フラットで客観的な見方ができる人になりたい。朝は朝、夜は夜。晴れは晴れ。曇りは曇り

文明社会の独善的な僕ら。バカにされる優等生とそうじゃない優等生

ほんとに自分が嫌になる!僕たちが自己嫌悪に陥るのはなぜか。

僕らは今「ありのままに」、「自分らしく」生きることができているのか。

この三つの記事はいずれも同じことを書こうとして僕が試行錯誤を繰り返した跡なんだけど、「意味分かんない」って意見も聞こえたり聞こえなかったりなのでもっとしつこく書いていこうと思います。

僕が一番何を言いたいのかと言うと、僕らは勝手に「良さ」を決めつけておいて、その勝手に決めつけた良さを求めすぎなんじゃないかってこと。

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夜は悪さの比喩、朝は良さの比喩

例えば「明けない夜はない」とかっていう言葉があると思うけど、こういった言葉を使うとき、「夜」って言うのは悲劇とか苦痛とか不安とか絶望とか不幸とか、とにかくマイナスの属性を持つ何かの比喩として扱われていると思います。

対としての「朝」というのは、対のイメージなのですから当然プラスの属性を持つ何かを表していることになります。

こんな風に、勝手にイメージ付けしてるものっていっぱいありますよね。

そして、例えば「夜」みたいに勝手にマイナスのイメージに仕立て上げたものを、おせっかいにもこれまた勝手にプラスのイメージに仕立て上げたもの(朝の光とか)で照らすということをたくさんしてると思う。

それがちょっと強引で好きじゃない。

なぜ夜はマイナスで、朝はプラスのイメージなのか

慣用句の一切伝わらない融通の利かない系の人に「明けない夜はない」の意味を説明したとします。

「あー言いたいことは分かりましたけど、でもどうなんだろうな。どっちかって言うと今は朝が来る方が怖い人っていっぱいいるんじゃないですか?また出勤だよーって。目覚ましの音でノイローゼ、でも目覚ましなきゃ一生起きられない気がするし、背に腹は代えられないってことで嫌々ながらもタイマーを設置、夜寝ても疲れが取れず、気分的には毎朝充電48%くらいのスマホ持って出かけなきゃいけない感じのモヤモヤ感と不安感。むしろ日中をすっ飛ばして早く晩御飯の時間になんないかなって考えてる人いっぱいいると思いますよ」

この人が言いたかったのは、夜ってものにマイナスのイメージがつくことの不確かさです。

同時に「朝」にプラスのイメージがあることも、かなり恣意的な解釈によるものだと。

なんで夜にはマイナスのイメージがついてるの?

なんで朝にはプラスのイメージがついてるの?

2017年5月 以下太字部分 追記

ドラマ『カルテット』で、すずめちゃんが言ってたセリフが心に残ったのでメモです。この記事も伝わりやすくなると思う。

「でも、どうして曇ってると天気悪いって言うんですかね。良いも悪いも、曇りは曇りですよね。わたしは青空より曇った空の方が好きです。」

そうなんですよね。これは僕も疑問だった。

評価しないで見れば、朝も夜もただの朝と夜

朝は朝、夜は夜、晴れは晴れ、曇りは曇り、良いも悪いもありません。

というか状況と好みによるということですよね。

曇ったり雨が降ってたりすればそれは「悪いこと」で、晴れじゃなければと思うかもしれない。

「空模様」と「ご機嫌」はよくごっちゃにされるから、ここでも天気から人の感情に話しをすり替えたいと思います。

例えば「泣いている人」がいるとすれば、その人はただ泣いているだけであって、別にそれが良い状態であるか悪い状態であるかなんてことは、見る人の観測の仕方による。

泣いている人がいれば、それは「問題」で、「悪いこと」で、「マイナス」な出来事だと捉えれらるかもしれません。

同じく落ち込んでたり、怒ってたりすれば、それはゆゆしき出来事であり、解決すべきことだと捉えられるかもしれない。

もっと言えば、そういう「マイナス」な状態は異常で、人のあるべき姿は「笑顔」なのだと、僕たちは決めてしまっているかもしれない。

夜がただ夜で、曇りがただ曇りで、別に悪いものでも良いものでもないように、泣いている人はただ泣いているだけで、別に悪いものでも良いものでもないのだと僕は思います。

ときには自分の感情を殺しフラットな視点を持ちたい

とは言っても、身近な人が泣いていたらそりゃ心配するし、解決したようだったら嬉しいけど、それはこっちの勝手な気持ちの問題です。晴れを良いとするのと同じだと思う。

人が泣いたり怒ったりするのも、夜が来たり雨が降ったりするみたいに自然なことで、良いも悪いもないんじゃないかなと思うのです。

この記事で言いたいのは、僕たちは物事に勝手な評価を下しておきながら、その自分勝手な価値基準の中にある「良さ」を求めすぎだと言うことです。

少なくとも僕の中にはそういう傾向はある。

自分は明るく、機嫌良く、元気でいなければならないという強迫観念がある。

そしてそれを人に求めてしまうことがある。

身近な人や会う人が笑っていると嬉しいけど、みんながみんな笑顔を取り繕ってる景色も不気味。

独善的で、画一的な景色を作り、つまらない人間になっていく気がするという危機感がある。もやもやしていて、だからこんな文章を書いている。

判断や評価をしない観察者になりたい

そりゃ物事は正しい方が良いだろう、良い方が良いだろうと思う人が多いのは当たり前だと思うけど、だから、「正しさ」とか「良さ」を決めるのは僕ら一人一人の独断と偏見と先入観によるもので、言わずもがなの「正しさ」とか、付和雷同の「良さ」で出来上がった価値観は既にどうしようもなく偏っている。だから自ずと画一的な景色になるという話がしたいのです。

朝を求める気持ちに偏っている。晴れを求める気持ちに偏ってる。

明るい方に偏っていて、文明に偏っている。

あなたには『モモ』を読む時間はあるか。ミヒャエル・エンデと文化的なものの役割

これもあくまで僕の好みの話なんだけど、できればフラットなものの見方ができるようになりたい。

泣いているという状態に勝手なマイナスの判断を下して勝手に嫌な気持ちになって、その状態を無暗に否定するような人にはなりたくない。

泣いている人は紛れもなく泣いていて、泣いてるから泣いてるのであって、それ以上でも以下でもなく、悪い状態でも良い状態でもない。ましてや間違っている訳でも正しい訳でもない。自然な流れの一つの場面だと思う。

物事を評価せず、判断せず、先入観や刷り込まれた価値観を捨てて物事をフラットに見る方がずっと難しいし、意識的になるとしたらそこだと僕は思う。

僕はそういうことができる観察者になりたい。

フラットで客観的な見方ができる人になりたい。朝は朝、夜は夜。晴れは晴れ。曇りは曇り(完)

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