文体ってなに。どうやって磨くの。

自分で考える創作論

「文体」って英語だとstyleです。

あの作家の文体が好きとか言うことはあると思うし、そう言うとなんだか「分かってる感」が出せるかもしれないけど、実際のところ文体の良し悪しなんてそんなになくて、完全な好みの問題だってことが、「スタイル」と言うと、なんか分かる。

ぽっちゃりが好きとか細マッチョが好きとか言ってるのとさほど変わらないのですね。

でも人の体と違って、文章のスタイルってなんか言葉にしにくいですよね。

身長が○○㎝とか、八頭身だとか、バストが○○cmとか腹筋が6つに割れてるとかって数字に還元しにくいし、したところでという感じがある。

言葉にできないけど「良いな」「読みやすいな」と感じたときに、我々は「あの人の文体が好きで~」とか、「文体が独特で~」とかって話し出す傾向にある。多分、日常会話では「口調」くらいの感覚で、「文体」という言葉を使っていると思います。

好きな文章に対して文体って言葉を持ち出して語る分にはそれで全然良いけど、例えば自分の文体を磨きたいと思ったとき、僕らは具体的にどうしたら良いのだろう?

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文体とは何を選ぶかである

前節で引用したどの文章も、風景のすべてを書き尽くしているわけでなく、何を書いて何を書かないかの取捨選択がなされていて、その抜き出した風景をどういう風に並べると風景として再現されるかという出力の運動(これが直列にする作業だ)に基づいて書かれている。

意外かもしれないが、これが文体の発生であって、私の考えでは、文体とはこの作業の痕跡のことでしかない(だから翻訳でも十分に文体がわかる)。123p

これは保坂和志さんの『書きあぐねている人のための小説入門』という本に書かれていた文体についての文章です。僕と名前が一緒だから親近感あるんですよね。

『書きあぐねている人のための小説入門』は何度も読んだけど、保坂和志の小説を読んだことがない

僕はこれに納得したから、これを読んで以来文体ってこういうものだと思ってる。「前節で引用したどの文章も~」というのは、説明しなくても分かると思うけどいくつかの小説の引用文のことです。ここだけ抜き出されてもピンと来ないという方は手近にある適当な小説の文章を見てみてほしい。

文章の何が難しいって、たくさんの事柄の中から常に選び続けなくてはならないということです。

例えばある部屋に入って「汚い」と感じたことを文章で誰かに伝えようとするとする。

そのとき何を選んで伝えるか、という辺りが、その人の「文体」なのだ。

試しに二つ例文を作ってみました。

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「汚い部屋」を描写してみよう

ケース① 散乱

服が脱ぎ散らかされている。長そでのシャツ、足が片方裏返しに巻き込まれているジーンズ、汚れた下着まで落ちている。夏なのに冬物のコートまでもが落ちているところを見ると、ここの住人が姿を消したのはまだ寒い時期なのかもしれない。しかし、住人はそれを着ないで出かけたようだ。床には雑誌やDVDが散乱している。少々不自然な散らかり方。“争った形跡”というヤツかもしれない。

ケース② 不潔

カップラーメンやコンビニ弁当の食べ残しがあった。汁がまだ残り、弁当は野菜の煮物らしきものだけ丁寧に残されていて、しかしそれはもう原型を留めておらず、ハエがそこを中心にたかっている。心なしが畳は湿っていて、今すぐにでも窓を開け放ち、風を入れる代わりに私が出ていきたい衝動に駆られたが、まだ見るべきところがある。キッチン、バスルーム、トイレ。ため息を吐きそうになったが、そのためには深く息を吸わなければならないことに気づき、行き場のない不快を晴らすかのように、足元にあるグラビア雑誌を、少々荒く踏みつけた。

ここの二つの文章で語られている内容は全然違うけれど、同じ部屋だという可能性があります。というか同じ部屋のつもりで書きました。

イメージとしては、上が男性のベテラン刑事で、下が女性の新米刑事による描写。

同じ部屋なのに、見る人によって選び取られる情報が全然違って、結果的にまったく違う部屋かのような印象を読む人に与える。

文体の違いって句読点とかワンセンテンスの長さとかじゃなくて、つまりこういうことなのではないでしょうか。

360度の景色と、五感から得られる情報の中から何を選ぶか。そしてそれをどう並べるか。

ついでに言うと、選んだ情報によってどんな反応をするかという点まで含めて文体になると思う。

例文の①ではベテラン刑事をイメージして書いたと言ったけれど、選び取った情報から「争った形跡」という捜査に関係する情報と結び付け、自分の感情は排除されている。

一方ケース②では、不潔で自分が出て行きたくなったとか、苛立った様子を描写し、書き手(情報の選び手)の、内面に向かう傾向を表した。

みんな独特な文体

「部屋」という小さな空間でさえこれだけの違いが生まれ得るのだから、ざっくりと「外」とか「世界」といったものを描写するということになったら、そりゃかなりの違いが生じるのではないでしょうか。

普段同じところで同じように暮らしていても、それぞれまったく違うものを見ているというのは面白いことであり、怖いことでもあります。

当然同じ時間を共有していると思っていながら、隣にいる誰かはまったく別の世界観の中で生きているかもしれないという奇妙さ。

「あの作家は文体が独特で~」とかって話す人もいると思うけど、こう考えると、誰もがみんな独特なはずです。

だから「伝えようとする意志」って思ってるよりずっと大事なものだなと思うわけです。

また、自分が選んだ結果である文章はある程度自分の世界観を忠実に他人に押し付けることができるからこそ信頼に足る道具であるし、そういう性質を持っているからこそ読む方は「しんどい」ものだと思います。

書くときはここに気を付けなきゃと思うのですが、これが難しいんですよね。

目的に沿った取捨選択

ただ好き勝手に描写するのであれば、思ったまま文章にすればよくて、それがその人の文体なんだろうけど、文体を鍛えるというのは目的にあった取捨選択ができることなのかなと思います。

「汚い部屋」を誰かに伝えたいとき、例えば「その部屋は不潔で、灰皿の上にタバコの吸い殻が残っていて、よく見たらランプのシェードに埃がかぶっていた」と書いて伝わるでしょうか。

文章は自分の世界観を押し付ける道具であるとさっき書いたけど、これは押し付けすぎだと思います。

これで伝わるのは、部屋が汚いことではなく、語り手の部屋が相当綺麗なこと、もしくは語り手が神経質であること、かもしれません。

行き過ぎた独特な文体というのは語り手(書き手)の個性にはなるけど、伝える道具という点で不便なこともある、ということでしょうか。

伝えたいのは論理より感情

小説のような形式のものであれば、特に伝えたいのは論理よりも感情だよなと思います。

その部屋が汚かったということは事実かもしれないけれど、何をもって「汚い部屋」とするかはみんな違う。

つまり、「汚い部屋」という概念を伝えるための道具としてもっとも使えるものは何か?という観点で、一度自分を消し、ある程度普遍的な観察でもって、客観的に「汚い部屋」を形作るパーツを選ばなければならない。

「汚い部屋」を描写したいのであれば、目的は自分の思う汚さを並べて理解してもらうことではなく、自分が感じた「汚い」という感情を、読む誰かの心に再現することなのではないでしょうか。

自分が感じたことを全員にもれなく伝えようとして、最大限気を遣って、それでもにじみ出てしまうもの、それでも理解されない部分がその人の文体であって、つまり僕らが自分の文体を磨きたいと考えたとき、一番最初に磨くべきは「ニュートラル(中立)な感性」なのかなと思います。

文体ってなに。どうやって磨くの。(完)

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