近代文学史をおさらいしながら考えた、今はどんな時代なんだろう。

高校とかで使う『最新国語便覧』が好きで暇なときによく眺めます。

当時はクラス内での圧倒的不人気の気配に飲まれて言えなかったけど、僕はけっこう文学史の授業が好きだったから、『最新国語便覧』の中の「文学史」の表を見るのが今でも好き。

みんなつまんなそうにしてたから僕も興味ない風を装っていたものですが、実は興味津々でした。ムッツリですね。

ちなみに『最新国語便覧』では文学史の思潮のひとつ「自然主義」の蘭にこんな説明が書いてあります。

西欧の自然主義の影響を受けて、人間のあるがままの姿を客観的に描く。客観的描写が自己告白に形を変えて、「私小説」へと展開し、日本文学の根底を流れる。

「代表的な作家とその作品」には、島崎藤村の『破壊』や田山花袋『布団』などが挙げられています。

ざっくり、「自然主義」=「私小説」=「赤裸々」みたいな図式を頭の中に作って、『布団』ってのは女弟子の布団の匂いを嗅ぐ作家の話らしいと聞いて読んでみると本当に匂いを嗅ぐ。

「あ『赤裸々』ってこういうことか」ってなんか知ってたはずの言葉なのに今初めて知ったわ今まで理解してると思ってた赤裸々は単にちょっとエロいみたいな感覚だったけどちょっと違ったみたいだわ的な経験をしてなんか文学って面白い、って思う。

余裕派・高踏派の代表的な作家は夏目漱石とか書いてあって、「うわぽいぽい」って思う。いかにも余裕ありそうな顔してるもんな夏目漱石。とかって頭の中ではヒートアップしてるんだけど表面上はクラスのお友達と同じように気だるそうにノートを取る。

言うなればこういう僕の取るに足らない告白もどこか私小説的であって、若干明かすのは恥ずかしいけどブログ記事の枕としてはなかなか適当な話題だとも思う。

そう、ブログってどことなく「私小説」っぽい。自分の体験とか感じていることを割と赤裸々に書き散らすことが多いと思う。

ただ文学史の表を見ていると、なんかブログにも流派的なものがあるよなって思ったところからこの記事を書こうと思いました。

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文学史的ブログ紹介

漠然と、ブログにも運営者の思潮というか在り方みたいなものが流れるよなって思いました。

ちなみに「自然主義」っぽいブログでまず思い浮かんだのは『わたしの時代は終わった。』ね。

このブログ大好きです。高度な下ネタ。リズムに気を遣った文章の心地よさ。そして赤裸々な語り口。

さっき「自然主義」=「私小説」=「赤裸々」って図式をちょっと書いたけど、実はこの次に

=「わたしの時代は終わった。」がポンと思い浮かんで、「あ、記事書こう」と思いました。

他にも文学史の思潮に当てはまるブログはあるでしょうか。

さっき挙げた自然主義の流れの次の時代には「余裕派・高踏派」が台頭してきます。

「余裕派・高踏派」ってどんな思潮なのかというと、『最新国語便覧』によると

個人の現実の姿を描く自然主義に対し、広い視野と余裕を持って対象を捉えた。理知的な独自の文学世界を築いた

この説明見たとき、「あーブログで言ったら『Chikirinの日記』かなあ」って思った。

社会派ブログとして有名だけど、感じるもんな、余裕。すごい余裕。 

余裕派・高踏派と同じ流れに「耽美派」とかっていう思潮もあるんだけど、じゃあこれはどんなものなのかというと

自然主義の醜い現実に対し、美を至高とする。

なるほどー。『いばや通信』とかがこれかな?って思う。

美というよりも世界の純粋性とか性善性みたいなものを表現しているブログなのかなと思います。

あと実はあまりブログを読まない僕がタイムラインに流れてくると読まずにいられない、一種の中毒なんじゃないかと感じている『sweet+++tea time』(暮らしブログ)。これもぜひ耽美派にいれたい。

この方の美というか「かわいいもの」を求め切り取るセンスが洗練されててすごい。かわいいものを愛す独自のフィルターがあって、このブログを通してそれを覗かせてもらってるような。そしてその特徴をかなり意識的に見せながらも嫌味にならないバランス感覚。

