自他共に認める小説家になりたい

3日に一冊小説を読んで、一週間に一本映画を見て、三か月に一つ小説を書く

こんな生活ができるようになりたい。

これが僕の理想の生活だって昔友人に話したことがあります。

こうやって虫みたいに生活するのだと僕は言ったんだけど、これ何となく叶っちゃってるなって最近気づきました。

数というかペースは全然厳密じゃないし、何なら最近映画よりドラマやアニメに走ってしまってちょっと違うんだけど、何となくできてる。

当時はとても難しいことのように感じていたんだけど、昔思い描いていた理想通りの生活ができてる気がする。

ところで「メキシコの漁師の話」ってありますよね。

よく引き合いに出される話しだし、この話から得られる捉え方とか考え方もいくつかあるからもう今更みたいな感じもあるんだけど、僕今、ほとんど理想の生活なんだよなって思ったとき、この話を思い出しました。

僕は最初このメキシコの漁師の話を見たとき、たぶん多くの人と同じように、なるほどなと、人間はけっこう大がかりなプロセスを経て理想の生活を作り上げるようだけど、理想の生活が目に見えているなら、それが直接手に取れるなら、今すぐ手に取って良いのだ。ただ理想の生活をすれば良いだけなのだ、と思いました。

僕らは当たり前に壮大な遠回りをすることがあるけれど、結局は素朴なところに落ち着くのだったら、最初から自分に必要なものを、必要な速度で取りに行けば良い。

シンプルに考えることも大事だよね。

そんな風に思いました。

だけどそれじゃちょっと浅かった。

僕の理想の生活ってすごく程度が低いというか、これくらいならわざわざ目標にしなくても普通にこうだけど…みたいな人もいるくらいだと思うのです。

確かに、もっと理想を言えば、好きなだけ小説を読んで、映画とかドラマとかアニメを見て、小説を書くだけで生活できればもっと良いです。

自ずと小説家になるしかなくなってしまうからそういう意味では今の生活は理想ではないけど、当時から「小説家になりたいか?」と改めて聞かれたら「どうなんだろう?」という感じでした。

自分でも微妙なところだけど、小説家になりたいから小説を書きたいのか、小説を書きたいから小説家になりたいのかで言ったら後者だった気がするのですよね。というかそっちのが健全だろ!みたいな変な正義感というかそういうものがあった。

というか僕にはそういう傾向がある。

いずれにせよ小説を堂々と書くことを許されるには、小説家になるしかないよなあとも思ってた。でも全然そんなことなかった。

小説なんて書きたければ書けば良いし、人に見て欲しかったら公開する手段はあるし、好きで小説書いてる人っていっぱいいるのだから、小説を書きたいなら書けば良いのです。小説家になりたいなら小説家にならなきゃいけないけど、小説を書きたいなら小説を書けば良い。

あと、この夢を語っていた当時は今みたいにプライムビデオとかHuluとかを利用していなかったから、映画見るって金かかるよなあって思ってたけど、今は両サービス合わせて月1,500円くらい?で映画が見放題。小説は図書館。

超低コストで僕の理想の生活は手に入ったのです。

でも理想と言っていた割りにはいざそんな生活を送っていても満足度が低い。

ここでメキシコの漁師の話に戻ります。ごちゃごちゃな書き方して申し訳ないんだけど、もどります。

やっぱり僕らにはプロセスが必要だったりするし、もっと有体に言えば他者からの承認が必要なんじゃないかってふと思いました。メキシコ人の漁師にアドバイスしたコンサルタントの人は、きっと他者からの承認や尊敬を受け取るプロセスについて話してた。

これもたぶん散々語られてきたことなんだと思うけど、僕がこれを実感したのはごく最近。というか今日かも。

前回は「自己完結する存在価値」について書きました。誰に認められなくても、必要じゃなくても、自分が自分で認められる価値があることが大事だよねって。

それはそうだと思うけど、あまりにきれいごとっぽいというか、それこそ理想論な感じがする。最終的に自分を支えるのはやっぱり自己完結する価値なのかもしれないけど、そういうものを一足飛びで手に入れるのは多分ちょっと違う。

漠然とした世間から、苦労して積み上げたものを認められて、すごいねって言われて、羨ましいって言われてやっと僕ら満足して自分の理想を理想として享受できるようになるんじゃないか。

そしてその理想を受け取って初めて、これが僕の価値なんだろうか?って考えるプロセスが、もしかしたら僕らには必要なんじゃないか。少なくとも延びた寿命の分、僕らはそういう遠回りを受け入れることが許されてるんじゃないか。

小説家になるのは簡単になった。

自称だろうがなんだろうが、「小説書いてます」って世に発信することに躊躇する必要はないし、恥ずかしながら…なんて枕詞を使う必要も無い。

僕は小説が書ける生活ができて嬉しいけれど、やっぱりnoteでスキ付けてくれたりしたらやった!って思うし、100円でも小説で稼げたら小説家って名乗って良いかなとかって思ってるし、先生とかって呼ばれてみたいなあとか思う。

魚な自分たちの分が取れれば良いかもしれないけど、小説は誰かに読んでもらわなきゃ始まらないってのがやっぱりある。

だから僕は自他共に認める小説家になりたい。

今は、その手段が増えたのだと思う。認められ方が増えたというか。

できることはやろうと思う。

noteにも書き続けて、文学賞にも応募する。

素人の人の作品もクオリティが高いものが多いから認められるのはとても難しいと思う。よくよく考えて書かなきゃだし、奇をてらったりすることも必要かも。

だけどそれだけじゃない。これ以降は言語化できてないからごくごく薄目で見て欲しいんだけど、僕は「小説」を個人の枠に収めないための概念を作りたい。

小説という機能をまちに作って、「小説を作る人」という概念のバリエーションを増やしたい。

私設図書館作りも続けて、小さなマーケットを作って、小説的なものを作るという行為に関わる人の間口が広くなれば良い。いつか一人の作品が大勢を楽しませるのではなく、大勢でたった一人に小説体験を与えるみたいな空間ができると思う。

雲を掴むような話しだし意味わかんないと思うけど、夢想したものを作り上げて見せるような営みって小説を書くことと似ているから、僕のまちづくりは小説家になりたい僕の創作活動なんだっていつも思ってる。

自他共に認める小説家になりたい(完)

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