戦争を舞台にするのではなく背景に。事実よりも身に迫る真実を。

水曜は、自分のまちの歴史、文化、風土を研究したうえで、小説を仕上げるまでをコンテンツにする日です。

昭和10年代、戦争が背景にある日、祖父母が幼かった頃がテーマというか設定する状況。

僕はもともと歴史とかにはすごく疎いので、まずはその時代のバックにでんと居座っていたであろう戦争のことについて勉強しているところです。だからあんまり創作のコンテンツとしては書くことないんですよね。

でも今回は、今のところなぜか決まっている冒頭について少し、そしてお手本にしたい小説を紹介、その後、「戦争を舞台にするのではなく背景にするという意志」について書いてみようとおもいます。

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決まりきっている冒頭

それがどうしてなのかは今のところ説明はできないんだけど、冒頭がどんなシーンから始まるのかは僕の中で決まっています。

話の展開も登場人物も決まっていないけど、冒頭だけは決まってる。

むしろこの冒頭に合わせて何かを書かなきゃなんないんだろうなって思います。

それは、ある女の子がユリの花を茎の下の方から切ってきれいに並べるというものです。

その光景を見ているだれかが、「そんなことしたら絶対ダメだろう」と思ってるけど、一緒になってユリの花を並べてしまう。

花粉が手について、嫌な気持ちになる。罪悪感か、背徳感か、ただの嫌悪感か分からないけど、嫌な気持ちになってしまう。

だけど女の子が満足そうで、ちょっと嬉しくもなります。

こんな小説が書きたい!

冒頭のこの話は言わば問題文のようなものであって、こんな場面があるから、続く話を書きなさいと出題されている感覚です。

これに寄せて取材とかしていくことになるはずなのですが、まだ短編になるのか長編になるかもわからない。

でも長編だったらこんな風に書きたいな、短編だったらこれをお手本にしたいなという本があるので紹介しておきます。

『赤朽葉家の伝説』ファンタジックと写実とミステリー

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)

長編の場合、『赤朽葉家の伝説』が憧れの一冊。

一族の三代記。

地方都市の産業の歴史と盛衰。

現代の若者、つまり『赤朽葉家の伝説』においては三代目の赤朽葉瞳子(とうこ)が語り手である。

そして一代ごとに変わる小説のテイスト。ファンタジックであり、ミステリアスであり、人を取り巻く環境や社会の描写は写実的でもある。

とても贅沢な小説で、一冊読めば2・3冊読了したかのような読後感がある。

歴史だけによらず、現実だけによらず、耽美であり、ときに幻想的ですらあり、滔々としているが飽きさせない。

物語としてそれぞれの時代の個性を色濃くだしつつ、鮮やかに時代の流れを描いている。

これだけの要素が揃っていれば、お手本にもしたくなるってものです。

『赤朽葉家の伝説』の中で好きな文章をただメモ的に書いておきます。物語の初代である赤朽葉万葉の嫁入りの日のシーンです。

その夜、タツから聞いた心得をなんども胸で唱えながら、万葉は席を辞した。広いお屋敷はどこになにがあるのか、その夜の万葉にはよくわからなかった。大広間を出て、曜司に手を引かれて長い廊下を歩いた。女中らしき三十がらみの小柄な女が、太い恵比寿柱の陰からじっとこちらを見ているのが目に留まった。どうも、と会釈をすると、女中はふっと自分のつま先に目を落とした。この年増女は真砂といい、じつは曜司のお手つきの女中だったのだが、そのときの万葉は知る由もなく、また奥手であるために気づくまでそうとうかかった。ともかくそのときの万葉はなにもわからず、ただ曜司に手を引かれてつるつるとよく磨かれた廊下と、その裏庭はその昔、都の庭師をしていたという老いた男たちが数人がかりで毎日のように手入れし続け、たいへんな芸術的空間となっていた。

『本当の戦争の話をしよう』背景としての戦争

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

これは昔に一度読んだだけだから内容をはっきり覚えているとは言えないんだけど、戦争が舞台になっているのではなく、戦争が背景にあるのが良いなという印象を抱いたことを覚えています。

戦争を舞台とすることと、戦争を背景とすることにどれだけの違いがあるのかは分からないけど、多分いくらか分かりやすく言えば、戦争を書こうとするのか、人間を書こうとするのかの違いなんだと思う。

そして僕は戦争を背景に人物を書くということをしてみたいと思っているので、もちろん、『本当の戦争の話をしよう』はお手本になると思った。これはあくまで僕の印象での話だけど。

本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向に導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。また人がそれまでやってきた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったら、それは信じない方がいい。もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、君は昔からあいも変わらず繰り返されているひどい大嘘の犠牲者になっているのである。そこにはまともなものなんてこれっぽっちも存在しないのだ。そこには徳性のかけらもない。だからこそ真実の戦争の話というは猥雑な言葉や悪意とは切っても切れない関係にあるし、それによってその話が本当かどうかを見分けることができる。これは間違いのない経験則である。たとえばラットは糞たれ女と言う。アマとは言わない。女とも娘ともまず言わない。彼は糞たれ女と言う。そして彼はペッと唾を吐き、ぎろりと睨む。彼は十九歳、彼には荷が重すぎるのだ。彼は心優しい殺し屋の目で君を見る。そして糞たれ女と言う。彼の友人が死んだからだ。そしてその妹が返事を寄越さなかったというのが信じがたいほどに悲しく、そして真実であるからだ。

もちろんこれも教訓ではないです。

本当の戦争とはこういうものだという教訓ほど疑ってかかるべきものはないのではないでしょうか。

そして本当の戦争と言うと、人はその残虐性とか異常性とか不条理性みたいなものを思い出し、そしてそこから何かを得ようとする。失敗から学ぼうとする。もしくは今に活かそうとする。

引用した文は、本当の戦争の話とはそういうものではないと言いつつ、「間違いのない経験則」で以て、真実を伝えようとする、絶妙にねじれた文。

でもそんなことはものともせず、つまり戦争なんてそんな程度のもので、気を遣って扱うものでもなく、ここでは多分作者がラットの話をしたかっただけ。それが真実であり、戦争というもの、そこで得た経験や教訓なんてものは結局個人の矮小な感情に帰する。

多分こういうのが、戦争を舞台にするのではなく、背景にするということなんだろうと僕は考えているのだろうと思います。

だから、じゃあそれってどうやって書くの?という問題は、また別の話、っていうか分からない。

戦争を舞台にするのではなく背景に。事実よりも身に迫る真実を。(完)

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