羽川翼はなぜ天才なのか。瞑想状態の聖人と凡人な僕ら。

羽川翼の話をしよう/完全に正しいという異常な個性について

が『猫物語(黒)』の内容を受けての記事だとしたら、今回の記事は『猫物語(白)』にまつわる記事です。

しかし、黒の方は話のあらすじに寄りすぎてしまった感があるので、今回はもっと焦点を絞り、「羽川翼はなぜ天才なのか、そして僕たちはなぜ凡人なのか」という話からしていこうと思います。

この記事はあまりストーリーには触れませんが、ところどころネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。

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『猫物語(白)』とは

羽川翼と言えば、博覧強記、完全無欠、成績優秀の優等生で、委員長の中の委員長という位置づけのキャラです。

しかし天才と一言で言うよりは、しょうしょう回りくどく、「人間として完全な正しさを持っている」と言った方がしっくりくる感じがします。

成績優秀の優等生と言っても例えばただの「学年一位」なのではなく、全ての教科で満点なのが普通という完璧さ。その上知識や論理力だけではなく、倫理的な思考もすべての人の規範になり得る人間です。

本作を読んだことのない人は「いや、だって作り物でしょ?ライトノベルの設定でしょ?そんなのどの作品にもいるじゃん」と思われるかもしれませんが、『猫物語(白)』はその羽川翼がいかにしてそうなったのかを説明する話であり、彼女が「完全であるという異常」を捨てる話だという点が重要です。

つまり、羽川翼の能力はただのキャラ設定という枠を越え、一人の人間のアイデンティティにまつわるところであり、その優秀であるとか天才であるという個性自体がストーリーに大きく関わることなのです。

『猫物語(白)』は羽川翼の独白スタイルで綴られています。

始めの章、物語の冒頭のところで羽川翼はこれから語る自分の物語について、こう言います。

阿良々木くんが大袈裟に、さながら歴史上の聖人や聖母のように語る私が、ただのひとりの人間であることを知ってもらうための物語だ。

私が猫であり、虎であることを。

そして人であることを知ってもらうための、軒並みがっかりしてもらうための、裏切りの物語。12-13p

このような物語を軸に、羽川翼はどうして天才なのか、そして僕たちはどうして凡人なのかということについて考えていきたいのです。

羽川翼はこう言っている

物語シリーズの主人公であり、大方の物語の語り手である阿良々木暦に、羽川翼はよく、「お前はなんでも知ってるな」と言われます。

すると羽川翼は「なんでもは知らないわよ。知ってることだけ」と返す。

これは二人のお約束のやりとりであって、冗談のようなやり取りなのですが、事実、羽川翼はどんなことでもよく知っています。

他の物語シリーズでは阿良々木暦が語り手となって話が進むことが多いので、羽川翼に対する評価はかなりの割合で彼の思い込みとか脚色が混ざっているようです。

だけど、どう控えめに見ても彼女は完璧であるし、阿良々木君に言わせれば羽川翼こそが「本物」なのだそうです。

ではどうして羽川翼はそれほどまでに完璧なのか。

『猫物語(白)』で、本人がこう言っています。

辛さを感じず、悲しみと無縁でいられるなら、勉強にしたって運動にしたって、倫理にしたって道徳にしたって、ストレスレスで常に最高のパフォーマンスを発揮できますよね。

失敗するプレッシャーも感じずに、酷い目に遭う不安も感じずに、肉体的にも精神的にも痛みを感じずにいられるのであれば、人はどこまでだって完璧でいられるでしょう。

優等生・羽川翼の、これが真実です。231p

羽川翼はどんな怪異と関わったか

未読で、かつ、多分これからも読まないだろうなという方のために説明しますが、物語シリーズは吸血鬼と行き会ってしまった阿良々木暦と、さまざまな怪異と行き会うヒロインたちの話です。

