ここは天国

なんでこんなに生き続けなきゃいけないんだろう、と考えることがある。

なんで僕たちはこんなに毎日競争したり譲り合ったり、貶し合ったり褒め合ったり、怒ったり人に優しくしたりしながら、つまり自分を必死で守りながら、生き続けるだけでなく、より良く生きようとする不思議な「生き方」を続けるんだろう。

身近なことで言えば生の充実とか平凡な幸せとか色々あるんだろうし、巨視的な境地に立てば「種を繋ぐため」みたいなことがあるのかもしれない。

じゃあその種を繋ぐ意味ってなに?って考えたとき、答えはどうしたって巨大なスケールになって面白いから、わりと僕はよく以下のようなことを考えます。

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いつか、誰かとの約束

多分、何千年後か何万年後か分からないけど、僕らは宇宙のどこかにいる誰かと約束をしている。「ちょっと後で話があるから待ってて」みたいな感じの軽い約束だけどやたら気になるやつ。

それはこの地球上に生きとし生きるすべての生物との約束で、だけどなんせその予定が多分ずっと後なもので、後って言ってもどれくらい後かも分からないもので、とにかくそのときが来るまで生き続けようぜ的な暗黙の了解が生物界にある。

で、そのときまで生き残れた誰かがその約束を果たせたら良いじゃんって。

でもそのただ生き続けるってのが絶望的に難しくて、ただじっとしてるだけじゃ全然ダメ。

なんか病気とか災害とか「生きることをダイレクトに邪魔してくる奴ら」がいるし、何もしなかったら一人当たり数十年で死んじゃう。運が悪いと生まれてすぐってのもいる。これじゃとても約束を果たす上で効率が悪い。

だから何とかしなきゃってことで勉強して、「生きることをダイレクトに邪魔してくる奴ら」に対応しようとする。

それでもまあ全然ダメで、ほんのり戦う術みたいのは身に付けるものの、限界はある。寿命とか、予期しない出来事とか、理不尽とかがずっとある。

あと残念ながら、お互いに食べ合わないと生きられないというジレンマがある。みんな生きなきゃいけないのは一緒なんだけど、自分が生きるためには誰かを殺さなきゃいけない。それもまあお互いさまだし、割り切って生きている。

とにかく僕ら生物は、「どう生きれば一番良いか」をいつも考えてる。

「どう生きれば、より長く生きられるだろうか。より約束に近づけるのだろうか」って考えてる。

宗教はより良く生きるための指針か

こういうのって言わば宗教ですよね。

いつか誰かと約束してると言えば、そしてその誰かの正体も分からず、時間の概念とか空間の概念とかも通用しない相手だとすれば、僕たちはどうしたって超越的な存在、つまり神様的なものを連想するはずです。

そういう自分のスケールを越えた意志(ずっとあとの約束みたいな)のもと、どう生きれば一番いいだろう?この生をもっとも最大限に活用する方法ってなんだろうって考えるのが、いわゆる宗教なんでしょう?

で、世の中にはそういう巨大な意志を持った神様がいっぱいいる。オリジナルの約束事を言い出す何かがいっぱいいるから、宗教もいっぱいある。

宗教の数だけ「○○のためにはこう生きるべきだ!」っていう指針もある。だってこんな作り話でも考えない限り、より良く生きるってことにいまいち意味が見いだせないから。

日本の場合無神論者が多いから宗教にはアレルギーがあってみたいなことはあると思うけど(僕も宗教の臭いって怖く感じる)、「こう生きるべき論」は世にたくさんありますよね。

こう生きるべき論

男たるもの一家を養ってこそ…とか、好きなことを仕事に…とか、とりあえず大学は出とこう…とかそりゃ色々あって、いずれも良い人生を送るための一方略なんだけど、いずれも別に根拠はない。

「みんなそう言ってるから」「自分がそう生きてみてけっこう良かったから」みたいなレベルでの根拠はあるけど、どれも卑近な神を祭る宗教と言って差し支えない。

でもなんせその神様が卑近すぎてスケールがちっちゃいから、「こう生きるべきだ」って言われた通りに生きてどうなるの?結局頑張って生き続ける意味は?って壁にはぶつかる。

いやでもだからってずっと後に神と約束してるなんて信じるの無理だし、お経唱えたら極楽浄土に行けるみたいなこと言われても、「はあ。極楽ねえ」って感じになるし。

地獄ならまだ分かるけどねえ、極楽とか天国とかちょっと想像つかないけど、今頑張って生きてるってこの状況が天国なんじゃないの?

