「物語」に対するアレルギーと二番煎じのまちづくり

例えば誰かに何かを伝えたいと思うとき、物語が大事だストーリーが大事だと言えば、鼻白んでしまう人も多いのかもしれない。

ビジネスのシーンでは、会社のことを伝えたいとか、製品に込めた経営者の思いを伝えたいといったとき、「モノではなくストーリーを提供する」という一種のノウハウがあると思うけど、果たしてまちづくりのシーンではどうだろう。

まちづくりのシーンでこそ物語は必要なのに、あくまで僕の感覚でだけど、地域ではストーリーよりもモノのアピールが先行していると思う。

もっと物語を、もっとストーリーをと言ってみても、何を難しいことを、何を面倒なことをと虚しく響いて黙殺されてしまう。

「物語」や「ストーリー」。 そんな言葉を聞くとうすら寒く感じてしまうような、アレルギー反応を持っている方も多いのだろうと思う。

しかし、町おこしや地域のPRに漂う二番煎じの気配を感じてみれば、それは「物語」が欠如しているからなんじゃないか、と思うのです。

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 田舎らしさを作る材料になってないか

まちづくりや地域のPRはそれぞれが完全オリジナルという訳ではありません。

もちろん先駆けというのはあるだろうけど、多くの場合、「なぜかどこかで聞いたことがあるような活動」に収まってしまう。

ああ、田舎ってそういうことするよね、みたいなことです。

例えば地域のマスコット、ゆるキャラを作ること、あと(田んぼアートみたいな)地域の特性を生かしたアートを生むこと、特産品とその広告にアニメーションを使ったり、ロゴを作ったり、地域にゆかりのある有名人を歓待すること、などなど。

関連記事→ゆるキャラは現代の神話になるか

例えば、たまたま思いだしたんですけど、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』という本にこんなシーンがあります。

   

あたしの住んでるまちは、とても小さい。とてもさびれている。少し案内してみよう。 町の真ん中にあるのは市場。魚の。磯の臭いがぷぅんと漂っていて、朝はすごいんだろうけど私たちが通る通学時間にはもう誰もいなくて、ホースから垂れる水が歩道を濡らしているだけ。 がらーんとしている。 その近くには小さな路面電車の駅。山奥から通学してくる子たちが乗っていて、朝はいつも満員だ。電車の外壁にはなぜかマンガチックな鰯のイラストが描かれている。 港で獲れる鰯をみんなで食べよう、という宣伝らしい。 赤や黄色や緑に塗られたかわいい鰯の電車が音をたてて停まり、わらわらと学生たちが降りてくる。

  (主人公の女子中学生の視点を通して)田舎町を端的に描写した一部分です。

縁もゆかりもない場所だけど、とても小さくて、とてもさびれている、よくある田舎の空気と言うか雰囲気は、おそらく多くの人が共感できるはずです。

「電車の外壁にはなぜかマンガチックな鰯のイラストが描かれている。」

という部分は、誰もが自分の地域にいるマスコット的なキャラクターを無意識に連想して、なんとなくどんな絵なのかが想像できるに違いありません。

だから、あるあるなんです。

鰯のキャラクターが町のあちこちに描かれている地域はこの世にたった一つかもしれないし完全なオリジナルかもしれないけれど、それでもその地域の特異性や特徴を表現するものにはならない。どこかで見たような、どこでもありそうなもので、「田舎あるある」な光景なのです。

つまり、もしこれから地域を表したキャラクターを作ったり、特徴的なマスコットを生み出したりしたとして、それがどれだけの会議を繰り返し、どれだけの予算をかけた代物だとしても、どこかで見たことがある、どこにでもありそうなものになってしまう。

言ってしまえば二番煎じ三番煎じの代物になってしまう。キャラクターとかマスコットだけでなく、イベントとか特産品づくりとか、何だってそうです。

ではどうすれば二番煎じと取られずに済むのか

その答えが「物語」の有無にあるのではないでしょうか。

人は物語なしに物事を考えることはできません。

言い方を変えれば、必ず脈絡を見るし、バックボーンを意識する、ということです。

そこにオリジナリティがあるかどうかが大事なのではないでしょうか。

 剣淵町の『じんじん』制作に見る文脈

例えば、朝日町からも程近い剣淵町(けんぶちちょう)では、その地域を舞台とした映画『じんじん』が作られました。

2012年の話しです。

すごいのは、ある映画があって、その舞台として剣淵町が選ばれたのではなく、剣淵町を舞台にすべく映画が作られたこと

俳優の大地康雄さんがこの剣淵町を訪れたときに見た景色や人の営みに感動し、ここで映画を作りたいと考えたのだそうです。

羨ましい限りだし、全米で大ヒットなんてことにはならないだろうがある程度知名度が上がったことは間違いないし、映画の影響で剣淵町に立ち寄る動機が生まれた人も少なくないだろうと思います。