怪異(現象)には存在するに足る理由があり、物語シリーズのヒロインに関わる怪異は実際にそれぞれ、行き会うべくして行き会ったという根拠があります。

羽川翼が関わることになるのは、『猫物語(黒)』では猫の怪異、対になっているようにも見える『猫物語(白)』では虎の怪異に行き会います。

羽川翼の話をしよう/完全に正しいという異常な個性について

で書いた通り、羽川翼は己のストレスを偶然行き会った「障り猫」という怪異に擦り付け、自分から切り離すことで完全性を保つという異常な行動に出ていました。

「猫をかぶる」という言葉がある通り、猫の怪異は自分の影の部分を覆い隠すには都合の良い存在だったのでしょう。

実際は無害な低級霊であったはずの障り猫に取り憑かれた際、逆に取り込んで、都合よくストレスのはけ口として利用していたのです。

羽川翼はあらゆるストレスや苦痛と無縁でいられる仕組みを作り、自分の感情は一切汚すことなく、その結果、純粋無垢で完全無欠な優等生でいられたという訳です。

瞑想の目的

羽川翼の優秀さの秘密は、不安や恐怖やプレッシャーや、そういった様々なストレスを切り離し、目の前のことに疑いなく取り組めるところにあります。

ここで思い切って現実の我々の生活に目を向けますが、これはいわゆる、「瞑想」の目的とよく似ているのではないでしょうか。

最近瞑想の話題をよく見る気がするのですが、ブームなのか、僕が無意識に惹かれているのか分からないけれど、一人ひとりが忙しく、一人ひとりの存在感が大きくなってきた個人化の時代において、自らを律するという行為の必要性は日増しに高まっているような気がします。

かつて瞑想と言えば宗教がらみの修行のように思われ勝ちでしたが、現代においては瞑想を実践する有名人やその効用が広く知れ渡ることで、すっかり市民権を得たセルフコントロールの王道手段となったのではないでしょうか。

瞑想の効果や目的とするところは、もちろん神や宇宙を感じると言ったスピリチュアルな目的のものもあると思いますが、一般的な範囲で言えばリラクゼーションや集中、または創造性の向上といったものが主でしょう。

心を静めて己をどこか客観的に見つめることで、抱えている不安や恐れを手放すことができる。ストレスとなる雑念、自動的に浮かんでくる雑多な思考や感情の波を穏やかに打ち消し、本当に集中したいことに集中できるようになる。

僕は瞑想をこのように理解しているのですが、この瞑想の目的を完璧に体現した理想形が、羽川翼なのではないかと思うのです。

誰もが羨む羽川翼の能力

羽川翼は、いつもいつでも数々のストレスを己から切り離してきました。

その方法は独特ではありますが、その結果、完全無欠の優等生になった。

これは、多くの人にとって羨ましいことだと思います。

内側から自動的にあふれ出てくる不安や恐怖、孤独、心配、プレッシャー、焦りといった感情を抑え込むため、僕らは日々どれほどの労力を費やしているでしょう。

または疲労、怠け心、益体の無い欲望など、僕らが日々上手に付き合わなければならないものはたくさんあります。

羽川翼はそれらを全て無視するどころか、別の場所に切り離しておくことができるのです。

本人曰くそれは「ズル」ですが、僕らが目指すのは彼女のような完璧なセルフコントロールであり、そのために瞑想だのに挑戦し、不安を和らげる方法を検索し、怒らずに済む本を買い、自己正当化のために人を見下したりするのではないでしょうか。

