ人たちの集会に行かねばならない気持ちは、きっとこういう部分で繋がっているから分かる。誰の人生にもこういう部分があると思う。

ファイトクラブにおいて不眠症は比喩か?

ファイトクラブにおいて、不眠症は何かの比喩か?

そう思う。

僕は今毎日寝ているけれど、精神的に不眠の感覚がある。眠った気がしない。起きたとき、生まれ変わった気がしない。昨日を越えて、今日が来たという感じがせず、太陽に急かされて、昨日の続きをしなければならないという感覚。

地続きの世界。昨日と、今日と、明日の確かな連続を感じる。

朝起きると携帯に何らかの通知が来ていたりして、「いいね」がついていたり「スキ」がついていたりする。僕が寝ている間に僕が書いたものを読んだ人がいると強く感じる。

嬉しさの裏にある、現実からの逃げ切れなさ。やっぱり今日は昨日の続きだという絶望感を5倍くらいに希釈した感覚。

同時に、ああ、もっと多くの人に評価されたい、会ったことのない誰かの人生に良い形で関わりたい、誰かに褒められて、誰かを笑わせたり泣かせたりして、価値のある人間になりたいと思う。

そうして僕は僕の人生を充実させて、僕の人生を好きになりたい。

そんな欲望が僕の中に確かにあって、常に、何かしなくちゃ、何か考えなくちゃ、何か書かなくちゃという気持ちがある。

不眠症は、きっとこういう欲望を追いかけ続ける気分の比喩だと僕は思う。

完璧や理想を求めるが故に睡眠という大事な欲求が満たせないということもまた、皮肉な仕掛けだろう。

君は自分が生きていると心から感じているか

最近、君は自分が生きていると心から感じているか。『ファイト・クラブ』でパラニュークが僕たちに突き付けるのはこの問いである。周りの人たちの言うことを聞いて育ち、どうにかありついた仕事に就き、ようやく稼いだ金で物を買う。こうした日々の連続の中で、そもそも自分が何をしたかったのか、何が欲しかったのか、何をしているときが楽しいのか、そして誰を愛しているのかまでぼんやりとしてくる。そんなとき僕らは、いったい誰の人生を生きているのだろうか。

ファイト・クラブの解説の冒頭を引用しました。

君は自分が生きていると心から感じているか。

いったい誰の人生を生きているのだろうか。

『ファイト・クラブ』は物質社会的な完璧さ、消費社会的な充実の中にいる「ぼく」が主人公です。

資本主義経済と消費社会の組み合わせに終わりが来て、信用経済と創造社会の組み合わせが台頭しつつある現代では少々古い話なのかもしれないけれど、本質的な部分は変わっていないのではないでしょうか。だから今も読める。

いわば、物質社会を越え、現代的な精神的充実を得るという点で今も競争社会であり、誰もがいち早く「本当に自分がしたいこと」とか「なにより大事なもの」を探し、手に入れ、生きているというところを人に認めさせることで満足しようとする社会だと思います。

フォロワーが欲しいと思ってる、自分が発する情報を拡散して欲しいと思ってる、志や情熱を知ってほしいと思ってる。

そうして現代的な優越感を手に入れて、それで?

かつてハイセンスなモノを買って、カタログのような部屋を作って、消費を通して得た精神安定剤の代わりに、現代は「いいね」を、「スキ」を、「フォロワー」を集めようとしているだけじゃないか?

それで、じゃあ、そうやって楽しく生きられたとして、そんな自分が認められていると感じたとして、それは誰の人生なんだ。それは自分が本当に欲しいものだったのか?

その問いはまだまだ残ってる。自分は何なんだ。誰が描いた幻想を追っているんだ。

追わされている感覚。時代に、社会に、正しさを押し付けられている感覚。

自分が目指してる完全ってなんだ?完全の方から歩み寄ってきたとき、反射的にしかめっ面をしてしまうこの感覚はなんだ?

『ファイト・クラブ』の主人公はなぜ不眠症になったのか

『ファイト・クラブ』の主人公「ぼく」はそもそもなぜ不眠症になんてなったのでしょうか。

やっぱり、きっと社会に押し付けられる正しさに耐えられなかったからだと思う。

文章題だ。

僕の会社が製造した新型車がシカゴを出発し、時速100キロで西へ向かう途中でリアのディファレンシャルが焼きつき、衝突炎上して乗員全員が死亡した場合、僕の会社はその車種のリコールを実施するか。

市場に流通している車輛数(A)に、推定される欠陥発生率(B)をかけ、さらに一件当たりの平均示談解決額(C)をかける。

A×B×C=X。このXがリコールを実施しない場合のコストだ。

Xがリコールのコストを上回れば、会社はその車種をリコールし、誰も死なずに済む。

Xがリコールのコストを下回れば、会社はリコールを申請しない。

「ぼく」はリコール・コーディネーターです。

こういう仕事をしているのです。

これを当たり前だと言える人は、もしくは仕方ないと割り切れる人は不眠症になんてならないと思う。

職業はリコール・コーディネーターです。ぼくは隣のシートの使い捨ての友にそう打ち明ける。ただし皿洗いとしての未来へ着々と歩を進めています。

資本主義という正義に罪悪感はつき物なのか?

資本主義という正義の前に、罪悪感を抱くことは弱さなのか?

僕はたまにそう考えます。

例えば僕は書くことでお金を貰うけれど、完全にすべて誇りを持てるものではないです。

これは僕が書くべきことなのか?僕が書いて良いことなのか?調べ尽くして、考えを巡らせて「仕事」をするけれど、僕は本当にこの話題に興味があって、この悩みに関心を持っているのか?