では、わが朝日町でもこの景色や人々の営みを活用して、映画作りプロジェクトを始めようなんて話になったらどうだろう。

地理的にはそれほど離れていない町で映画が一本作れるのだから、わが町でもできるだろうと言う話になったら。

当然、経緯が違うから、この地を舞台にして映画を作ってくれる人が必要になります。

脚本家でも良いし、剣淵のように俳優でもいいでしょう。

誰か縁のある人を探すなり、朝日町という田舎町を使って創作活動をしたいという方を募って、映画を作るとする。

それなりの予算を使って、素晴らしい脚本とキャスト、そしてロケーションで、それなりに良い映画が出来たとする。

実際、『じんじん』より興行収入は上になったとする。

それでも、朝日町がやったことは二番煎じです。

経済的な成功も、要領を得て、お金を稼ぐために作ったからこその話し。

ある程度名前が知れたとしても、それでは二番煎じが成功したという印象がついて回って、理想とするような肯定的な評価はされません。

物語がないから。

では物語とは何か。

それは、文脈であり、必然性でしょう

いくつもの自然や偶然が連なって、掘れば掘るほど始まりが分からなくなったり、根が広く拡がって全体が把握できなくなるような出来事。

剣淵で映画を作ることになったのはなぜか

剣淵で映画を作ることになったのは何故か。

少し堀っただけでも、まず大地康雄さんがその町を気に入ったという事実、以前別の映画のロケでそこを訪れていたという偶然、一例ではあろうが絵本の館での一般市民による読み聞かせ活動などに感銘を受けたと言っていることから、「絵本の館」の存在などの要素が織り交ざって、映画作りという活動が生まれました。

では、どうして絵本の館が作られることになったのかという疑問も湧くだろうし、大地さんが俳優でなくて小説家だったり画家だったりしたら別の形になっていたかもしれないとか、そもそも大地さんでなければという話になったりして、一つの出来事から派生する物語が延々と存在する。

そんな物語なしに、映画作りが町おこしに良いという結果を受けて映画を作ったのだとすれば、周りから見える物語はその程度。

つまり町おこし用に映画作ったんでしょ?という程度の脈絡が優先して見られることになる。

だからこそ、どれだけ表面的に成功したところで、その価値は二番煎じという物語の上に立ってしまい、純粋な芸術的価値を失うことになるのです。

2017年5月追記:じんじん~其の二~が神奈川県秦野氏を舞台に制作されたようです。監督が秦野氏在住とかで。
このような記事を書いたのでとても複雑な気分。図らずも秦野市批判、もしくは『じんじん』批判みたいな記事になってしまっているような。
だからといって記事消さないけど。

 物語を意識して

何が何でも先駆けになる必要はありません。

何事も模倣からというし、長所を真似たり、成功法則を踏襲したりするのは良い。

しかし、脈絡のないことをするべきではないと思います。

いくら脈絡がなく思い付きで始めたことだとしても、人は脈絡つまり物語を補うものだし、そのとき補われるのは一番自然で分かりやすい一部分です。

本気で映画を作りたかったとしても、朝日町の良さをアピールするためだとしても、周りが採用するのは、どこかの町おこしの真似という文脈です。

そして田舎ってそんな感じだよねという嘲笑。

繰り返しになるけど、真似が悪いことではないし、目的は田舎らしさを脱却することではないのです。

どうすれば二番煎じという印象を払拭できるかだし、どうすればひとつひとつが魅力的な活動になるかが問題です。

その答えは物語にあると僕は思う。

物語やストーリーをバカにして、良いモノは生まれないと思う。

脈絡のないことをしない、根の浅いことをしない、そして分かりやすい(見え透いた)ことをしない。

そういう風に物語の部分を大事に扱うことで、結果以上の魅力やそれに対する好奇心、ひいては知る価値が生まるだろうと思うのです。    

 「物語」に対するアレルギー反応/二番煎じにならないために(完)

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