君は景色/世界観が違うということ

どんな人だって景色だ。

どれだけ自分らしく生きていたとしても、注目を浴びたとしても、どれだけ自分は人とは違うと思っていても、自分のことを自分ほど真剣に見つめてくれる人なんて一人もいない。

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みんな違和感のない景色だ

自分が主人公だと思っているあなたの人生は誰かにとってはサイドストーリーであって、あなたはいつも脇役です。

役ですらないかもしれない、風が吹いたり雨が降ったりするのと同じ。存在を疑われない代わりに別段気にかかりもしない自然と一緒、効果音とか舞台設定と一緒、つまり景色。

ノーベル賞を取ったって、国を代表するミュージシャンになったって、ワールドカップでゴールを決めたって景色。ただの毎日のニュースの一場面であって、車の中でながれるBGMでしかありません。

社長になっても、プレゼンで注目を浴びても、結婚式を挙げても、君は景色。ただの配役であり、違和感のない出来事です。

どんな人だって、誰かの世界を構成するひとかけらでしかなく、自分が思っている以上に、僕らは大して必要のない存在なのかもしれません。

 誰も僕と同じ世界にはいないかもしれない

誰もが一度は考える哲学的な問題(哲学の勉強をしなくても出会う問題)に、果たして自分は本当に存在するのか、みたいなものがあると思う。

もしくは、自分が見ているものは本当に存在するのか。

自分が見ている景色は、実は全部見せられているものであって、実体とは違うのではないか。

晴れた空の色は青いけれど、同じ日、同じ空を見ている隣の誰かが見ている空の色と、あなたが見ている空の色が同じとは限らない、とか。

だって、あなたが生まれて物心ついてからずっと青だと思い込んでいる色が、隣の人にとってはあなたにとっての黄色かもしれないから。

隣のその人は小さな頃からずっと、あなたの言う黄色を青と呼んでいるかもしれないじゃないか。

空は青い。それは事実かもしれない。だけど、その青さが皆一緒とは限らない。青空が気持ちいい!と言葉にすれば一緒だけど、同じ空の色を見ているとは限らない。

こういう話しはよく聞くものだろうし、子どもの頃なんかにこんなこと考えたことあるって人はたくさんいるようです。

自分の声がノイズ音だったら…

僕はいつだったか、自分の話す言葉が全て、全く、僕の意図する形では人に伝わっていないんじゃないかと思ったことがあります。

自分が言葉だと思って話している音が、相手にはピピピとかガガガっていう電子音とか鳴き声みたいに聞こえているかもしれない。

僕が言葉だと思っている音の羅列と、他人が言葉だと思っている音の羅列、もしくは文字の羅列は、実はまったく違うものなのではないか。そんなことを考えて怖くなったことがある。

心当たりは二つ。

一つは、文字化けしたパソコンのメールだかを読んだこと。

もう一つは、カフカの『変身』を読んだこと。

文字化けしたメールの文面をはじめに見て、最初は気持ち悪いと思いました。そして、なぜ読めないんだろうと思いました。最後に、今まで自分はこれを読んでいたのかもしれないと思いました。

『変身』で、細部はうろ覚えだけど、冒頭で虫になる主人公のグレゴール・ザムザが声を出そうとしても声がおかしくなるみたいなシーンがあったと思う。

注意深く話さなければ、おかしな声が出てしまう、みたいな。

きっと、この二つの経験が重なったのだと思うのです。
自分の話している言葉は、既に自分が意図しているものと違うのではないか。

自分の声を録音して聞いたとき、その声が気持ち悪いと言ったら、他の皆は、いつもこうだよ?普通じゃない?と言うあのときの気持ち悪さの強い版みたいなことが日常的にいつも起きているんじゃないか。

思っているよりずっと、自分って信用できません。

僕が普段、ピピピとかガガガって話してないなんてこと、証明のしようがないじゃないか。

孤独過ぎる人生の中で、誰かと同じものを見ていると いう確信は

僕にとって、僕以外のものは全て景色。

どれだけ有名な人でも、どれだけ偉大な人でも、家族も友達も、存在することを疑ったことはありません。

さすがに家族や友達を雨風と一緒とは言わないけど、自分のことのように大切な存在を失ったとしても、結局、悲しいのは僕であって、僕がいなければ存在しない感情なのだから、僕が見ている景色の一つに違いありません。

自分が見ているもの、自分が世界とはこういうものだと思い込んでいる全てのものが信用できなかったとしても、空の色は本当はまったく青くないのかもしれなくても、僕は僕の感覚器官を使って物事を知り、感じるしかありません。

それはとても気持ち悪いものだし、心細い。

寂しいし、自分を通した全てのことに意味がないように思うこともある。

景色も、音も、感情も全部自分だけのもので、人生はつまりひとり相撲です。

見るもの全部が景色で、人生に意味なんかなく、みんなそれぞれ一人ぼっちで生きているわけだけど、だからこそ、同じものを見ているという感覚は大事なんだと思います。

この人は自分と同じものを見ているのだと信じられることが大事なのだと思うのです。

空の色はどうでも良い。食い違っていても大した問題はない。だけど、いつもいつも、あのとき一緒に青空が気持ちいいと感じたと信じあえるというところだけは大切で、一人ぼっちにならないための命綱なのではないか。

感じ方が違うとか、考え方が違うって言うのは実はとても幸せなことかもしれません。

だってそれ以前に、一応同じところにいながら、まったく違うもの(色も形もすべて)を見ているのかもしれないのだから。

あるものを見て、感じ方が違ったり考え方が違うってことは、少なくとも同じ世界で、同じものを見ているという確信や自信があるからこそ感じられることであって、そんな前提が信じあえる状態であれば、喧嘩しても憎み合っても、それは幸せなこと。

全然寂しくないと思えたら

僕はあまり社交的な人間ではないけど、これからいろいろな人に会いたいと思っています。

誰かと誰かが会うということは、いくつもの存在感が合わさって、色んな世界観が重なって、もしかしたら神様的な間違いの絶対犯さない存在から見たらぐっちゃぐちゃの不気味な景色に見えるかもしれない。

機会と猫が話しているような滑稽さ、水と火が仲良くおしるこを温めている混沌、目をつぶりながら走る人の危うさ。そんなものだらけの真実かもしれない。

だけど、錯覚だったとしても、あのとき確かに同じ場所にいたとか、同じものを見ていたと信じあえる人たちが僕の中の景色となっていく想像が、僕には楽しくて仕方ない。

一人一人がどんな世界を見ているのかが知りたいから、ゆっくり話しをして、一緒に色々なものを見て、隠しきれない違いを味わいたいと思っているのです。

そして共通だと思えるいくつかのことが見つかれば、それを大事に、疑うことなく眺めてみたいと思います。

君は景色、と言われれば不愉快な気持ちになるかもしれないけど、この世界は景色が全てです。

意味とか真実というのは大して重要な問題ではない。

人生において、どのくらい、自分は一人ではない、まったく寂しくないという確信が持てるかどうかの方がずっと重要なんじゃないかと思います。

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