男性不妊の啓蒙の記事を書くために、精液検査をしに行ったことがあります。医師に諭されて、結婚前にする必要のないことだと言われて、いろいろな恥ずかしさが込み上げたことがあります。

後ろにいた看護師さんが冷たい目で僕を見ている気がしましたし、診察後、ロビーで「ちゃんと種あったか?」と言ってきたおじさんがいました(幻聴かもしれない)。

日々この手の葛藤と膝を突き合わせながら、これは僕が書くべきことなのか?を考えます。ときにはお金のために仕事にとりかかることもあります。卑怯じゃないか?弱くないか?と思えば思うほど、ああ、延々と皿を割る仕事がしたい、とか思ったりする。

何と言うか、衝動的に、リセットを押したい、ぶち壊したいという気持ちになる。なんだこれ。僕はなんだ。

この衝動も、現代だからこそ抱く感情かもしれないです。

お金より大切なものがある、と言えばあまりにも陳腐だけど、現実、現代では、お金より大切なものを見つけて、自分の精神を損なうことなく、朗らかに生きなければならない感覚がある。

朗らかに、屈託なく生きられるか?という点は、完璧な人生に不可欠な要素であるように感じる。

『ファイト・クラブ』では、この「社会では無駄だが不可欠」という概念を「不眠症」に込めたのではないか。

「ぼく」は「man of the world」じゃなかった

『ファイト・クラブ』呼び水になっていつも思い出すのは、『アムステルダム』という小説の訳者あとがきです。

やっぱりちょっと長いけど引用したい。

前略‐クライヴにせよヴァ―ノンにせよ、一応の理性と良識を備えたman of the world(訳しにくい概念なのでそのまま出させていただく。無理に説明すれば、ちゃんと社会に適応していて、社会のちょっとした不正には目をつぶるだけの度量?のある人物、くらいのところ)だ。

クライヴは警察の捜査に協力するにあたってかつての自分の学生っぽい警察嫌いを反省しているし、ヴァ―ノンもまた保守政治家ガーモニーの外国人排斥・死刑復活・環境無視といった政策に怒りを覚えている「良識派」ではある。そういった不完全な善人・理性人たちの良心が堕落・崩壊していく過程が『アムステルダム』の軸にひとつだが、考えてみれば世のなかの人間の九割五分まで(もっといるか)はそういった不完全な善人であって、完全な善や理性がこの世に存在しにくいのと同様に完全な悪人というものは小説に登場するほどたくさんいはしない。新潮文庫『アムステルダム』訳者あとがきp207

「man of the world」という概念があることを知らず、何となく、それまで感じていた感覚に名前がついていたことに衝撃と感動を覚えた記憶があります。

覚悟ができた人間、社会において成熟した人間に感じる一種の鈍感さのようなもの。

「清濁併せのむ度量」

「酸いも甘いも噛みしめた経験」

そういうものが社会で認められるには必要で、信頼に足る人物の要件のような気がする。

『ファイト・クラブ』の「ぼく」は多分man of the worldな人物じゃなかったんだと思う。少なくとも、自分で自分に納得していなかった。だから不眠症にもなった。不完全な自分を取り巻く完璧が重荷だった。

だからタイラー・ダーデンや、タイラーが作るファイトクラブを必要としたのではないか。それはman of the worldというには少し行きすぎた人間だけど、「ぼく」が及び腰で守ってきた「完璧な人生」をぶち壊してくれる存在だった。

不完全な善人たる「ぼく」が耐えられないのは、自分が不完全な善人だということではなく、不完全な善人のまま完璧になれてしまっていることだったのだろうと僕は思う。

このギャップをぶち壊したい衝動というのは、やっぱりうまく説明できないけど、分かる気がする。

自家撞着の生

この暴力衝動が、現代にもあるはず。消費社会をとっくに通り越した今でも、いや今だからこそ、「man of the world」という概念をぶっちぎりたいような、自棄になった感覚。

不祥事・不正・痛ましい死が毎日溢れてる。熱狂的な視線を集めている。誰かが怒り、怒ることで正しくあろうとする姿がまた痛ましく、冷めた気持ちになる。

誰一人、誇れるような人間じゃないくせに。誰一人、人のこと言えた口じゃないくせに。

うるせえ俺はもっと俺なりに完璧になりたいの!という気持ちになる。

社会では無駄でも不可欠な自分になりたいの!

じゃあ具体的に自分はどうなりたいのか。自分が欲しいものは何なのか。

分かるようで分からない。

欲しいと思ったものを社会の顔色を窺うことなく欲しいと言えるか?

なりたい自分は社会に認められるものかどうか考えていないか?

こんなふうに、何か考えるごとに行き当たる自分の卑屈さに嫌気が差す部分が常にある。

社会では無駄だけど不可欠な自分なんて感覚、所詮社会がなければ抱けないじゃないか。あーもう、という気持ち。

結局僕は僕だけで自分を肯定することだってできないじゃないか。

そういううざったさをぶっちぎりたい気持ち。リセットしたい気持ち。社会を無視したい気持ち。

きっと、反抗心のようなものなんだと思うこの破壊衝動は。

この、何かを無視したい感覚とか、人の予想を裏切りたい感覚とか。

人の不幸に触れて、なぜかちょっと勇気が出たり、安心する感覚はあまりに複雑でまだうまく説明できないけれど、この感覚の延長線上にあることは確か。

僕と同じように他人の不幸に生を実感する「ぼく」の、完璧になどしないでくれ、助けてくれ、を読むために『ファイト・クラブ』を開く。自分を信頼できなくなったときに読む。

なぜか分からないけど、そういうときに読むと勇気が出る。

『ファイトクラブ』を読む/君は自分が生きていると心から感じるか。他人の不幸に癒される完全な人生について(完)

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