そしてそれらの一つひとつもまた不安や疑問や自己嫌悪に邪魔をされ、ろくに全うできぬまま、相変わらず凡人の道をひた走る。

羽川翼の完璧さに比べると、僕らはあまりに滑稽で惨めです。

ああ完璧な存在になれたら、オールマイティな人間になれたら、どんなに人生が楽だろう、どんなに恰好良いだろう。

だけど『猫物語(白)』において着目するポイントは、そんな羽川翼の完全性ではありません。

『猫物語(白)』は、羽川翼がその完全性を捨てるというお話しなのです。

羽川翼の、「本物である」という印象

物語の後半、羽川翼の印象的な言葉があります。

「私は本物じゃなくって、人物でありたい」

羽川翼は、そのキャラクター性を客観的に描写すれば、「優等生」だとか「博識」だとか「天才」だとか、いかにも創作物っぽくなってしまいます。

本に書かれた、文字だけの、味気ない人間です。実際、「羽川翼は完全無欠の優等生である」という描写が小説中でなされるとき、他のヒロインに比べると個性の乏しい、ありきたりな記号のように見えるのではないかと思います。

羽川翼の、完璧で、かつどこか味気ないという性質について、羽川翼の友人で、阿良々木暦の恋人である「戦場ヶ原ひたぎ」が言及する場面があるので少し引用させてもらいます。

その前に『猫物語(白)』のストーリーを少しだけ説明すると、羽川翼は物語のはじめの方で火の属性を持つ虎の怪異に行き会い、自宅を火事で失います。

行き場をなくした羽川翼は、クラスメイトである戦場ヶ原(せんじょうがはら)ひたぎの家に身を寄せるのです。

そして引用したいのは、戦場ヶ原ひたぎが羽川翼の手料理を食べ、全てに味付けがされていなかった事実に驚いてしまう場面のこと。

「いえ、昔から考えてはいたのよ。阿良々木くんと羽川さんの違いって、どこにあるのかって――同じように二人とも、我が身を犠牲にして他人のために躍起になるけれど、どうも私から見れば、両者はまったく別物のように思える――似てさえいないように思える。わかりやすく言えば、阿良々木くんが偽物で、羽川さんが本物に見える。やってることは同じなのに、なんでなのかなあって――でも、この手料理を食べてわかった気がするわ」117p

一体何が分かったのかと言うと、全ては引用しないので少し飛躍したように見えるかもしれませんが、羽川翼が「悪意や駄目さをまるでものともしていない。というより受け入れてしまっている。」ということ、「味気なさすら受け入れていること」でした。

戦場ヶ原ひたぎの生活について羽川翼が思うこと

補足のため、途中を端折ってさらに引用します。

戦場ヶ原ひたぎが、たとえば、と自分の生活の質素さ、素朴さについて羽川翼に感想を尋ねる場面。

「保証の少ない父子家庭で、六畳一間のボロアパート暮らし、バスタブもなくてお湯もたまに出なくなるシャワーが唯一の救い、キッチンも実に貧弱でガスコンロも一口しかない、洗濯機を回したままドライヤーを使えばブレーカーが落ちるような私のライフスタイルをどう思う?」

「どう思うって」

「どうも思わないでしょう?この暮らしに同情したり、引いたりしないでしょう?うん、それはきっと立派なことだと思う。小説や漫画の中でだったらね――あるいは、歴史上の偉人の話だったりしたら、とても素敵。感動だってすると思う。でも羽川さん、あなた、現実の人間なのよ?」120p

なんで料理に味がついてなかったくらいのことでここまでの話になるのでしょう。

それは、ライフスタイルの基本の一つである食生活における羽川翼の特異さが、そのまま彼女のライフスタイルの特異さを物語っているからです。

「あなたはそのままで良い」と言う羽川翼は聖人か人外か

僕らは日常で、「そのままのあなたで良いのだ」といったような文句を聞くことがあると思います。もしくはそんな言葉を求めることもあるでしょう。

ありのままの自分で良いと言われればもちろん悪い気はしないけれど、これは誰もが知っているように建前であり、言わば理想論です。みんなそのまま、ありのままで良ければ本当に良いよね、という話。

