人間観察からの卒業

人間観察を趣味としていたり、得意としている人は多いと思うけれど、自らの観察眼を自負すること、観察力を信頼することに関して、虚無感というか限界?もしくは不遜さを感じる人も多いのではないかと思います。

20歳前半の若い頃、僕は半ば意識的に人間を観察しました。観察対象は人間に限らず、自然やシステムなど、目に映るものを言葉で描写する練習をしました。

それが役に立っているかというとあまりそうは思わないけれど、ほんの少しだけ粘り強く文章を考える癖にはなったと思います。

自然で例を挙げれば、仮に「雪が降っている」という状況を言葉でどう説明しようかというとき、「雪が降っている」と単純に言っても良いですが、一口に雪と言ってもベタ雪やサラ雪、崩した発泡スチロールみたいな粒上の雪などがあることは念頭に置くべきだと思います。

またそれらを表現しようとするとき、ベタ雪と言えば雪国に住む人にはすんなり受け入れられるけれど、あまり雪に親しみの無い地域の方にも分かるフラットな表現をしたければ「水気の多い重い雪」と言うべきかもしれません。

またそれを感じるのはただ降っている雪に触れたときではなく雪かきのときであるし、それは必ずしも嫌な印象というわけでもありません。例えば雪だるまを作りたい、かまくらを作りたいというときはベタ雪でなければうまくいきません。状況や目的により天気の好感度は変わりますよね。

また、雪の形状に伴って必ず温度の違いがあること(極寒の日にベタ雪が降るということはあまり想像ができない)、気温に伴って足音の違いがあること、匂いを意識するとすれば、例えばマイナス10度程度になると匂いを感じるより先に鼻毛が凍る感覚の方が先に来ることなど、一つひとつ細かく観察し、総合的に雪が降る状況を再現し、その上で「転ぶ」という動作や「皮膚の上で雪が融ける」と言った表現が相応しいかどうかを考える、という練習をしました。

また晴れている日よりも雪が降っている日の方が暖かいという実感などもよく頭の中で再現した上でなければ、例えば「しんしんと雪が降る」という描写と、「身体の芯から凍える」という描写を併せてしまい、何となく整合性が合わないような文章になる。悪くないし間違っていないかもだけれど、しんしんと雪が降る日は普通に服を着ていればそれほど凍える必要はないどころか、外に出たときに「暖かい」と思うことすらあります。

「しんしんと」という言葉から受け取る印象は横なぐりの風雪ではなく上空からゆっくり雪が降りて来る様子だと思うので、やはり凍えるという状況はほんのり似合わない。

凍えているところへしんしんと雪が降り積もるのであれば描写として効果的かもしれないけれど、しんしんと雪が降るから凍えるというのはどこか違和感がある。

こんなことをよく考える時期があって、それはほんの数ミリかもしれないけれど、自分の何気なく書いてしまっている文章を疑う練習にはなったのかなと思います。

自然はこれで良いと思います。

しかし僕はあまり人間観察をしようとは思いません。その人がどんな人なのかなんてわかりっこないし、予測できたとしても、自分が持ち合わせているイメージや常識から外れる予想なんて立てられないのだから、見ず知らずの人をジロジロ見るだけになってしまうと思ったからです。

シャーロックホームズに憧れるという側面はあります。

あの人の歩き方から分かるのは…、指先を見れば簡単なことだよ、あの癖は音楽に携わる人特有の……という風に鮮やかにその人のパーソナリティを把握できれば恰好良いけれど、実際の人間は明らかに例外の方が多い。

例えばその人が上等な革靴を履いていたからと言ってお金持ちとは限らないし、ファイターズの野球帽をかぶっていたからと言って熱心なファイターズファンとは限らない。

もちろんシャーロックホームズはこんな単純な推測をしないけれど、僕らは結局本人に聞いて見なければ分からないし、傍から予想するだけでは自分の想像を越えない。想像の域を越えないのであれば自分の偏見や常識や経験と言った小さな枠から越えることもない。

また口癖や仕草は好きな人が変われば変わったりすると思うし、それすら、身近な人の癖がうつってしまうタイプとそうでないタイプがいて、それを判断するのは不可能に近い。

ほとんどの人は一貫性が乏しいし、場所や状況や相手や気分によって思考や言動が変わる。

そういうもんなんじゃないかなと思ったとき、僕は人そのものよりも先に状況や気分の方にこそ注意を払うべきだと考えるようになりました。

例えば文章上で、川で溺れている子を助ける主人公を書きたいのであればその人は「正義感がある人」なのではなく、プールの監視のバイトをしているとか、脱ぎやすい服を着ているとか、数十メートル先に植物が枝垂れかかっているとか、直前に後ろめたい行為をしたとか、その気にさせる状況をこそ作るべきだと思います。

そう考えると観察対象は人ではなくやっぱりその周辺なんじゃないか。

ある程度のメカニズム(ムシャクシャすると自暴自棄になるとか人に当たりやすくなるとか)はあるかもしれないからそれを観察する必要はあると思うけど、個別の人間を観察することにかけては有益度よりも失礼度の方が高いなといつしか感じるようになりました。

それに、少なくとも僕は人を観察すればするほど決めつけや思い込みに執着してしまい、決まりきった人間しか想像できなくなる側の人だと思うので、もう人を見てこの人はこういう人だと考えるのをやめました。

観察能力が高く頭が柔軟な人であれば人間観察は有益だと思うけれど、残念ながら僕はそうじゃない。僕はシャーロックホームズのようなキレる頭脳も広範な知識も持っていないし、何かを予測するにしても出会った人のサンプルが少なすぎる。

凡人であることを認め、人間観察ができると思うことを卒業しようと決めたのは、ある空港で想像を絶する動きを見せる子どもを眺めていたときでした。

人間観察からの卒業(完)


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