『書きあぐねている人のための小説入門』は何度も読んだけど、保坂和志の小説を読んだことがない

僕が小説を書こうと思ったきっかけの本でもあり、実際書きあぐねる度にページをめくることになる『書きあぐねている人のための小説入門』を僕が気に入っている一番の理由は、多分作者の名前が僕と同じだからだ。

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

字は違うけど、和志という名前が一緒。それだけのことで親近感が湧き、疎かにできないのだから単純なものですが、もちろんそれだけではなく、この本には小説について考えるヒントがたくさん書かれているからお気に入りなのです。

小説の書き方を手取り足取り教えてくれるワケじゃない。小説ってなんだろう、どうして小説じゃなきゃいけないんだろう、小説家って何なんだろう。そういうことを考える意義が分かる本であり、何かを知ったり得たりするためではなく、小説家的な人が小説的なものを考えるための本だと思う。

言うなれば「書きあぐねている状態」が小説家には必要なのかな、って思わせてくれる本。

多分この本を読んで、「大した役に立たねえな」とか「抽象論ばかりで一貫性がないし、小説入門とは名ばかり」とか思う人は、小説家にはなれないんだろうなとも思う。

「正しい小説の書き方」とか「小説とは」という問いに答える術があったとして、それを求めているのだとしたら、その人は既に小説を書く意味の大半を失っているんじゃないかと思うから。

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小説家とはオピニオンリーダーではなく観察者なのだ

書くことにつまづく度に『書きあぐねている人のための小説入門』のページを僕は適当に開くんだけど、内容を事細かに覚えているわけじゃありません。

でも僕の中ですごく大事にしている箇所があって、それは小説を書こうと思ったきっかけになった箇所でもあって、そこだけははっきり覚えているのだけど、ここさえ間違えなければ僕はプロになれるかどうかとか傑作を書き上げることができるかどうかは関係なく「小説家」でいられるのかなと思います。

それはこんなフレーズです。

「小説家とはオピニオンリーダーではなく観察者なのだ」

あるセンテンスの中で、括弧書きで、ぼそっと囁かれるように書いてある文なんだけど、かつての僕はここにすごく納得というか、感動しました。

当時何となく、世の中で生きていくためには意見がなきゃいけないんだ、意志がなきゃいけないんだと感じていて、それがすごく億劫だと思っていたから、意見を述べることを意識的に避けるような職業があるんだと思い、嬉しくなりました。

きっと多くの人はずっと小さい頃から世に溢れる色々な事柄に対して「どう感じたか」とか「何を考えたか」とかを問われて来たと思うし、それに対して何となくの正解・不正解を与えられてきたと思う。

でも自分が自然に感じられることは限られているし考えられる範囲も限られていて、感じるべきことや考えるべきことがたとえ世の中にあったとしても、セットで期待される答えがあるのだとしたら、もう僕が考える必要はないじゃないかと思ってた。

それも一つの意見には違いないのだけど、問いに対する答えというものが常に存在するのであれば、問い自体が不要じゃないかという漠然とした反発感があって、意見を求められる場で僕はいつも何も言えなくなってしまってた。

そこへ「観察者」という立場を提示してくれたのが、『書きあぐねている人のための小説入門』だったのです。

書きあぐねるための小説入門書

あらゆることに答えがあるのであれば、問う必要がなくなる。

正しさというものがあるなら、迷う必要はなくなる。

でも僕ら人間は、漠然とした正しさの存在は信じていても、その通りになんて考えたり感じたりできないから悩んだり困ったり、ときには間違ったことをして笑われたり怒られたりするのですよね。

小説はそういう人間のどうしようもなさというか、ままならなさを肯定するものであり、答えを求めないからこそ成り立つものであると思います。

だから『書きあぐねている人のための小説入門』はそういう意味で現役の作家さんらしい語り口の入門書であって、「小説」というものに対して誠実であろうとする作者の気持ちが表れた本であると思います。

また、こんな風にも考えます。

文章には啓発書とかハウツー本のように実用的な目的を持ったものがありますが、少なくとも小説は芸術に分類されるべき領域の文章なのではないでしょうか。

そして芸術はどこまでも役に立たないことがポイントだと思うから、そういうものに立ち向かうときに読む本が(それがたとえ「小説入門」というハウツー的なタイトルを冠されていたとしても)あまりに実用的であれば興がそがれてしまうということもある。

もちろん全く不要とは思わないし、テクニカルな部分を求めることはあると思うけど、それは「小説を書くという作業」に必要なことであって、「小説を書く」上で必要なことだとは思えない。

んー分かりにくいかもしれないけど、仮にこの本に「書きあぐねている状態」を乗り越える具体的でテクニカルな方法が書かれていて、それに従って「書きあぐねている状態」を乗り越えれば、問題は解決かもしれないけど、それは既にあなたの問題ではなくなってしまっているから、あなたが書く必要がなくなるということ、という感じ。

つまり、書きあぐねている人が自分の力でその状態を脱するために、そこを乗り越える方法論ではなく「そういう状態が着実にあなたを、あたなだけの正解に近づけている」という保証が欲しいというときに読む本なのではないでしょうか。

だから「書きあぐねている人のための」小説入門なのかなと僕は思っています。

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

保坂和志さんの本を読んだことがないです

僕にとって『書きあぐねている人のための小説入門』は、自分だけの問題と向き合うっていう辛くて孤独な作業に一種の安心をもたらしてくれる本です。

輪郭が見えているのに手に取れないもどかしさとか、逃げ水を追いかけるような途方に暮れそうな虚しさとか、360度展開する現実を文字に落とし込もうとするときに感じる媒介の限界とか、そういうのを感じたときこの本を開けば、「先輩」が見ててくれるという感じがして少し安心する。

こんな感じだからこそ、「小説ってまず何をどうしたら良いのかな?」「ネタ探しとかってどうすれば良いのかな?」「一人称とか三人称って何?どっちで書けば良いの?」という人には「あんま役に立たないな」って印象になるかもしれません。

ところで、僕『書きあぐねている人のための小説入門』はもう随分昔から何度も読んでるんだけど、保坂和志さんの小説ひとつも読んだことないんですよね。

大した理由ではないのですが、「楽しめなかったらどうしよう…」っていう気持ちが強くてついつい避けちゃう。

楽しめなかったら今までバイブルのように扱っていた『書きあぐねている人のための小説入門』への信頼感も下がっちゃうんじゃないかって。

いやそもそも「楽しめなきゃいけない」とか心の底で考えながら本を読むこと自体邪道だよなとか色々考えてしまって結果避けるという選択をし続けている。

馬鹿々々しいことなのは分かってるのですが、こういう複雑さも僕の大事な問題だし、「保坂和志の本を読む」という多くの人にとっては超なんでもないことが一大事になるということは十分小説的だな、とも思ってる。

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