「ものがたり的な視点」と「主人公のポジション」を明け渡す感覚

文明と文化

ものがたり的な視点

という記事をこないだ書いたのですが、そこで言いたかったことも多分こういうことなんだよなと思ったので、多分ここは僕にとって大事なところだぞという予感がする、ということで改めて書き直し、伝わった感が持てるまで重ね書きです。

この記事で書き足りなかったと感じたらまた次回も同じようなこと書きます。

すみませんがお付き合いくださると嬉しいです。

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主体に意識が偏る時代

すごく極端に言えば、僕ら今けっこう「俺が俺が状態」だと思う。

小難しく言えば「主体に意識が偏る時代」

もちろん僕も例外ではないので自戒を込めて言っていることではあるけれど、みんながひな壇芸人というか、あわよくば目立とう、あわよくば認められよう、あわよくばもっと自分の人生に充実を、みたいなギラギラ感があるんじゃないか。

こう言われるとなんか違うと思うかもしれませんが、個人が発信力を持ち、自分の価値観に合わせて人生をデザインするという流れが一般化していくにつれて、今までは○○会社の何々さんみたいな「所属意識」が強かったのに、自分は自分である、塚田は塚田である(僕です)という自己完結意識が強くなった気がする。

その結果の「俺が俺が状態」。

自分のものの見方、考え方、生き方と言った人生を構成するレシピを一番把握しているのは自分で、それをどう料理するかという責任は自分にかかってるんだっていう気持ちが強くなったが故の自意識過剰さ。

誤解されたくないのですが、それが悪いと言ってるわけでも、嫌だと言ってるわけでもないです。むしろその方が気持ち良いとすら思うし、そういう、人生の主役は他ならぬ自分だという人の話を聞きたいと思う。

じゃあ何が気に入らんの?と聞かれれば、そういう「生き方への姿勢」に付随する情報の偏りとも言うべきものです。

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あなたは何を伝えようとしているのか

まったく意味が分からないと思うので例を出します。

例えば、「自分の気持ちを上手に伝える方法」は調べればすぐ分かる。

でも、「〇〇さん(特定の誰かの名前)の気持ちを理解する方法」は分からない。

この偏り。

やはり意味が分からないですかね。

例えば「キレイな文字を書くコツ」は調べればすぐ分かるし、本屋さんにもそういう本はあるだろう。

でも、「3歳の娘がはじめて僕に書いたお手紙(字が汚い)に何が書いてあるか?」を調べようとしてもネットじゃ分からない。本人に詳しく聞くしかないけど、読めないよとか言って傷つけたくないし、必死で考えるけど、やっぱり読めない、というとき、僕らが端末からアクセスできる情報に答えはない。

ありがとう、お返事書くねと言ったら喜ぶ。ああ、それで良かったのかと気づく。伝わったという感じだけで、この子は喜ぶんだって知る。じゃあもっと知らなくちゃ。よかったら、声に出して読んでもらえないかなって聞く。読んでもらって分かるところと、自分でも読めてねえじゃねえかってところがあって、本人も伝わらなかった部分に気づく。

こういう風に、「相手の伝えたいを尊重する」情報が乏しい。

とはいえこれはネット上の情報の性質上仕方ないことで、乏しいというか上記のように「本人によく聞く」しかないことだから情報として整理するのは難しいんだけど、なんやかんや世に溢れる情報はどれも「自分が主体になり過ぎ」という偏りがある、もしくは「生き方の姿勢の偏り」を反映してると感じます。

処世術としての聞く力‐この偏り

ちなみに相手のことを理解しようと考えて、「人の話を聞く力」というようなキーワードを打ち込むとする。すると「人の話を聞く力」について知ることはできます。相手の話を聞くコツみたいなもの。

でもそれはビジネスに役立つとか、人の心を開いて目的を達成するとかが後ろについてる感じがあって、結局自分のためのスキルとして扱われてるような。

それに文句を言ってるわけじゃないよ。偏りの話です。

あくまで「自分の人生を良くするため」の情報で、身近な誰々さんの気持ちを知ることや、娘が自分のために頑張って書いた文字を理解することで、あなたは何を考えているんですか?何を伝えようとしているのですか?という他人を主体にして視点は欠けがち。

相手をコントロールするための、処世術としての「聞く力」、あえて穿った捉え方をすれば、究極相手が何を考えていても、何を伝えんとしていても関係なく、自分のことを伝えようとする意思と同じほどの切実さが、他人を理解しようとするときにはない。僕らはどうしてもそういうものだと思う。この時代とかに限らず。

誰かに自分のことを理解してもらうのは不可能で、同じように誰かのことを理解するのは不可能なんだけど、だからこそお互いに「理解しようとする」ことが大事で、「自分が理解して欲しい程度には相手も理解して欲しいと思っている」ということは忘れない方が良いのではないかなと思います。

繰り返すけど自戒を込めて言ってる。書いててお前自分のことばっかりじゃねえかってブーメランが突き刺さってるけど、心の中の僕が、僕のブログなんだから良いだろって言ってる。理解して欲しいなっていつも思いながら書いてる。

誰かと対面するときくらいは、相手が主人公で自分が脇役になっても良いんじゃないか

そして最後にやっと「主人公というポジションを与える」「ものがたり的な視点」というキーワードについてなんだけど、この真意は、「ときに主役の座を相手に明け渡して、理解する姿勢をとってみたいね」というようなことです。

それがなんで「ものがたり的な視点」という言葉になるのかと言うと、小説とか書いてると、自分がその主人公のことを理解しようってずっと努力してるのが分かるんですよね。

こいつだったらこういうときなんて言うかな。なんでここでこんなこと言ったんだろうな。なにが気に入らなかった?何が不安に感じた?これは楽しいのか。この人は好きで、この人は苦手なのか。じゃあ次はどうするの?ってずっと考えて、本当に一人の人間を産んでしまうほど、どこかにいても驚かないほど、他者のことを考えてる。(あ、子どもができたりすると主役が子どもになったりするのかも)。

こう書けば、「主人公というポジションを与える」と「ものがたり的な視点」というワードが繋がってるのが分かってもらえるんじゃないかなと思う。

それを僕は「何かを伝えようとする誰か」にもしたい。そんな風に誰かの人生に関わって、誰かの物語を垣間見られるような仕事ができたら僕は楽しいと思うし、どうしたって自分の人生の主役は自分なんだから、誰かと対面するときくらい、相手の物語の一部、脇役、ちょい役として自分を意識してみても良いんじゃないかって思う。

 

「ものがたり的な視点」と「主人公のポジション」を明け渡す感覚(完)

 

見せるタイプのメモ

これ書いてる今、うちの猫が隣でにゃーにゃ―言ってる。

例えば、猫の鳴き声や仕草から気持ちを推測するために検索するときは、わりと主体が猫にあるような気がする。

うちの猫様は何を仰っているのだろう、何がご不満だろうという感じで自分を後回しにしてる感覚がある。猫の満たされた顔を見て満足する。静まられたと感じて安心する。

神託を聞こうとするときの心境に似てる?

相手のメッセージを尊重しすぎる姿勢は宗教めくか。

伝達と理解は相互的な「やりとり」でなければ。

やりとりが文化。

相互的な理解しようとする姿勢。

「自分のことは他人に伝わらない」という前提がなければ、言葉や文字といったコミュニケーションツールの有用性がなくなる。

伝わることが前提の姿勢、理解したいようにしか理解しない姿勢も宗教めくか。

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