誰しも口先でこんなことを言うのは簡単です。人は生まれながらにして有価値だと言うのはとても簡単。

だけど、身近な交友関係を考えてみてほしいのです。

僕らはだらしなければ怒られるし、しつこければ嫌われる、愚かであれば笑われるし、頑固であれば軽蔑され、意気地がなければ眉をひそめられ、卑怯であれば避けられる。僕らは全然このままじゃいけないし、ありのままじゃ許されない。

「あなたはそのままでいいのだ」と本気で言える人がいるとすれば、それは羽川翼をおいて他にいません。

彼女は本当にそれをそのまま受け入れてしまう人、ありのままを受け入れてしまう人なのです。

「あなたはそのままで良い」という残酷さ

羽川翼はバターもジャムも塗っていないパンや、ソースも醤油もかかっていない目玉焼きをそのまま食べる。

戦場ヶ原ひたぎはこの点を追求します。

「料理の味付けに対して拒絶的な人なの?素材の味をそのまま堪能したいとか?」

羽川翼は「ああいや」、と答えたあと、「料理って味がなくてもおいしいじゃない」と言います。

「決め手となる発言が登場したわ」

「え?私はただ、味はあってもなくても一緒だって言ってるだけだよ?」113p

この不気味さが羽川翼の特徴です。

人に対しても同じことが言えるでしょうか。「あなたはそのままで良い」と。

羽川翼は言えるのです。

それは羽川翼が聖人のように優しいからではなく、善意からの意見というワケでもなく、「どっちにしたって同じ」「誰かが悪かろうがダメだろうが物足りなかろうが、その脅威をものともしていない」ということなのです。

これは残酷です。料理に味がついていようがいまいが同じという人に、「この料理は美味しい」と言われても嬉しくないどころか、味付けにかけた知恵や工夫や労力を全てないがしろにされた気分になるでしょう。

ライフハックをいくつ集めたら僕らは完璧になれるだろう

僕らは日々あらゆるライフハックを求めています。

ライフハックとは「情報処理業界を中心とした「仕事術」のことで、いかに作業を簡便かつ効率良く行うかを主眼としたテクニック群(Wikipediaより抜粋)」ですが、その範囲は仕事のみならず生活すべてに渡り、ひいてはいかに精神のコントロールするか、という領域にまで達しているようです。瞑想もその一つなのでしょう。

現代の僕らは仕事のみならず、生活すべてにおいて、人生すべてにおいて「いかに簡便かつ効率よく行うか」を考えていると思います。なぜなら、内心では「ありのままの自分」なんてとても受け入れられないから。もしくは、「人よりも優れているという点で安心したいから」。

素材のままで十分美味しい人なんて、実は一人もいないのです。誰も自分が生まれながらにオンリーワンだなんて思ってないし、料理のように、工夫や努力次第で自分はもっと良くなると思っている。

特に文明社会に生きる僕らにはいつも時間がなく、競争や張り合いの日々で、「良い生活」を、「良い人生」を送るためには、全然グズグズなんてしてられない。

ありていに言えば、そのために僕らはみんな「有能になりたい」と思っているし、「有能でなければならない」とすら思っているかもしれない。もっと曖昧な言い方をすれば、「ちゃんとしたい」と思ってる。

失敗や批判を恐れず、忍耐力と行動力と体力があり、人に好かれる人格で、みんなに応援されながら飽くなき挑戦をし続け、いつか自分にとって偉大なことを成すスーパーマンを目指してる。

そんなスーパーマンになる方法はなれるかどうかは別にしても、割と簡単に知ることができます。web上の記事には現代を生き抜くためのノウハウが溢れている。

失敗や批判を恐れずに突き進む方法も、バイタルを強化する方法も、人に好かれる人の特徴なんかだって検索すれば出てくるでしょう。書店の自己啓発コーナーに行けば、もう少し自分の人生はマシになると信じることもできる。