空虚なことばっか言ってないで必死で生きて、手近な神様の言うとおりにとりあえず卑近な重大事をこなすだけで結構またとない喜びって感じられるんじゃないの?

だからまあ、ここは天国で、生きる意味なんてなくて、強いて言えばよりよく死ぬために生きてるんじゃないかなあ…。

って考える人もいると思う。

僕も「ここは天国」だと思う。

天国と地獄ってどんなとこ?

天国と地獄って、そもそも本当にどんなところなんでしょうか。

地獄は何となく分かります。ずっと痛いとか、ずっと死ねないとか、とにかくずーっと延々に同じことの繰り返し。

何も血で煮込まれ続けるとか針の山に座らせられなくても、ずーっと同じことの繰り返しってだけで地獄です。賽の河原の何が地獄って、石積みっていうくそ詰まんないことをずーっとやらなきゃいけないからですよね。

しかも途中で崩しに来る鬼がいるから、達成感も与えられない。(そういう何の意味もない労働を延々させ続けるって刑がありますよね。水車を回し続けるとか、穴を掘っては埋めるとか)。

仮に気持ちいい大好きなことだって、ずーっと変わらないのは地獄です。くそつまんない。ただつまんない。

不変が地獄の正体だとすれば、天国は変化の国だと思います。

刻一刻と変わる物事、常に変わる刺激、予想外。

ただ一つ違うのは、天の国では肉体がないこと。

俺、いま死んでるなー!

思えば、僕らは大きな精神の喜びに出会ったとき体が消失しています。

あえて宗教色の強い言い方を試してみたけど、かみ砕いて言うと、僕らは感動するとあらゆる欲望を忘れる、みたいな感じ。

これは僕だけの感覚じゃないと思うんだけど、良い本を読んだとき、良い音楽を聞いたとき、良い絵を見たとき、つまり感動したとき、放心した感じになって、文字通り体を置き去りにしたような感覚に見舞われることはないでしょうか。

少なくとも胸がいっぱいのときはお腹が減らないものだと思う。

すごい本読んじゃったなーってとき、この感覚をもっと味わいたいと思います。この感動をできるだけ多く味わいたい。そのために次の作品に手を伸ばすんだけど、ちょっと精神の興奮が落ち着くと、あ眠いとかお腹減ったなーとか女子に触れたいとかっていう煩悩が出てくる。

そういう、体があるが故の欲求ってすごく邪魔くさい。

第一、本読んでたって、ソファの座り心地が悪いだけでいまいち没頭できなかったり、腕とか首が疲れてしまって読み進められなかったりする。

精神活動をしているとき体は本当に邪魔くさくて、基本的に欲求はすべて不快が元だと思うから、誤解を恐れずに言えば、早く死んでみたいと思うことすらある。

だからこそ、深く感動し、体が要求することすべてを忘れた瞬間はひたすらに気持ち良いです。

美味しいごはんを食べると俺いま生きてるなー!と感じるかもしれなくてそれはそれで天国みたいなんだけど、感動すると俺いま死んでるなー!って感じがあって、それはそれで天国です。

精神だけの存在ならできること

精神だけの存在になって、感動できるものだけを見るような想像をする。

僕らは体があるから「今この場所」に縛られなきゃなりません。

でも精神だけの存在なら、そういう当たり前は当たり前ではなくなります。

時間とか場所にまったく縛られない感じってあながち想像できないことじゃなくて、というか想像すること自体、時間や場所から解放される方法でもある。

今は夜だからって朝のこと考えられないことはないでしょう。ここは日本だからって去年行ったハワイ旅行のこと思い出せないとかもないでしょう。意識の前では時間も場所も関係ありません。

