みんな「優しい」のはどうしてだろう。

本当の優しさって何ですかみたいな話になるとややこしいから議論は避けるけれど、少なくとも僕のこれまでの乏しい人生経験に照らし合わせてみれば、世の中には優しい人が多い。

怒られたり睨まれたり嫌味を言われたり冷たくあしらわれたり嫌悪感を露わにされたりしたことはもちろんあるけれど、僕に対してそんな風だった人も含めて、結局のところたいていの人は普段優しい。

というのが、今日の記事のスタート地点です。

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人はみんな合理的に優しい、優しい状態が相応しいから優しい

開高健のエッセイにこんなことが書いてありました。

戦争は政治の延長だが、だから日常の延長なのでもあり、タバコ屋は殺人鬼になるのではなくて、タバコ屋は殺人鬼なのである。殺人鬼は廃墟のベルリンにもどってタバコ屋になるのではなく、もどるのでもなく、棍棒のかわりに切手、威嚇のかわりに微笑を抱くだけのことなのである。

人はなぜ優しいのかと言えば、優しいことが楽だから、自然だから、社会で必要だから、武器になるから優しいのだと思います。

ちなみに余談になりますが上に挙げた文の続き

こういうことはいまさらクドクドしく書くことはない。ドストエフスキーがとっくに喝破していることである。ことあたらしく書くのが恥ずかしいようなものである。

じゃあそれを引用してここに書くのはさらに恥ずかしいですよね…。それにしてもドストエフスキーが喝破してるのですか。全集とか読んだら分かりますか。それとも『罪と罰』で十分ですか。

さて、話を戻します。僕らが日ごろ出会う人は、良い人だから優しいのでもないし、悪い人だから優しくないのでもなく、優しい方が得られるものが多いから優しい。

あくまで合理的な判断によるもので、何より優しくいることが一番楽だという成熟した社会に暮らしているからこそ、たいていの人は優しい。

常に警戒を怠らず、人を信用せず、来るヤツ来るヤツみんな敵だと思っていた方が生き延びれるような荒廃した社会なのだとしたら、世の中に優しい人なんて滅多にいないということになるでしょう。

優しくしない理由がないから優しい

もちろん、環境以前に、怒っているよりは優しい気持ちでいる方が絶対的に楽だということはあると思います。

優しい人を指して「穏やかな性格」と言うこともありますし、いつもピリピリしているよりは穏やかでいる方が普通に楽。穏やかなんだもの。だから性善説とかそういうんじゃないけど、優しい方が自然なのではないでしょうか。

よってたいていの人が優しいのは、別に優しくしない理由がないからとも言えると思います。

だから、この社会において「優しい」というパーソナリティは言う程の高評価を得られないものなんじゃないかと思うし、優しくされたくらいでいちいち感動もしてられない。

普通じゃん?優しいって。って感じです。

だからむしろ厳しく接してくれる人にこそ優しさ感じられてしまったりする。見ようによっては人に厳しくするというしんどいことをして、つまり身を削ってまで叱ってくれるのですから、それはありがたいことです。

大人なのに叱られるって恥ずかしいから皆優しい

しかし正直、個人的にはそういうモノの見方はあまり好きではありません。

多分大人になるに従って叱られることも少なくなり、怒ったり突き放したりするしんどさを知るにつれ、優しいだけじゃない人の存在がマジでありがたくなるものなのだと思いますが、それでもやはり甘やかされる快感も忘れたワケじゃないでしょう。

日常で褒めてくれと思う割合と、叱ってくれ、怒ってくれと思う割合で言ったら、褒めてくれと思う日の方が多いに決まってる。9割方は褒めてほしいけど、たまに慢心を正すために一喝して欲しいって言うのがリアルな願望ではないでしょうか。

実際、ただ感情に身を任せて怒ることもありますよね。憎たらしくて冷たくすることも、何度言っても分かんねえから声を荒げることも、傷つけたくて悪態をつくこともあるはず。というかそっちの方が圧倒的に多いと思う。

それを「優しさの表れ」として処理するのって、かなり現実を歪めた見方だし、勝手に良い人認定しないでよって話だし、つまるところそういう「解釈」も処世術の一つでしょうと。

怒られた、叱られたって思うとあまりにショッキングだから、あの人は無骨なところもあるけど私のこと良く見ててくれたんだなとかって無理やり善性と結び付けて身を守ろうとする。

「大人になると叱ってくれる人がありがたい」って、嫌らしい言い方をすれば「大人になったのにマジで怒られるなんて恥ずかしいから、叱る方になんか深い思惑があったっぽく見せないとやってられない」ってことだと思うのです。

解釈を歪めて悪感情に蓋をする

この社会では、人は優しくある方が自然だし、楽です。

それは自分を軸に考えてもそうなんだけど、何より他人を軸に考えたときも「あの人は優しい」と思っていた方が楽。

あの手この手で、僕たちは「優しい人」に仕立て上げられてしまっていると言えば、社会の闇が垣間見えるとまでは言わないまでも、この文明社会が均等に均されるものだというパワーを感じます。

どんなものも好意的に解釈すれば好ましいものになってしまうというのも、全てを敵視し否定的に解釈し、卑屈に生きるのと同じくらい暴力的ではないでしょうか。

もちろん、優しい人は優しく、怒りやすい人は怒りやすく、冷たい人は冷たく、明るい人は明るいという風に普通に歪みなくありのままに見ている人の方が多いのだと思います。

だけど僕らはたまに、解釈を歪めて悪感情に蓋をするという姑息な手段を取ることもあるということを、何となく書いておこうと思ったのです。

みんな「優しい」のはどうしてだろう。(完)

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