自分がピンとくるものを選んで、アプリをスマホにインストールするみたいに人生に反映させれば、自分の機能はどんどん上がっていく。

みんなこうして生きている中で、羽川翼は一人、なんの苦痛も困難もなく完璧で、他人が向上することにかけて大きな大きな努力を要するということが心底で理解できていないのです。

この隔たりが、羽川翼と僕らを分ける境界線になります。羽川翼がただ優等生であたかも聖人であるということではなく、この人物としての欠陥、異常さが露呈されるのが『猫物語(白)』でした。

目を逸らすのではなく、ちゃんと逃げるために

完璧な羽川翼の、何が欠陥なのでしょうか。

方法がなんであれ、完璧であることの何が問題なのでしょう。

それこそこれはライトノベルの世界ですから、羽川翼の完全性を保つやり方が実際的な問題を引き起こすことになります。

『猫物語(黒)』ではストレスの権化として現れた猫の怪異が人を傷つけますし、『猫物語(白)』では(ネタバレになりますが)嫉妬の権化として現れた虎が羽川翼の関わった場所に火を付けます(嫉妬の炎)。

これは問題だから何とかしなければなりませんが、現実の世界において、完璧であることにはやはりどんな問題もないように思えます。

しかし、羽川翼のやり方について、僕らにも通じる問題点を挙げるとすれば以下の点でしょう。

羽川翼が阿良々木暦のお母さんに一言言われるシーンを引用します。

「羽川ちゃん。人は嫌なことがあったらどんどん逃げていいんだけれど、目を逸らしているだけじゃ、逃げたことにはならないんだよ。――後略 174p」

僕らの人生には嫌なことがたくさんあります。嫌いな人と関わらなければならないこと、好きな人に嫌われること、理不尽に耐えなければならないこと、自分でいなければならないこと、非難されたり、馬鹿にされたり、見下されたり、あらゆる困難が押し寄せてきます。

それらすべてをスマートに乗り越え、なんてことないさと涼しい顔で渡っていければ恰好良いかもしれないけれど、僕らはたいてい、そんなに起用ではありません。

だからこそのライフハック。

嫌われても笑っていられるポジティブシンキングのコツとか、怒られても凹まないメンタル管理術とか、何をしてもダメな自分を愛すための3つのストーリーとか。

今にも泣きそうだったり怒り出しそうな自分を抑えるため、藁にも縋る気持ちで僕らはこういうものに頼っては、現代をスマートに生き抜こうとする。

スマートに世の中を生きることの何が問題なんだ

ブログ記事とか本に書かれてそうなライフハック情報はどれも優れたものに違いありませんし、僕もつい見てしまうけれど、こうした方法って何となく、自分の負の感情から目を逸らすやり方なような気がします。つまり羽川翼のやり方の劣化版。

泣きたい気持ちを切り離し、まあいっかって仕切り直す。

怒りたい気持ちを切り離し、なかったことにしてしまう。

怠け心とか、嫉妬心とか、羞恥心とか、あらゆる不快な感情を上手に処理して、表面上は限りなくスマートな人間に僕らはなっていく。

だからそれの何が問題なんだ。

どう考えても、それができるならなんの問題もないような気がします。まさか自分が見て見ぬフリした感情が、切り離した怨念が、いつか具現化され、どこかに火をつけたり、人を傷つけたりすることもないだろう。

いや積もり積もったストレスが、例えばなんてことない個人のブログ記事を痛烈に批判したり(炎上って言いますよねそういえば)、浮気がどうだとか言ってるタレントを悪しざまに罵ったり、人の失敗や不幸を願ったりする結果に繋がらないとも限らないですね。

しかしそういう醜い感情すら僕らは綺麗に切り離しては、自己実現できない人や向上心の無い人、ちゃんとしてない人に押し付けていく。そして自分はそうじゃないと自己肯定する。

