日本語だってペラペラじゃないわ

自分で考える創作論

新婚旅行に行ったときに痛いほど感じたのは、船の中も観光旅行中も周りは不得手な言語ばかり、ということでした。

シンガポールでもマレーシアでもタイでも僕らは、英語の中でも特に聞き慣れない英語をなんとか聞いて、何とか最低限のコミュニケーションをこなしました。

もう少し語学が堪能だったなら、もう少し海外旅行は捗るのだろうかと思いました。

言語が堪能なら困らない、言語が堪能なら楽しい。

そういう場面も確かにあると思う、それはきっと嘘じゃない。

だけど僕は矛盾にも気付いてる。

じゃあ日本語がペラペラの僕が日本において困りっぱなしなのはどうしてか、必ずしも人とのコミュニケーションが楽しいばかりじゃないのはどうしてか。

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日本語だってペラペラじゃねえわ

僕は多くの日本人と同じように、日本語をかなり流暢に操れます。

文を書いても、かなり複雑な構文だって扱えるし、多少時代が違う文章だって読める。

だけど生活には困る。

友達にLINEを送るとき、言葉に困ってどれだけ時間がかかるか。返事が返ってこなかったら何か気に障ること言っただろうかとか思うけど、実際に会ってみると何も頓着しないような顔をしていたりして困る。別人とやりとりしていたのか?と思ったりする。

久しぶりに会った同級生のお母さんとは「ですます」で話してたっけとか考えてしまう。いざ「ですます」で話すと余所余所しい風が吹く。

電話して予約するあらゆることが辛いというか電話自体が死ぬほど嫌。何故かいつも相手の声が聞き取れない気がする。

新婚旅行中はツアーに参加したから、特に一日目、他の旅行者と同じ時間を過ごさなけばならない瞬間があって、その日は食事の席も指定されていたから必然一緒に食卓を囲むことになった。

あの時間がものすごく辛く長く感じたのはどうしてだったか。僕日本語ペラペラなのに、知らない人と何を話せば良いか分からない、というかこういうときってこういうこと話すんだよなみたいなことはおぼろげに分かるのに実行できないのが辛い。

社交に向いてない、社交に向いてないと心の中で唱えながら、日本語だってペラペラじゃねえわって強く思いました。

何度言っても伝わらないこと、何度聞いても分からないことがたくさんある。

日本語がペラペラなことなんて関係ないくらい、コミュニケーションには困ってる。

だからたいてい、人といると非常に疲れる。人とコミュニケーションを重ねれば重ねるほど分厚い壁を感じるのはなぜなのか。

日本語がペラペラ故に言語以外の情報がものすごい勢いで入ってきて、それが言葉をかき消すからだ。

求めてないwi‐fiを受信した携帯ばりに消耗する。携帯はwifiの受信機能を切れば良いけど、人体にそんな機能はない。

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海外でのコミュニケーションが楽に感じる理由

そういう意味において、言語が不自由な海外はかえって楽だったりします。

最低限の機能(注文や挨拶)さえこなせれば良くて、多くの察する必要がないから。

しばしば日本が合わない、海外の方が楽と言う人がいる。

それはきっと海外の方がコミュニケーションにおける感度が鈍くなるからだろうと僕は心密かに思っている。

外国の人の方が日本人みたいに建て前みたいなのなくて良い、空気を読むとかそういうまどろっこしいところがなくて、みんなサッパリしてる、みたいな具合に。

海外でだって、現地語がまったく不自由なく操れると感じられるほどになればきっとコミュニケーションが辛くなる。

表情や言葉の詰まりから読み取れる意味に怯えたり、婉曲な表現がどこまで通じるかを心配したり、独りよがりに自分の話をしてしまって後から後悔したり、微妙な人生観・価値観の違いで傷ついたりする。

最後にちょっと小説の話

コミュニケーションの90%は非言語によるコミュニケーションだって言うけど、僕は言語ありきの90%なんじゃないかなって思ってる。

つまり、90%が言語以外のコミュニケーションということは正しく、極論、言葉なんか話せなくてもコミュニケーションを取ることは可能、という点は実感してるけど、実際のコミュニケーションにおいて核はやっぱり言語だよねという感じ。

言語に還元可能な非言語メッセージだからこそコミュニケーションの身として機能するわけで、言語を操ることに精一杯な状況では、だから、文字通り「聞き取れる言語」と「かなり普遍的な非言語メッセージ(笑顔とか)」しか頭に入ってこないのだと思う。

あらゆる言語以外に言語を当てはめる余裕がある状況だからこそ、90%の非言語は機能するんだろう。

だから言葉が不自由な海外では、精神的にはかえって楽だったりするのかもな、なんて考えました。

日本語はペラペラだけど、日本語ペラペラを越えて日本語の扱いに窮していることのなんと滑稽なことかと思う。

伝わるという確信があるからこそ辛い。

この辛さを昇華する方法を、僕は小説みたいな表現に求めているような気がする。

 

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