まちおこしとパターン・ランゲージと明石家さんま/手段を目的に変えないために、徹底的に意識したいこと

「創造社会論」の講義が面白い。

本当はもっとガリガリ記事を書こうと思っていたけれど、参考になるところが思いのほか多くて、咀嚼に時間がかかります。

創造社会論の最大の目的であるパターン・ランゲージの抽出とはどういうことかと言うと、ある問題の発見や、解決に適した方法、本来言葉に出来ないちょっとしたコツだとか勘所、考え方、やり方みたいなものを、あえて言語化しようとするという作業、のようです。

だからこそ人間の共同体、組織、ひいては個人同士のやりとりなど、どんなパターンを抽出し、どのように適用するかによって、応用の幅はものすごいのではないかと僕は感じるのです。

そのパターン・ランゲージを創造社会論では「創造社会」における共同体の形成だとか問題の発見、解決に使えるパターンという前提があるようだけど、このブログで目標とするのは「まちおこしのパターン抽出」を目的とし、少しだけ身近に、スケールを縮めて考えていこうと思います。

今日は、その前にもうちょっと「パターン・ランゲージ」ってどんなものなんだろう?というところを掘り下げて考えたい。

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僕がパターン・ランゲージに親しみやすいワケ

「パターン・ランゲージ」は文字通りパターンの言葉です。

ある事象を概念的に捉え、自分なりの言葉に翻訳しようという試みであって、新しい言葉を作るような創造性が備わっています。

考えてみれば、人は必ず自分の言語に翻訳しなければ物事を理解できません。

例えば「ゴトーを追いながら(現在更新してません)」というブログでは自然を対象とした観察をしていますが、何かを理解しようとしたとき、自然が持つ意味や文脈を、こちらの言葉で解釈、理解しなければならないのです。

例えば、「ツバメが低く飛んだら雨が降る」とかって言うのは、別にツバメが僕たちに天気を知らせるために低く飛んでいる訳ではないし、本人(本鳥?)たちも「雨降るから低く飛ぼう」って考えてる訳ではないかもしれません。

だけど、僕たちはそういったサインとその後に起きることから、「ツバメが低く飛ぶこと」を解釈し、意味を理解する。

そして「ツバメが低く飛んだら雨」という一種のパターンを得て、知識とする。これもパターン・ランゲージの一種なのでしょう。

このように見ていくと、自然には様々な意味があり、痕跡があり、文脈がある。一度フラットに眺め、そして頭の中で創造の過程があり、意味となる。このプロセスが大事だと思っています。

そんなことを考えているからパターン・ランゲージには親しみやすかった。

歩み寄りの態度、理解しようとする気持ち

そして何より、僕は言語を学ぼうとする人が好きなのです。

昔日本語教師になる勉強をしていたことがあって、なんでそんな勉強をしていたかと言うと、単純にざっくり言語というものに興味があったのと、日本語を学ぶ学習者がかわいらしいと思ったからです。

かわいいと言ったら語弊があるかもしれないけど、男女問わずね。

だって、意思疎通のため、理解のために、こちらの言語に歩み寄ってくれているんですよそういう人たちは。それが嬉しいことだと思った。

そういう、理解しようとする態度ってとても善良なことだと思うので、僕もそのことを肝に銘じて外国語を勉強するのですけど、これが異常に難しいんですよね。

言語って扱えるようになることが目的じゃなくて、どこまで行っても意思疎通とか理解のための手段です。

意思疎通のためとかって本来の目的を忘れてしまって、「扱えることだけに満足」していてはコミュニケーションなんて覚束ないでしょう。

パターンを重ねても、そのものにはなれない

こちらの講義で、「パターンを真似てもその人そのものにはなれなくて、自分にしかなれない」なんて話をしていました。

上記は発言ママの引用ではないのですが、井庭先生と田中浩也先生がこんな会話をしてたよって話しね。

「その人そのものにはなれないけど、その人から学ぶことはできる」

これは井庭先生が言っていたのですが、パターン・ランゲージはだから「目的」にはならないのでしょう。

あくまで目的達成だとか問題解決だとか、それはなんでも良いんだけどどこまで行っても手段でしかなく、そういう意味で普遍性を持った言語にまで純度を高められてこそ、有益となる→必要なときに使える、ということだと思います。

