誕生日に本を贈っていただきました。
ツイッターがきっかけお知り合いになったkazuma(@kazumanovel)さんはネット古書店「一馬書房」の店主であり、まだお会いしたことはないけれど僕の良き話し相手であるのですが、そんな彼が、本を選んで、贈ってくれました。
嬉しいこと嬉しいこと。考えたら何かの機会にリクエストで本を買ってもらうことはあっても、本を選んでもらうっていうのは少なく、大変稀有なことです。
いつもブログで何か考えてる僕にはこれが良いのではないかと贈ってくれたのは、小林秀雄『考えるヒント』。
なんと、予想外というか予想通りというか予想以上というか、僕に良い本をと選んでくれるって最高です。
さては以前「一馬書房」で『世界という背理‐小林秀雄と吉本隆明』(めちゃくちゃ難しかったなー笑)を購入したことを覚えていてくれたのかな?と一瞬頭をよぎりました。そうだとしたらなお嬉しい。
評論・批評とは? 人を褒める特殊の技術だ
評論などを読む機会はそもそも少ないものです。
最近になってようやく評論なども読みながら作品を楽しむようになったけれど、それまでは面白くないものでした。大学時代ですら必要に迫られなければ読まなかった。
評論と聞けば作品をこき下ろしたり粗を探したりするような印象、というかどこかエラそうな空気があるけれど、小林秀雄の評論は愛に溢れて気持ちが良い。
「井伏君の『貸間あり』」 という評論では
作品評をする興味が、私を去ってから久しく、もう今では、好きな作品の理解を深めようとする願いだけが残っている。もっとも、嫌いな作品とは、作品とは言えぬと判断した抱く品で、判断は直ちに無関心をもたらすから、私には嫌いな作品というものもない事になる。嫌いという感情は不毛である。侮蔑の行く道は袋小路だ。いつの間にか、そんな簡明な事になった。誤解して貰いたくないが、これは私の告白で、主張ではない。いや、いつの間にか、主張するより告白する事を好むようになったと言えば済む事かもしれない『考えるヒント』p30‐p31 ※現代仮名遣いに直して引用しました
なんて書いてあって、なんだか妙に納得したりして面白い。
批評 という評論では
自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気付く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。p170
なんて書いてあって、愛の源はここかと、面白い。
そうかー、批評って人を褒める特殊の技術か。
評論は二次的なものだと思う
面白い、とは言え、評論は二次的なものだと思う。作品があってこその評論。
例えばプルーストの『失われた時を求めて』を読めば、読んだというだけで、仮に頭に何も入っていなかったとしても、読んだという実績が人生に生まれるんじゃないか。
おれは『失われた時を求めて』を読破したんだぜ、みたいな気持ちになると思う。
だけど小林秀雄の「考えるヒント」を読んだぜ、「文芸評論(上・下)」を読破したぜと言ったところで、ふーん、で、紹介作品は全部読んでるの?と言われるのがオチだろう。それでお前、微塵でも知能が上がったのかよと。
つまり、評論ってのは、読むことをゴールにしてはいかんということ。
評論そのものがそうであるように、評論を読むことというのは二次的な行為であるべきだと思う。二次的な行為であり、だからこそ、そこから浮揚する何かを自覚して初めて批評は機能するんじゃないか。
つまり、僕が何かを読む、評論を読む、付き合わせて考えて、それからまた考える。
僕がいなきゃ始まらない、誰かがいなきゃ終わりもしない、空転するだけで誰の人生にも寄与しない。付き合わせて浮かび上がった概念こそが少し洗練されてみえたりする。
これはつまり、カジュアルな弁証法だ、と思う。
正・反・合の流れに当てはまるのかどうか分からないけれど、とにかく、読むことで生まれる理知的な何かがある。
僕はこう考える、小林秀雄はこう考える、ということはこう考えることもできる、という、いわば第三者的な思考を作り上げるために評論はあると思う。
また、思考を突き合わせて浮かび上がってきた概念は、きっと自らが目指す方向へ流れていく。
例えば僕は、というかきっと誰でも、小説は良い気持ちで読みたいはずだ。中には作品の粗を探して楽しむ人もいるだろうけど、小説のすばらしさをもっと知りたいと願っている人が小林秀雄流の批評に触れれば、読書体験の楽しさは増すだろう。
加えて小林秀雄の評論はすでにある定立があって、ある反定立があって、それならこうだ!というものを書いているはずだから、僕みたいに浅学な人間の思考を引っ張っていってくれるのですね。
だから小林秀雄の評論はすべてどうしようもなく「考えるヒント」である。
『考えるヒント』に「考えるヒント」なんて載ってない
『考えるヒント』に「考えるヒント」なんて載ってない。
こう考えると良いよとか、こういう風に頭を使おうという風な本もあるけれど、考えるヒントは自分で考えることを考えることなしに考えるヒントにならない。
『考えるヒント』というタイトルは、いっそ『小林秀雄・評論集』でも良かったくらいなんじゃなかろうか。
でもそれじゃあまりに淡白で素っ気ないし『考えるヒント』くらいにすれば気が利いてるんじゃないかって感じでつけられたタイトルみたいな気がして面白い。
さてじゃあ『考えるヒント』を得て僕は何を考えるか。
問題はここからだ。
ありがとうございますkazumaさん!
書くことが随分増えました!
ネット古書店ってどんなんや?って思った方は 一馬書房 をぜひ覗いてみてください。
一馬書房のツイッターアカウントはこちら→(@kazumashobo)
評論・批評とは/小林秀雄の評論はすべて『考えるヒント』だ(完)
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