あなたには『モモ』を読む時間はあるか/ミヒャエル・エンデと文化的なものの役割

剣淵の夜を経て以降、ずーっと文明と文化について考えてる。

ずーっとと言っても四六時中という訳ではないけれど、午後からは大体いつも文明と文化について考えてる。

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絵本の役割は文明に傾いた船をまっすぐな状態に引き上げること

具体的にどんなことを考えているのかと言うと

文明はなぜ崩壊してしまうんだろう。

文化的なものの役割とはなんだろう。

ということ。

ああそう言えば高橋さん(絵本の里をつくろう会初代会長)もそんなこと言ってたな。

なぜ文明は滅びるのかという問いがふいに浮かんで来たって言ってた。

どうしてこんな問いが発生するのかっていうのは分からないけれど、文明ってなぜか崩壊がセットであるような雰囲気があるし、実際に滅びた文明はたくさんあるし、僕たちの文明だって、このまま永遠に続くなんて誰も思っていないだろうとは思う。

その終わりってどういう風に来るのかな…っていう程度の問いなのだと思います。

そんで、絵本の役割は文明に傾いてしまった人の世のバランスを整えることなんだそうです。

まるで我々を乗せて海の上で転覆しそうになっている船を、まっすぐな状態に引き上げるような。転覆を救う力。

絵本に限らず、文化に属するもの、ざっくり芸術の領域に達するものや精神に関わる事柄だと僕は思ってるけど、そういうものは文明社会を救う力がある。

文明崩壊のイメージと実際

文明が崩壊する?

そんなこと言ってて楽しいの?とか、そりゃあいつかは崩壊するだろうねみたいに訳知り顔で言う人もいると思う。でもそれ俺らがとっくに死んだ後なんじゃないの?とか言って。

もしかして終末論ってやつ?

なんか宗教っぽい考え方入ってるんじゃない?

と思う人もいるかもしれない。

多分そういう人は、文明の崩壊をすごく大きなものだと思ってるし、SF映画とか小説の出来事みたいに派手なことだと思ってるのだと思います。

いやそういうスペクタクル的な崩壊の仕方もあるかもしれないけど、剣淵の夜、高橋さんのお話を聞いて、そしてそれからやく一月の間考えてこわっって思ったのは、その崩壊っていうのがコツコツ行われるものだということに気付いてからです。

それはもうシロアリが家を食い荒らすように、タバコが体を冒すように。

もしくは、「そんな寒いかっこしてたら風邪ひくよ」くらいの軽いスタンスで言ってることなのだと思いました。

船の例えで言えば、僕らを乗せた船は確かに文明に傾いてる。

でも乗ってる人は長いスパンで現状を俯瞰してみたりしないから、今に始まったことじゃないとか、釣りをするのに便利だとか言ってその現状を怖いと思わない。

転覆してやっと異常事態に気付くからそりゃ急に崩れたように見えるかもしれないけれど、いやもともと傾いてたじゃん、ちょっと大きい波来たら終わりだって分かり切ってたじゃんって言っても打ちのめされるばかりでまさかこんなことになるとはってことになる。

バランスが失われるってすごく怖いし、それに気づかないのも怖い。

その怖さや不安を解消するために神様にお願いするのが宗教なのかな?

そのバランスをとるために絵本とか物語を考えて人に分かりやすく気持ちを伝えるのが文化的なものの役割なのかな?

ちょっと一回冷静に考えよう!今僕たちはこんな状況です!みたいな問いかけができるイメージ。

おやでもじゃあ宗教もある意味すごく文化的な営みなのかも。

あまり詳しくないからあんまり言及すべきではないのかもしれないけど、宗教っぽいというだけでアレルギーみたいに無条件に「えー宗教やばーい!危なくない?」みたいなのも馬鹿っぽいでよね。