肉体があるから時間はまっすぐ進むし、肌で感じられる場所は限られるけど、本当はすべて同時に存在していて、思うだけでどこにだって行けるはずなのです。

江戸時代に思いを馳せれば僕らの前には江戸時代が現れて、太古の地球に思いを馳せれば古代生物が闊歩するサバンナに行くこともできる。実際、この文章を読むだけで頭の中にはちょんまげとかマンモスとかが想像できているはず。

精神にとっては時間も場所も関係なく、宇宙の中に流れるすべてのものを同時に見ることができる。だって東京から札幌まで飛行機で何時間と考える必要なく、思うだけで目の前に現れるのだから。

飽きることなく、だれることなく、精神が赴くままに喜ばしい光景を眺め続けることができる。

そんなん言い出したらそれこそ神様と大差ない存在なんだけど、僕らの精神ってそのレベルのことじゃなければ喜べないでしょう。そうじゃなきゃこんなにあらゆる種類の創作物が生まれる訳がないです。

ここは天国

でも結局僕らには肉体があるし、限界があるんですよね。

いつか行きたいなって思ってるところの100分の1か所だって行けないし、知りたいなと思ってることの1000分の1だって知ることはできない。だから僕らは全知全能の神様には全然なれない。

それどころか足手まといの肉体を大事に抱えて、惨め臭いけどなんか今を一生懸命に生きなければならないみたいで、その理由は何かと考えればいつか天国に行くためだとか、無上の喜びのためだとか、なんかそれ回りくどくない?みたいな騙されてる感覚になるけど、だからってマジで死ぬのは怖い。

だから結局今を必死に生きて、肉体を足手まといにしないよう健康に気をつけて、ここを天国にするしかないんだけど、天国が変化の国なのだとしたらやっぱり僕らは別に何もしなくたって、生きてるだけで、ここは天国。

不変のものはなく、今日ここで見た雲は昨日の誰かのため息かもしれなくて、明日起こる誰かと誰かのケンカはこの記事を書かなければ起らないかもしれない。

バタフライエフェクトとはよく言ったもので、そのスケールで物事を見れば、この世界は既に時間も場所も越えて繋がっている。

そして今を生きる僕らは肉体を持っている限りどこかの変化に関わっている可能性がある。

肉体を失えばきっとあらゆる壁を越えてあらゆることを知ることができるけど、そういう神の視線が求めるものはきっと、より良くあろうとする全てのものが干渉しあってコロコロ変わっていく景色なんだと思う。

いいなあいいなあ、あの中に入りたいなあ、と思うかもしれない。私もみんなみたいに何やら分からないけど生きて、邪魔臭い肉体を引きずりながら、惨めに歩いてみたいと思うかもしれない。

もしかしたら冒頭の方で書いた「生き続けた先にある誰かとの約束」っていうのは、神様みたいな精神の塊がこの世に干渉するための苦肉の策なのかもしれない。

そのときが来て、「何なに?話って」と聞くと、舌をぺろりと出して、「ごめん別になんでもないんだけど、なんか変わるかなと思って」って言うかも。

なんだよ、すごい期待したんだぞ?

したくもない勉強頑張って、やりたくもない仕事して、良いことばっかりでもなかったし、いっぱい悲しいことあってしんどかったぞ。

いっぱい殺しちゃったぞ。余計なことがいっぱいあったぞ。

でも頑張ったぞ。

うんうん、私はそれが羨ましかった!必死で生きてれば、はは!必死で生きるって変な言葉だな…、まあ、必死で生きて、頑張っても、間違っても、多分どこかで何かが変わるのだ。それはけっこうすごいことなのだ。

だからここは天国。

ここが天国で、またとない感動の星。

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