自分の価値観や世界観に自信を持って腰を据えるのはとても難しいという悩み

発想と行動を記録する

例えば僕は、「なんだかんだモテるヤツは女がらみのトラブルが多そうでかわいそうだ」という絵に描いたような負け惜しみを口に出したことがあって、それは当然、「複数人からモテるヤツ」を心から哀れんでいるわけではなく、「モテない自分」を肯定したいのでありました。

自分がモテないという現実に何とか折り合いをつけて「これで良いのだ」と納得するために、自分とは違う環境に置かれている誰か(モテる誰か)をこき下ろすようなことを言う。

「自分が置かれている状況を肯定するために、他者の置かれている状況や価値観を否定する」

この手の構文とでも言うべき物言いは、よく人の口から発されるようです。

本当にいくらでもあるんだけど、例えば誰かが立派な一軒家を建てたと言えば「ローンが大変そうだ」とか「掃除が大変そうだ」→だから自分は小さな家で良いし、賃貸で良いという風に自分を納得させる。

もしくは、有名人や影響力のある成功者を見て「人の目に晒されるのは大変だ」「プライベートも切り売りしなきゃならないなんて」→だから自分は目立たずにひっそりと暮らせれば良い、有名になりたいなんて絶対思わない、という風に自分を現状に安心を得ようとする。

これに心当たりがある人は多いと思いますが、僕はこの件に関して良し悪しの話をしたいわけではなく(というか僕はブログ全体で物事の良し悪しを論じたいとはあまり思ってない)、そういうことってあるよね、っていうのが、この記事でしたいお話です。

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生き方はいろいろある。選べる道は限られている

僕らは基本的に一つしか身体を持っていないので、「いま実際に生きる場所」を一つに絞らなければなりません。

この「場所」というのは文字通りの空間や建物としての場所ではなく、ある価値観で構成された空間・環境ということです。

例えば、僕にはとりあえずパッと思い浮かぶ羨ましい生き方が何通りかあります。

一つは、洗練された都会で平日はじっくり働き、休日はショッピングや食べ歩きに興じるような、言い方は悪いかもしれませんが「消費社会の恩恵を一身に享受」するような生き方。

または、田舎でも都会でも良いのだけど、いつも決まったメンバーで、決まった店で、決まった料理を食べ、決まった話しをする、やはり言い方は悪いかもしれませんが「代わり映えのしない狭い世界」に留まるような生き方。

まだあります。世界中を歩き回り、自らが強力な発信源となりながら「循環の民」になるような生き方。これも良いですね。過去にぼくのまちにも遊びに来てくれた「面白ハンター」の山本哲くんはまさにそんな生活をしています。

世の中は本当にたくさんの価値観や世界観が溢れている。

たいていはどれも面白みがあると思うからどれも羨ましいと思うけれど、すべての生き方を同時にこなすことはできない。

もちろん、これらの価値観というか世界観を順番に経験することは可能だと思いますが、それは相応の意志がなければできないことだと思います。

僕らの身体は一つなので、たいていはどれか一つの世界観にハマって、そこに生涯生きることになるのではないでしょうか。

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そもそも選べる道が限られている

人が変わったように生きなければ、複数の世界観や価値観を跨ぐのは難しい。

結局は自分が身を置くステージというのはどこか一つに絞ることになると僕は思う。何度も言うけど身体が一つだから。

想像力や理解力は重層的で、思考の枝は放射状に延びていくけど、結局身体は一つだし、腕は二本しかない。

自分が手繰り寄せて身につけることができる価値観や世界観はそれほど多くないということです。

そしてたいていの人は、無限の選択肢の中から理想的な価値観や世界観を自分で選んで暮らしているわけではなく、ほとんどが成り行きと妥協により自分の過ごす環境に身を置いているのだと思う。

普通はほとんどの可能性が開かれていないのです。

たいてい生まれた場所、関わる人、生来の趣味嗜好などいくつかの要素によっていつも何かを選ばされるようにできている。

そういう意味でそもそも僕らが選べる道は限られていて、その限られている選択肢の中から、幾分マシなものや、自分の能力性質に合っていると思われる場所を選んでいる。

それは多分錯覚で、本当は僕らが選べる事柄なんてほとんどないのかもしれないとも思う。

自分の置かれている環境に集中するには

世の中には1万色の色があると言うけれど(1万色は適当)、自分が親に買ってもらった絵具セットの中には24色しか入ってないから、その24色を使って絵を描くしかない、みたいなこと。

選択肢が多すぎると幸福度は下がるという話も聞いたことがあるし、たぶんそれが丁度良いのだと思います。

自分が選べる世界観や価値観は、ちょっと物足りないくらいの方が、きっと生きる上では丁度よくて、多くの価値観や世界観を知っていたからと言ってそれと同じだけ器量のある人間になれるわけでもないし、選びきれるわけでもない。

選んでるだけで時間が進んでしまって、結局何も描きあげられないまま人生が終わってしまう、ということもあるでしょう。

もしかしたら、生き方にしろ働き方にしろ多様性が叫ばれる現代では、この「結局何も描き上げられないまま人生が終わる」という恐怖心と戦わなくてはならない人が増えているかもしれない。

僕はそうだなと最近思います。

「結局自分はどこに腰を据えて、どんな絵を描くのか」

という大問題に取り掛かるまでに、大きな勇気が必要になる。自分の生き方はこれでいいのかなって、てか自分の場合はこれしかないよな、でもな…って考えて何も手が進まないことがある。

そんなの大学までに済ませておけよという感じかもしれないけど、むしろ最近になって悩むことが増えたように思う。

この問題に腰を据えて取り掛かるためには、自分を取り巻く環境に集中する必要があって、人を羨むのではなく自分が持っているカードを最大限に活用する方法だけを考える必要があって、ときには自分に無遠慮に入り込んでこようとする価値観を拒絶する必要もあると思う。

それは必要ない、私には要らないと口に出して、自らの価値観を確かめることが重要なこともあるだろう。

あるよねそういうこと、という話。

 

自分の価値観や世界観に自信を持って腰を据えるのはとても難しいという悩み(完)

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