なぜ僕らは個性を認めて欲しいんだろう。
何となくだけど、僕らだんだんと「個性を認めて欲しい」という気持ちが強くなっていってると思いませんか。
そんなことないだろうか。自分が自分である理由とか、自分じゃなきゃダメだと信じたい気持ちとか、そういうところが社会全体で増してきているような感じはしないだろうか。
これはただ僕がそうなっているだけで、社会なんて大それたレベルの話ではないのかもしれません。
また、僕がこうして文章を書くようなことをしているからこそ、「自分にしか書けないことを書きたい」「有象無象の一つになりたくない」という気持ちが強いだけかもしれない。
んーでも、やっぱり僕らは今後もっと「個性を認めてほしい」時代に生きると思う。
そして仕事場や地域と言ったコミュニティは、個人の「個性を認めて欲しい」欲望を満たすためのデザインがされていくと思う。
そのデザインっていうのは、これまで社会を席巻していた無暗な成長や拡大といった正義とは反対で、「小さくまとまる」「細分化する」といった方法論で展開されていくと思う。
この説明しにくい何となくの感覚を肯定するために、「個性」について色々考えてみたいと思います。
まず、個性ってなんだろう…というところから。
僕らには個性があったりなかったり
個性ってなんだろう。
言うまでもなく、僕らは一人ひとり違います。同じ人間なんて二人として存在しません。
しかしそれはただの事実であって、だからと言ってみんな世界で一つだけの花で、それぞれかけがえのない存在なんだとは僕は思いません。
深く関わりのある人と、お店の店員さんレベルの関わりとでは、自分の人生の中での重要度が違うことは当たり前で、そう考えるとほとんどの人にとってほとんどの人は代替可能な、全然唯一無二じゃない、漠然とした「人」です。
しかし、僕にとってかけがえなくない人も、その人の個人的な人間関係の中ではかけがえのない存在であるはず。
つまりかけがえのなさというものにはムラがあって、距離感と観測地点の問題ということになります。
俯瞰すれば誰もがありふれた有象無象だし、近接すれば誰もがかけがえのない個人ということになる。
では、グローバル社会と呼ばれるほど人類の視野が広くなり、極大の俯瞰図を眺められるこの時代、それぞれが「個性」を出し、かけがえのない存在となることは果たして可能でしょうか?
そもそもその意味があるのでしょうか。
ちいさくまとまれば「個性」は浮彫になるもの
コミュニティが大きくなればなるほど、個性を出すのは難しくなると思います。
だって俯瞰すればどんな人も「よくいる人」になるものでしょう。
例えば僕だったら、ワーホリ制度を使い、約一年くらいオーストラリアで生活していたことがあるのですが、それって全然珍しくないどころか、掃いて捨てるくらいの経験でしかありません。
また、僕はご覧の通り、ブログを書いています。
身近な人間の中では(小中校大の同級生を見渡してみても)珍しいことです。
それどころか小説まで書いて公開しています。こうなると知り合いではほぼいません。
じゃあ僕はこの社会において、個性的で珍しい人間か?と聞かれると、まったくそんなことはありません。超平凡で、やはり掃いて捨てるほどいる個性の一つでしかありません。
ワーホリで海外なんて珍しくも何ともないことが向こうであった日本人の多さから分かるし、ブログやってたらブログ書いてる人がゴマンといることが分かるし、アマチュアの小説家だってWEB上で呆れかえるほどいることが分かります。
拾い視野で見れば僕はどの面をとっても個性的でもなんでもないけど、所属するコミュニティを小さくすれば、個性を得るのは簡単だと思います。
どれだけありふれた性格でも、小さなコミュニティの中では個性的になれるということかもしれません。
だから、これまでは視野を広げることが正義とされてきたけれど、視野を狭めるというか、あえて限定するという発想が必要になってくるんじゃないかなと思うのです。
全然注目されない小さなコミュニティで、誰も知らない冒険をしよう。
特別だと誰かに言ってもらいたい僕ら
なぜ僕たちには「個性」が必要なのでしょうか。
僕らはもともと誰とも重ならない完全オリジナルの唯一無二なのに。
もし、僕らには個性が必要なのだと感じるのだとしたら、それは僕らが社会的な動物で、他社の承認がなければ不満に思ってしまう生き物だからなのかもしれません。
つまり、自分が他者と違うことは分かりきっているけれど、それを他人に認めてもらえなければ気が済まないからこそ、個性が必要ということ。
お前は唯一無二だ、他とは違う、お前じゃなきゃダメだといちいち確認できなければ、自分の存在意義なんかすぐにでもなくなってしまうという危機感がある、とか。
実際のところ誰もが誰かの特別になりたいものですし、社会において特別な存在になることはそのまま経済的な価値につながるので、道具的に個性というものを見つめる人もいるでしょう。
いずれにせよ、僕らは個性が欲しい。あなたは別の人と違うという確固とした何かが欲しい。
そうじゃないと惨めな感じになって、虚勢を張ったりなんだりするのも疲れてしまって、手軽に過激なことをしてしまいそうになって、これが自分らしさなんだろうかとか迷うことになるかもしれないから。