与えられる価値はたかが知れているという感覚

このブログのテーマの一つとして、「創造」とか「創作活動」があり、かつて「創造社会論」っていう大学の講義をもとに記事を書いたこともあります。

こういうやつ。なんかややこしいから読むことないけど興味ある方は覗いてみてください。

聞く人の創造性を刺激する伝え方の参考書/プレゼンテーション・パターン

僕が臨む(望む)学問/個人で社会の仕組みまで作る時代に

重要なのは、消費社会→情報社会→創造社会っていう風に時代の流れがあって、生き方はこれ一つという時代じゃ全然なくなって、それぞれが自分の人生をアレンジ、もしくはカスタマイズする幅が広くなっているということ。

時代を遡れば遡るほど、僕らの生き方はパターンが限られていて、生まれた場所によって人生がどうなるのかもだいたい決まっていたのですよね?少なくとも大雑把なイメージではそう。

でも、今はどこの土地のどんな家柄に生まれたからと言って、その人の人生が自動的に決定する訳ではない。武士の家系だから武士にならなきゃいけない訳じゃないし、農家に生まれたからって農家をやらなきゃいけない訳じゃない。かつては3つくらいのプランから選ばざるを得なかったかもだけど、これからは人の数だけ人生プランがあると言っても過言ではない。

人の数だけプランがあるなら、それはもうプランというのは間違いで、常にオリジナルのものであって、そういう訳で僕らの人生は少なからず必然的に創造的になりがちだという話。

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人生丸ごとお買い物

もちろん、どんな創作も完全なオリジナルというのはありえません。

どんなものもかならず過去の傑作を踏襲しており、パターンがあるからアレンジがあり、王道があるからこそ外したときに意外性が生まれる。

アレンジ度が低い人生もあれば、未だかつて見たことないと錯覚されるような人生があることでしょうが、いずれにせよ、たくさんの選択肢の中から自分で選んで、自分で作り上げていく必要性が高いという意味では、現代に生きる僕らの人生はかつての人々の人生より創造的です。

その前提を踏まえた上で考えたいのは、消費社会と創造社会の違いです。

考えてみれば、我々の生活というものはお買い物めいています。

こんな生活をするならこれくらいのお金が必要で、こんな人生を送るのであればこれくらいのコストがかかるということがだいたい決まっているように見える。

例えば、結婚して子どもは二人くらい欲しい、子どももいるしそれなりの家が欲しいといういわゆるひと昔前の「普通」の人生を思い描いたとき、深く考えなくてもお金がかかることは分かります。

つぶさに見ていくと実際にかかるコストは人により全然違うんだろうからあんまり深く突っ込まないけど、印象として、世間一般に認知されている「ちゃんとした生活」を送るためにはそれなりのコストがかかる。

それってとても消費的だなと思ったことが昔あったのです。

無難な道が一番お金かかる

人生がお買い物チックだっていうのは大学生時代に思ったことなんだけど、服のお買い物中、「自分くらいの年代であればこれくらいの価格帯の服を買わなきゃ」って強く意識してたことがあって、あれ待てよ、この感覚ってこのままずっと続くんだろうかって思ったのが最初でした。

僕はあんまり服に興味ない方だと思うからあまり頻繁に買い物するわけではなかったけど、買い物に出かけたらやっぱり人目は気にして、大学生が行くっぽいお店に行ったりしてたし、何となくみんな着てそうな服、誰でも似合いそうな選んでました。

オシャレさんなら古着屋でコーディネートとかできるんだろうけど、僕にはセンスも何もないもので、無難なものを選ぶことに汲々としてたのです。

でも恥ずかしいことに、無難なものを選んでたって今になったら言えるけど、当時は自分が好きで、あくまで自分のセンスでそれを選んでるって思ってたんですよね。その結果があんまり奇抜でなく、大学生として何となく街に溶け込めていたらそれで満足していた。

無難を選ぶのが一番お金かかるわけです。主体性なく一番オーソドックスな、王道な、違和感のないものを選ぼうとするとアレンジができないから、一着の使える幅が少なくて、新しい服買ったらそれ用にまた新しい服買わなきゃならないみたいな。

人生全体に敷衍してみてもこの感じはあって、とりあえず大学行って、就活して、社会人になってという風にステージを進む毎に、例えばこのくらいの年代ならそろそろ車持ってなきゃとか、結婚するならこれくらいの式挙げなくちゃとか、社会人なんだからスーツはこれくらいのとかが絶対ある。