「人の悪口言ってる人は結局自分に満足してないんだ」とか、「テレビの向こうの会ったこともない人間のスキャンダルで喚いているのは自分の身にドラマがないからだ」とか、「本当に自分の人生に満足してる人は心から人の成功を喜ぶ」とか、それらしいお題目を掲げては、「ああはなるまい、自分はもっと正しい人になるのだ」と正しい道を選ぶ糧にする。

強いものは洗練されていき、弱いものは感情の掃きだめにされて、どんどん醜くなる。

だから弱いのはダメなんだ。

本当にそうでしょうか。

『猫物語(黒)』で阿良々木暦が言っていたことを体現する羽川翼

ここで、作品を越えて『猫物語(黒)』から阿良々木暦のセリフを引用したいと思います。『猫物語(黒)』の中で一応の解決を見るシーンで、阿良々木君が羽川翼に語り掛けるシーンです。

「いいよな、羽川。僕達、みんなロクでもないけど……すっげー不幸で、滅茶苦茶報われなくて、取り返しなんか全然つかないけど……、一生このままなんだけど、それでいいよな!」290p

これに羽川翼は「いいわけ、ないでしょ」と答えますが、『猫物語(白)』の羽川翼は、この阿良々木君のセリフを身をもって肯定することになります。

「こんなことはもう終わりにするって、私は決めたんだ。誰かを憎むことになると思う。誰かを恨むことになると思う。これまでみたいにみんなに優しくできなくなって、みんなを愛することもできなくなる。嫌われるだろうし、嫌がられもするだろう。怒りっぽくなって、人を許せなくなるでしょうね。イライラしたり、ムカついたりもすると思う。頭が悪くなるかもしれない。笑えなくなるかもしれない。めそめそ泣くかもしれない。」261p

こう思いながらも、自分が切り離した虎の怪異を受け入れる覚悟をするのです。

多分、ダメなのは弱いことではなく、弱い自分から目を逸らすことであったり、その感情を人になすり付けることです。

僕らはどれだけ完璧になったとしても、自分の弱さを受け入れる力がない限りきっとロクでもないままです。ロクでもないけど、それでもいいよなと言える阿良々木君は、自分の弱さと向き合える人なのでしょう。

羽川翼はそんな阿良々木暦に恋愛感情を抱いています。

その感情を本人に伝えることなく、彼女は自分の弱さを受け入れに(虎と向き合いに)行きます。

「その点だけが、正直、忍びない。阿良々木くんを落胆させたくはない。私は、とうとう一度だって、彼に好きだって言ってない。勝手に恋して、勝手に失恋した。」242p

その恋愛感情がどこに起因するものなのか、彼女自身あまり分かっていなかったようですが、物語の終盤で「彼くらい自分の弱さと向き合っている人を私は他に知らないから、私は彼が眩しい」のだと語っています。泣きながら人を助ける阿良々木くんが好きなのだそうです。

だけど、「失恋しても泣けないような――そんな人生はもううんざりだ」から、彼女は虎(弱さ)と向き合いにいきます。

羽川翼は泣いたことがないのです。

文明社会の独善的な僕ら

僕らは「ありのままの自分」を肯定されたらどんなに良いだろうと思っています。しかし同時に、「ありのままの自分」はロクでもなく、たいしたこともなく、くだらないということも分かってる。多分ひとり残らず、自分の嫌いなところや目も当てられない恥ずかしい部分がある。

「あなたはそのままで良いのだ」という言葉は甘く、負の感情に押しつぶされそうなときはできればその言葉に縋りたくなるけど、そうやって負の部分を無暗に肯定して、「正」にするとは言わないまでも、「是」とするというやり方は、弱い自分から目を逸らしていることになりはしないでしょうか。