知らない宗教はヤバいけど知ってる宗教は教養みたいな思考ってまさに文明的です。

イメージとか先入観とか決めつけに惑わされず、もっとフラットに判断できるようになりたいものですよね。

で、たぶんこのフラットって言うのが文化的なものの役割なんだと思う。なんとなく。

ミヒャエル・エンデの功績

「傾いた船をまっすぐに引き揚げる役割を持つのが絵本」という話に戻るんだけど、文化的なものっていつもバランスを整える視点みたいのがあるのではないかと思いました。

剣淵ではその役割を負うのが絵本だったと。

船をまっすぐにというのはつまり、フラットな視点を持っているからこそ出来ることだろうし。そうじゃないと傾いてるなーとかって思わないでしょ。

ここが大事なんだけど、実際に傾いていようがいまいが、その傾いた土台に乗っている人が聞く耳を持っていなければ意味がないのです。

ヤバいって!このままじゃひっくり返るって!といくら言ったとしても、なかなか人は話を聞きません。

言い訳をしたり反発をしたり見栄を張ったりして。

結局同じ土台に立っているから説得力もありません。

いや俺たちまっすぐ向かい合って目あってるよね?どこが傾いてるの?って。

しかしフラットな視点で以って「傾いている」ということを伝えることができれば、人は自分の足場の傾きを理解します。

フラットなものだからこそ、それを基準に自分の傾きを測ることができる。

だから文化的なものはバランスを保つ力を持っているのです。

ああそうか、何かを伝えるために物語の力を使うというのは、客観性の権化となる手段なんだ。

どうにかして伝えようと思ったときに物語を使うというのは、自分を消すためなんだ。

文化的な人間になりたいものだ。

偏らず、評価せず、あるものをあるがままに見られる、つまりいつもフラットな思考ができる人間に。それで傾いてたら不安を煽ったりするのではなく、傾いてるよーって上手に伝えられる人に。

フラットで客観的な見方ができる人になりたい。朝と夜は朝と夜。

そんな自分がなりたい理想の人物を思い描いているうちにスパンと脳裏をよぎったのはミヒャエル・エンデでした。

文化人ミヒャエル・エンデ

ああ、あの賢い賢い児童文学作家はすごく文化的な人だ。

過去にこのブログに書いた記事で

お金に足をひっぱられて、出来ることもできなくなっていないか【疑問編】

お金に足をひっぱられて、出来ることもできなくなっていないか【回答編】三つの鏡~ミヒャエル・エンデとの対話~を読んで

というものがあるのですが(やっと繋がった感じがする)、『三つの鏡~ミヒャエル・エンデとの対話~』の中でエンデさんと対談した井上ひさしさんがこんなまとめ方をしていて共感したので引用した箇所があります。

三つの鏡―ミヒャエル・エンデとの対話

もう一回引用させてもらいます。

(井上)お金や物では完全な幸せは手に入らないことが、だんだんみんな分かって来ていますので、お金とか物とは違う、エンデさんに即して言えば、精神世界にものすごい豊かさがあるというすばらしい物語をたくさん読んでもらうことによって、普通の人の意識が変わることを信じてやるしかない、というのが、作家としても一応の結論ですね。

上にリンクを貼った文章はお金に注目した記事ですが、お金というのはまさに文明的なシステムの象徴で、言わばお約束事で、経済とそれにまつわるモノというのは今現在も信じられないスピードで膨張しているものです。

そのせいで競争が激しくなって、生み続けなくてはならないダッシュマラソンが続いている。

おかげで人々はいつも時間がない時間がないと言っている。 極小の労力で、極大の利益を得るのは何も商売の上だけではなく、人生全てを通してのテーマとなっている。

人はいつも何か確実なものを効率良く得ようと思っている。だから巷にあふれる商品も、このブログのような情報も、分かりやすく、手っ取り早く目的のものが確実に得られるものでなければならないと思われてる。

みんながみんな文明的な何かを得るために日々奔走している。

人々には時間がない。

お前は何を考えているのか。

どうやって生きようと思っているのか。

そんな単純で重要な問いを発してからもう2か月が経とうとしている。

本当は今日の晩飯何にしようかなんて問いと同じくらい毎日考えても良いことだと思う。

時間をかけて考えているのだろうか。

いやそのことについて考える時間がないみたいだ。

もしくは、本人にとってあまり重要なことではないのかもしれない。

そんな、会話がままならない個人的な事情があって、僕は思い知っている。

人々には時間がない。

ああそうか。 こういうときのためにミヒャエル・エンデは用意しておいてくれたんだ。

『モモ』を。

モモ

モモ (岩波少年文庫(127))

時間泥棒とたたかう勇敢な少女のお話。

現代人には、この物語を読む時間すらないというのが盲点かもしれない。

でもだからこそ『モモ』は子供のうちに読んでおくべき本なんだ。

子供向けのやさしい物語ではあるけれど、時間がない大人にとってはぶ厚すぎる名作だ。

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