でも「普通」ってなに、「基準」ってどこに合わせてるのってことが全然分からない昨今では、「人並み」が幻想になりつつありますよね。

自分で選ぶ、自分が選ぶ人生

誤解しないで欲しいのは、そういうのが悪いと言っているわけではないということです。

無難って、言い方を変えれば王道な感性とか、時代感覚を持ってるってことだから、言わば基礎です。あらゆる創作は基礎の応用とアレンジなのだから、これを意識しないとか無暗に避けるというのも違うと思う。

だからやたら主体性がないのが嫌だとか恥ずかしいとか言ってるのではなくて、僕が自分自身に問題を感じているのは、「こだわらないことに限って金がかかる」という社会の現象を忘れがちなことです。

洋服の例をまた出すけど、こだわる人は古着を使いまわしたり、作っちゃったり、修理したりして、そもそも大切に使うから、コストを抑えつつも最大限の楽しみ方をするのです。

もちろんお金を貯めて憧れのブランドをゲットするみたいなのも楽しみ方だから、人並み以上にお金かけるというのも一つの道です。

こういう話しだすとややこしいからとりあえずスルーするけど、言いたいのは、お金使うも使わないも裏表の関係で、「自分で選ぶ、自分が選ぶ」のが大切だということ。

自分の中で重要だと思ってることであればお金がなきゃままならないということはないはずだし、反対にお金を非常識なくらいかけるのも自由、ここにオリジナリティが生まれるのだから、「普通」を維持するのにかかるお金が高価なのはなんか悔しいよねってことです。

あくまで僕の場合はだけど、人生のだいたいのことはこだわらないし自分の中に知識も好みもないから、何か買うってとき「みんなどんなの使ってるのかなー」とか「普通どのくらいのヤツ買うんだろう」ってチラ見しちゃう訳ですし普通これくらいですよと言われればそうですかって買っちゃう。

それで安心もする。でもそんな安心を買うコストが高い。

与えられる価値はたかが知れているという感覚

最後にちょっと強引にまとめです。

この記事で書きたかったことは、消費社会と創造社会の違いです。

消費社会的な人生がお買い物だと言い切るとすれば、こだわりを持たなければもたないほどコストがかかるという構造があると思います(こだわりを持ってないという感覚もないままに)。

一方、不景気ってのもあって、みんながみんなそんなお金稼げる訳じゃないよ、夢のマイホームに家族四人ってのが必ずしも王道な人生じゃないよって感じの昨今、こだわったり工夫したりすることで人生にかかるコストを下げる道というものも台頭してきました。

こだわりとか工夫って簡単に言えば「手作り」や「手間をかける」というところに行きつくんだけど、人生のあらゆる場面で、真剣なことには時間をかけて、どうでも良いことはケチってという風に工夫する人が増えた気がする(工夫のひとつにお金をかけるという方法もある)。

んー例えば休みの日に遊ぶとしても、「テーマパーク」とか、奮発して「良いお店」にご飯食べにいくとかが必ずしもベストではなくて、知らない町を歩いたり、DIYに励んだり、畑仕事したりする休みもそれなりに素敵だなと感じることが増えた。少なくとも僕はね。年齢的なもののせいかもしれないけど。

テーマパークとか温泉旅行とか一定の額を出せば楽しさは保障されてるしとても好きなんだけど、まあこんなもんだよねっていう多寡が知れてる感はどうしてもある。

既にある価値にお金を払う訳だから、品質は安心だし誰からもひんしゅく買わないけど、その分言われただけのコストはかかる。

これは洋服や休みの使い方に限らず、住む場所、仕事、老後と人生の様々なシーンで言えること。

最近では若者の○○離れがどうとか、購買意欲がなくなんとかって言われることも多いけど、「この与えられる価値は多寡が知れてるという感覚」はその原因としてほんとに強いと思う。

自分の人生なんだから誰しもある程度こだわりが強いはずで、今はこだわればこだわる程お金がかかるという訳でもない(昔の人がこだわりがないと言ってる訳じゃない。こだわり方が違うと言ってる)。

むしろこだわればこだわるほど(創造性を発揮するほど)、低コストでめちゃくちゃ楽しめるという実感がある僕らは、人生に対しても、絶対にお金がかかるわけじゃないと感じてるのではないかなと思う。

だから創造社会。

与えられる価値はたかが知れているという感覚(完)

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