現代社会は無暗に肯定し過ぎる。手っ取り早いライフハックに縋り付きすぎる。

弱いことは多分、必ずしも悪ではないし、お互いさまです。

あたかも自分にはそうではないかのように振る舞って、常に自分は幸せであるという虚勢を張って生き続けなければならない世の中は非常に窮屈です。

弱みを見せることや弱音を吐くことはあっても、僕らはついついそれを肯定したくなってしまう。肯定して欲しくなってしまう。そうやって目を逸らせば、何となく惨めさを回避できます。

例えば恋に破れても、僕たちはそれをバネに成長しようとするし、良い思い出にしておこうとする。まあいっかと開き直って、もろもろ含めて良しとする。

そんなのは「もううんざりだ」と羽川翼は言ったのです。

悔しかったら泣いて、嫉妬に怒り狂って、恥ずかしかったらひた隠しにして後ろめたく生きた方が、きっと「人物」らしいんだろうなと思います。

そういうのってやっぱ何となく抵抗あるし、あたかも未熟な社会不適合者のように扱いを受けるかもしれないけど、それも程度問題で、基本的に僕らは、自分の弱さは自分で受け入れ、抱え込み、憎らし気に見つめたり腐ったものを目をしかめるようにしながらも、自分で処理をするべきなんだろうなと思う。

それは何も自分の弱さを弱さとして誠実に向き合うとかに限らず、全力で逃げるということも含めて。逃げたいなら逃げるというのも、また弱いけどありのままの自分です。

自分で処理「すべき」と言うのもなんか違って、それが「社会人としてあるべき正しい姿だ」とか言ってるのも違って(これはほんと最悪)、そういうのも含めて自分のキャラクターであり、積み重ねて来た設定なんだろうなと。

だって「本物」って味気ないです。羽川翼はそうだった。頭が良くて、優等生で、誰にでも優しい、泣いたことがない、と文字にするとすごくいかにもライトノベル用の架空のキャラクターみたいになる。

僕らがライフハックを受け入れ続けることで、あらゆる事柄を独善的な光で肯定することで、行きつく先は無個性で味気ない、のっぺりとした「理想的な文明社会」です。

悪いもの、弱いものは無くなるべきで、善良な我々の見えないところに置かれるべきだと宣う暴力的な向上心が、ひいては「悪者」や「弱者」を作り出しているという皮肉があるようです。

文明社会の独善的な僕ら。バカにされる優等生とそうじゃない優等生。

結末

さて、ここで書きたかったのは、別に社会がどうとか、生き方がどうとかではなく、ただ『猫物語(白)』面白いんだってことと羽川翼が好きだってことです。

そして、僕らは凡人だしどうしようもないには違いないけど、「人物である」ということを書きたかった。

羽川翼の天才性は頼りになってそれなりに魅力だったけれど、彼女自身の独白を見て、人物であることを知り、天才が成長する様が表現されていた『猫物語(白)』でもって、この人好きだなあと思いました。最初の方は脇役だと思ってた笑

羽川翼は虎を無事に自分に取り入れたあと、阿良々木暦に告白しています。

阿良々木君は戦場ヶ原さんと付き合ってるのでフラれてしまいましたが、今まで切り離していた負の感情を取り戻したというのもあり、堰を切ったように泣きます。

事件の終わりは、「泣けるようになった」という締め括りなのです。

ちなみに、どこかのブログか何かで見てへえーって思ったことなので作者の意図なのかどうか分かりませんが、『猫物語(黒)』と『猫物語(白)』という対のタイトルは「黒白」=「こくはく」とも読めるそうです。

へえーって思いました。

羽川翼はなぜ天才なのか。瞑想状態の聖人と凡人な僕ら。(完)

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コメント

  1. もきち より:

    感動しました!書いてくださってありがとうございます。
    メアドは適当です笑

    • 塚田 和嗣 より:

      もきちさん
      長い文章にも関わらず、読んでいただきありがとうございました!僕のブログの中でも、特に好き放題に書いた長い記事でしたので、感動した、なんて感想をいただけると思ってはおりませんでした。とても励みになりました。ありがとうございます!