多様なものを多様なままにしておく工夫

多様性が叫ばれる時代ですが、世界というものはそもそも多様なものですよね。

森を見てみれば分かるとおり、自然界は正しいものだけで埋め尽くされている訳ではないし、適者だけがいつも生き残っている訳ではない。世界は常に雑多で、どの種がいつどうなるか分からない状態で共存している。

この話は前回の 町おこしはどうなれば成功なのか で少し触れたことです。

この地球にある生き物ってもともとみんな全然違って、一様になろうとする方が自然界から見るとちょっとイレギュラー。

でも、多様性が叫ばれる現代はともかくとして、ひと昔前まで日本ははっきりと一様になろうとしていたと思います。

生き方に正解があって、「普通」とか「人並み」に生きるのが人生の至上命題かのように感じられる時代があった。「このように成長し、このように死を迎えるのが正しい」と信じられる時代があった。

「それってやっぱりちょっと異常だったんだよ、みんながまやかしの『普通』目指して一様に人生設計したら、状況が変わった時点でみんな仲良く死んじゃうよね」

「そうでなくても、仮に死んじゃわないとしても、みんな一緒ってつまんないよね、みんな本当は違うのに」

そんな風に言われるようになったのが、現代(僕の感覚で2010年代)なのだと思います。

つまり、僕らは多様に生きようと意気込んでいるのではなく、もともとの自然な形に戻ろうぜ、自分に素直になろうぜ、みたいなことを言っているのでしょう。

この記事のタイトルは「多様なものを多様なままにしておく工夫」ですが、ざっくりどんな話がしたいのかというと、「どうして僕らは自然界にある動物や植物のように多様なままで生きるのが難しいんだろう?」ということ、そして「自然界ではちょっとイレギュラーな僕たちが多様なまま生きるためにはどうしたら良いだろう?」ということです。

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人間は言葉を持っている

自然界も人間界も、目指していることは基本的に一緒だと思います。

それは「生きること」です。

みんながみんな「生きる」ために色々な工夫をしている。まとまってコミュニティを作って暮らしたり、反対に散らばって暮らしたり、住む場所をよく選んだり。これは基本的に人間も同じですよね。

人間界と自然界とで大きく違うのは、たぶん高度なコミュニケーション手段である言葉を持っていることだと思います。

これは僕が大学で言葉とか文化のお勉強をしていたから言っているだけです。つまり自分と親和性の高い話題を展開したいだけなので話し半分に聞いていただきたいのですが、とにかく「そうなんじゃないかなあ」って思う。

人間は言葉があるが故に変に先が見えてしまうし、先が見えてしまうが故に「間違いを自覚しながら生きなくてはならない」

少々ややこしい言い方をしてしまうけど、僕ら人間は言葉があるが故に過去と未来という概念を持ち、意識的に過去を振り返ったり、未来を予測したりできます。

過去という概念を言葉で共有しているからこそ「昨日の話」ができるし、未来という概念を言葉で共有しているからこそ、「明日の話」ができる。過去も未来も言葉の上にしか存在しないのに、僕らははっきりとそれを共有できる。

僕らは言葉を扱うことによって過去と現在と未来を直線で繋げ、今どう生きるべきかという情報を導き出すことができる。

例えば、「あのお店は毎週土日に混むから、今のうちに予約しておいた方が良いよ」という情報が伝えられて、実際に今予約ができるのは、言葉があるからなのです。

「どう生きるべきか」という情報が交換・共有できるのはすごいことですが、「どう生きるべきか」ということが定まってしまうと、「それ以外は間違いである」ということも同時に分かってしまう。つまり、「予約をしないのは愚かだ」ということが完全に分かってしまう。

この、人間が扱える高度なコミュニケーションの方法によって、僕らは自然界でとても有利に暮らせるけど、一方で間違いながら生きることができない、という特徴があると思う。

間違いながら生きるという自然界には当たり前にある選択肢が実質無くなってしまうのです。

それが引いては多様性を損なうことに繋がっているのかもね、と僕は思うのです。

多様性×コミュニティ

精神的な多様性というものは取り戻したいところです。肉体は同じ人類なのだから多様性というほどはないと思うけど、僕らは精神的に成熟した種なので精神の方の多様性がすごい。パッと見目に見えにくいから不便だけど、これを守りたい。

というかそうしないと僕たち滅びちゃうんじゃないの?って思う。自滅しちゃう。

何故なら、人類の営みだって自然界の試行錯誤の一部でしかないからです。

僕らはたまたま特技を活かして種としての生存戦略をクリアして来たけれど、今は既存のコミュニティ(町とか村とか)が続々崩壊していってるし、人口は減ってきているし、戦争だってしてしまう。 どれもこれも競争に精を出し過ぎたからだろうし、人生の価値基準を一律に固定しすぎたから起こった自爆なんだろう。

文明の名の元に「正解」を定め続け、これが正しいルートだと決めなければ気が済まず、安定を求め続けた。

自然には正しさというものは存在せず、ゴールは常に全方向に用意されていて、進んだ先がどうなっているのかは等しく分かりません。

だからこそ、みんなバラバラに、つまり多様な姿で突き進まなければならないと思います。

分んないまま突き進む勇気、不足を補う心意気

今やってること、今ここにいること。

僕らは正解を歩んでいないと不安になってしまうし劣っていると感じてしまうけど、そんなのは分からないというか常に暫定的なものでしかありませんよね。

もし、絶対に生き残れると100%保障付きの生き方がしたいならそれも良いと思うけど、そんなことはありえないわけだから、移り変わる世界、諸行無常の世界を僕らが泳ぎ渡るには常に正解を定めず、それぞれがそれぞれの道を開拓する必要があると思う。

と言ってもこれは種のレベルで言ってることで、多様性を取り戻すことこそが「ヒト」の生存戦略なのだという風に言ってるように聞こえるかもだけど、それだけではありません。

僕ら人間の有利なところは、仮に今不利な状況にいたり、危ない状況にいる人がいても余裕のある人が助けられるってところですよね。

情報を伝えあって、過去から学んだり、未来に約束したりできるところが、すごく大きなアドバンテージ。これを利用すれば、僕ら蹴落とし合うよりもっと簡単に助け合うことができる。

多様性を失うというのは、言わばこの思わぬところから伸びてくる手を失うということなので危険なのだと思います。

僕らが多様なままでいるためにはどうすれば良いか。

それは、分かんないけどこのまま突き進もうっていう勇気を持つことなんじゃないかなと思う。そして自分は今この道を信じていて、この道を行こうと思ってるんだって周りに言っておくことだと思う。

そしたら、そうか、お前はそっちなのね、俺はこっち行くから、なんかあったらまた連絡してな、連絡なかったら適当なときに声かけ合おうなみたいな、人間らしいコミュニケーション能力で以てみんな生き延びられるようになると思う。

理想論過ぎるだろうか。でもほんとにそう思う。

こちらも読んで欲しいです→情熱と個性と蹄鉄屋

多様なものを多様なままにしておく工夫(完)

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