だって、例えばお笑いの世界で頂点に君臨しようとか思って、まあ、さんまさんとかを研究する、とする。

それで実際学べるところはたくさんあって、「ノリツッコミのテンポ」「けなしと褒めのバランス」とか、「ひき笑い」とか、色々あるのですよきっと。

でもだからって「ひき笑い」の練習しててもダメだし、テンポや口調を真似したって駄目。俺はさんまさんと違って関西弁じゃないから面白くないんだなんて言ってたらおかしいですよね。

さんまさんに憧れて、さんまさん持っている色々を真似しても、さんまさんにはなれない。

さんまさんにはなれないけど、さんまさんから純度の高いさんまさんを掘り出すことはできる。

こんなの当たり前のことでみんな分かっているはずなんだけど、手段と目的がごっちゃになってしまうことってよくあるはずです。

「ひき笑い」ができるようになったからって、さんまさんにはなれないし、もっと言えばそれはまだ純度が低くて、さんまさんが自然に出してる「癖」が面白かったり、「面白そうに笑ってくれる」という人間性が周りのゲストをリラックスさせて、ついみんな笑ってしまって、全体がほっこりする、みたいなところまで分析できる訳です。

じゃあそのためにはどうしたら良いだろう。自分にはどんな風に場を和ませることができるだろうと考えてやっと、さんまさんに学んだことになるし、オリジナルの自分になる。

「パターン・ランゲージ(普遍性を持つ言葉)」はそのオリジナルに至るまでの道具なのです。

「あなたはあなたにしかなれない」とは田中先生が、「でも人に学ぶところはある」は井庭先生がそれぞれ言っていたことだけど、この二人の話しほんと二人が面白そうにしているから面白い。

学ぶ姿を見せるって大事だなと思わせる講義です。

学びにもセンスが必要だとして/田舎に必要な教育、学習についての愚考

まちおこしのパターン

こうして見ていくと、けっこうみんな分かってることだったり、自然にやってることだと思うのです。

「青は藍より出でて藍より青し」って言葉もあるくらいで、最初は師匠のコピーみたいなものなんだけど、だんだん純度が上がってきて、完全に自分のものにしちゃって、弟子の方が更に磨かれた状態のオリジナルになる。

昔からそういうもんだってみんな知ってることだから、仮に誰かが誰かに憧れたとしても、さんまさんの「ひき笑い」や「口調」を真似ようなんてことをする人はいないはず。

自分は自分でしかありえないことも、手段は目的にはなり得ず、そこで満足していては結局何にもならないということもみんな経験的に知っている。

でも「まちおこし」とかってどうだろう。

手段が目的化してしまっていることが結構あると思う。

いやもちろん観光客増加のためとか、知名度アップのためとか、一応目的があって手段があるのだけど、やっぱりその手段をこなすことに重きを置いてる、ように見える。やってること自体に意味がある、みたいな。

跋扈するゆるキャラ、溢れかえる新商品、プレミアム商品券がどうとか。

少し個人的なレベルに落としても、空き家事業とか、田舎暮らし体験とか、自給自足だとか、田舎×アート、田舎×ITとか色々「パターン」がある。

それら全て必要だったり素晴らしいことだと思うし、僕も朝日町にあったら良いのになってこともあるけれど、それを作ること自体が目的になってしまったらオリジナルになんて絶対ならない。

つまりそういったものを作った時点では「まちおこし」にも「まちづくり」にもならない。

今の時代にどこでもやってることをやったってだけの田舎町で、ちょっと移住者は増えたらしいよ的な、時代の流れ上自然な成り行きの一部分でしかない。

あなただけのオリジナルを生み出すための道具

あなたが外国語を覚えるのはその外国語を使えるようになることが目的ではなく、あなたの気持ちを相手の言葉で「伝えられる」ことに意味があります。

「ありがとう」という言葉は同じでも、あなたが伝えようとする「ありがとう」と、他の誰かが言った「ありがとう」は別の言葉なはずなのです。

さらに、「ありがとう」を言うことが目的なのではなく、「ありがとう」を伝えることが目的、です。

だけど最低限の共通部分、つまり普遍性で以って、それは「言葉」として成り立っているのだから「ありがとう」は一応「感謝の気持ちを表す言葉」なのです。

「パターン・ランゲージ」は、「言葉」である故に普遍性を持ち、どこまで行っても道具的であり、あらゆる状況で「あなただけのオリジナル」を産み出すために使うものだ、ということです。意識し続けたいのは。

まちおこしとパターン・ランゲージ/手段を目的に変えないために、徹底的に意識したいこと(完)

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