少し時代が下ると「新感覚派」という流れが生まれるのですが、これはどうでしょう。

機械化された近代社会の人間の現実生活を、知性に裏づけされた鋭い感覚で捉え、新しい表現技巧で書いた

という説明を見ると『隠居系男子』が思い浮かびました。

新しい表現技巧と言うと大袈裟に感じるかもしれないけど、なんというか「ブログ語」を使わない書き方みたいな、いや独自のWEB上での文体を洗練させたみたいな文章がかっこいいなと思います。

あと特にピンと来たのはこれ。

戦後文学の時代にあたる「新戯作派(無頼派)」

既成のモラルへの反逆と現実への絶望を、自己の自虐的な燃焼により描こうとした中堅作家

中堅作家ってのが気になるかもだけど、『最新国語便覧』を書き写しているだけなせいなので気にしないでほしい。

この説明を見て『警察官をクビになってからブログ』を思い出しました。

「モラルへの反逆」とか「現実への絶望」とか「自己の自虐的な燃焼」とかそういう風に見てしまうのは失礼かとは思いますが、僕が同じ立場だったらこういう精神で立ち向かうしかないなって思う。

傍から見ればそんな人生を書きながら、反逆とか絶望とかを感じさせない表現力と客観的な視座を守る語り口で、壮絶さとゆるさの絶妙なギャップを生み出しているように感じます。

思想がごちゃまぜの時代

ブログ紹介は本題ではなかったのになんか長くなってしまいました。

しかもこう見るとはてなブログが圧倒的に多いけどそれはたまたま。

何が言いたかったかと言うと、こんな風にブログにもそれぞれの思想とか表現の系統があるって思ってみるとちょっと面白いよねという話です。ブログってもはや文学っぽいよねって。

じゃあ逆に文学が描くべきものってなんだろう、とか思う。

僕が小説を書くとき、それは時代を捉えるのだろうか、それとも時代なんか捉える必要がないのではないだろうか。

 

表現者が増えた現代では、思想とか表現の系統が同時代にありながら本当にごちゃまぜで、この時代を代表する思想みたいなものってないんだなって思います。

そりゃどの時代にもいろいろな考え方の人がいたのだろうけど、昔は今よりはっきりと、大雑把にその時代を表す主流の思想、その時代を貫く背骨となる思想というものがあって、文学史に残るような作品や作家はその思想に合致したものだったってことですよね。

今ももしかしたら「こういう考え方の時代だ」って言えるのかもしれないし、そういうものは時代を経てからしか分からないことなのかもしれません。

しかしそれにしたって今はあらゆる思想やあり方があまりにもごちゃまぜになっていて、主流の考え方とか、時代の空気を一言で表すみたいなことがナンセンスなようにさえ感じる。あらゆる現実があり、あらゆる考え方があり、同じ現実でも、見る人によって様相が異なる。

逆に言えばそういう世界観の一致がこの時代性を表しているのかもしれないけど、じゃあこの一体感の無い時代で僕は何を考え、何を感じるのが正解なんだろう。そして何を書けば良いのだろう。

いや感じたいものを感じて、考えたいことを考えればいいんだよ。そして好きなことを書けば良い。

そう言ってくれる人もいるかもしれないし、結局そうするしかないんだろうけれど、そんな風に簡単に割り切ってしまうのにも一抹の不安を覚えます。

正しいも正しくないもない。自分が見たように世界は出来ているし、言わば自己肯定こそが正しい世界を作る。

そうやって僕らは「ポスト真実」を緩やかに受け入れていくんだろうか。

頭ごなしの理解というレスコミュニケーションが生まれるんじゃないだろうか。

みんなが考えたいように世界を考え、感じたいように世界を感じ、同じ場所(地球)にいながらにしてまったく違う景色を見て、それが世界の正しさで、そこにいる自分が正しいと信じる。

それを希望ととるか不安ととるかは人によるし時と場合によるのだけど、もしそういった時代の先が、人と人の断絶や壁を物ともしないで済むようになるのであれば、どちらかと言えば寂しくなる、気がする。

いやたぶん変な方向に考えすぎなんだけど、とにかく今はこの捉え難い時代を捉えて、この時代だから書ける文章を書きたいという気持ちが強いせいでちょっと脳みそが迷子になってる。

近代文学史をおさらいしながら考えた、今はどんな時代なんだろう。(完)

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