なぜ創作行為には人を惹きつける力があるのか。僕はそれをどうしたいと思っているのか。

絵本を作ろう!

と思っている。

僕がではなくて、僕の先輩が、ある絵本を作ろうとしている。

出版するんじゃない。売り物にするんじゃない。ただ絵本を作る。

そんなことは簡単です。手作り絵本のキットでも買って、説明書通りに作れば良いだけ。

だけどそう言った意味での「手作り」と、「創造行為」は全く別のものだと僕は思っていて、ただ作って満足ではなく、「創造行為」を通して得られるものを得るお手伝いができたらと思っている。

じゃあ、僕の思う、創造行為を通して得ることができるものって何。という話をしたいと思います。

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創造中は瞑想状態

創造行為の心境は、「釣り」に似てるなと思います。

例えば川で一人、釣りをしているとして、ずーっと座って魚がかかるのを待ってる訳ですけど、そうやって待ってる目的って果たして本当に魚を釣ることだけにあるのでしょうか。

多分、「水面の微妙な変化を見つめること」、「自分の気配が自然に溶け込んでいく感覚」、「静的なシーンから急激に動的なシーンに移り変わるときのギャップ」、そして「釣り上げた達成感」などなど、いろいろな要素が相まって、「面白さ」になってるのだと思います。

孤独な作業だし、地味だし、ときによっちゃめちゃくちゃ辛いんだけど、「面白い」。

じゃないと魚なんて欲しければ買えば良いんですから、自分で釣る必要なんてありません。

創作も同じです。僕は魚釣りはあまりしたことないんですけど、創作はします。

目的はほとんどトレーニングです。

「20万字のものを書こう」とか、「2万字を今日中に書こう」みたいな設定をして、自分で指定した通りの文字数に達するまで一連のものを書きつづけるという練習です。

他にも「赤い印象の話しを作ろう」とかって設定をして書くこともあります。

別にそれでどうなるって訳じゃなくて、マラソンが好きな人が「今日は10キロくらい走ろうかな」とか「フォームを意識して走ろう」とかって言ってやってるのと同じだと思います。

もともと小説が好きなので、ストーリーを作って書きます。(デキに満足したものの中には文学賞に応募したものもあります。箸にも棒にも引っかからないし今考えたら酷いものだったけど)

その創作作業の辛さったらないです。でも楽しいんです。めちゃくちゃ地味だし、思ったように行かないことがデフォルトで、よって出来上がるものは最初に想定していたものとまったく違うものになります。

段々自分が書いてるのか、文章に流されて続きを書かされてるのか分からなくなります。

この辺の話しは割とどうでも良いんですけど、やっぱり書いてて思うのは、「書くこと自体に意味があるんだよな、癒されてるんだよな」ってこと。それどころか創作意欲ってやつはどこからか湧いてきて、やらなきゃ気が済まないところがあるんだよなと。

魚は釣れても釣れなくても、多分釣り好きな人はそんなに気にしないと思うのです。

小説書いてそれが例えば文学賞に通るとか誰かに褒められるとかは別にどうでも良くて、書いてる間に自分が変わっている感じとか、整っていく感じが気持ち良い。僕は。

釣りも創作も、だから一種の瞑想状態になってるんじゃないでしょうか。そのときの毒が抜ける瞬間の暴力的な魅力が、人を創作に駆り立てるんだと思います。

創作は飛び道具

成果はどうでも良いと言ったって、僕も「出来た―!」と思ったものは文学賞に応募したりした訳ですから、やっぱり成果は欲しいものです。

釣りだって別に釣れなかったからってもうつまらん止めた!って思う人は少なくて、坊主だったけどまた来ようって多分なるのでしょうけど、釣れたらめちゃくちゃ嬉しいし、最終的にはそこが醍醐味だったりするのです。

さて創作活動では、成果が出ることは極端に少ないです。文学賞で通るとか、出版されるとかって夢のまた夢で、人目に触れることはとても少ない。

ネットが普及してからはアマチュアの方でも創作を開示できて、読者とコミュニケーションを図る場が増え、人目に触れること自体は難しくなくなった。

それでもなお人目に付くのはごく一握りだと思います。成果としては最終的に書籍化するってのも良いんだけど、例えばコメントで面白かったとか感動したとか言ってくれた瞬間も成果に違いないでしょう。

その「成果」ってじゃあ何なんだと考えると、「誰かと繋がれた」という実感なのではないでしょうか。

魚を釣った瞬間に魚の重さを感じて興奮するように、誰かが作品を認めてくれた瞬間に「人の重さ」を感じ、「繋がり」を実感することができる。

全体を通してみればそんなことは些事なのですが、やっぱり静から動に転換する瞬間ってのは快感もひとしおでしょう。

しかも創造物ってのは本人不要ですから、自分の代わりに人との関係を築いてくれるすごいヤツなんですよね。

さらに、釣竿の先につける餌を何にするかである程度釣る魚のコントロールができるように、自分の作品が好きな人は自ずと自分が狙った相手であることが多い(言い方悪いけど)。

創造物はコミュニケーションを取るための飛び道具なのです。

創造は時空も越えて

創造物はコミュニケーションのための飛び道具になりますから、実体がどこにいようと関係ありません。

それは単純にどんな場所にいても代わりに存在してくれるのが創造物だという意味でもありますが、もっと時空を超えた意味でもあります。

例えば芥川龍之介や太宰治や三島由紀夫や宮沢賢治の実体はもうこの世にありませんが、厳然と現代に存在しています。その存在の確かさは知名度に比例しますから、社会に認められ「創作物が形になる」というのはすごく意味のあることなのです。

創造物はあらゆる枠を超えて自分の「存在」を産み出すためのほとんど唯一の行為だと言っても過言ではない。

今自分のいる場所が自分に相応しくないと感じているならば、そしてそれにも関わらず身動きも取れない状態なのだとすれば、飛び道具を用意すれば良いと思う。

現代がダメなら未来に生きればいいじゃん、とすら、クリエイターには気安く言うことができます。

さすがにそこまでロックなことは言いませんが、人間には肉体の他に精神もあって、多くは精神の方が大きいのだから、そう言ったものを切り崩して配って歩いてくれても良いじゃないかって思う。

少なくとも田舎って人が居なくて寂しいです。

行ってないのに行ける町づくり

で書いたけど、「創造で繋がるコミュニティ」を作りたいと思っている僕は実体はここになくても良いと思っています。

誰かと繋がること、コミュニケートすることが創造の最終的な目的の一つなのだとしたら、その精神的な部分を少しここに置いてはくれないかというオファーをしてみたい。

好ましさを追求するための創造でつながるコミュニティ

必ずしもここにいるわけではない誰かと一緒に創作活動ができるとします。

そうすると、スピリチュアルっぽい話ではあるけど、肉体は精神に引っ張られる的なことが起きて、実際に足を運ぶ動機になったりするかもしれない。

そういう風に考えるのが楽しいし、その力が創造にはあると僕は信じている。

田舎はそれで寂しさから少し解放されて、クリエイターはそれで少しだけ自分の居場所(いるべき場所の選択肢)が広がるんじゃないかなと思っています。

 

創作にはどんな力があって、僕はそれをどうしたいと思っているのか。(完)

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