井伏鱒二『山椒魚』とラーメンズのコントの共通点「哀れ、滑稽、諦念」

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井伏鱒二と言えば『山椒魚』をはじめに思い浮かべる方も多いのではないかと思う。

山椒魚の冒頭も、ラストも、非常に印象的です。

冒頭は

「山椒魚は悲しんだ」

彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。学研 井伏鱒二集 53p

ラストは覚えているでしょうか。

相手は極めて遠慮がちに答えた。

「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」

たいていの文学作品は冒頭だけ知っていたり、ラストだけ知っていたりして、中身がまるまんま記憶の外という感じですよね。僕だけじゃないですよね。

ただ、たいていの小説は冒頭もラストも忘れてただ「面白かった」とか「つまらなかった」って印象しか残っていないくらいなのだから、冒頭でもラストでもハッキリ覚えてられる作品ってのはやっぱりすごいです。

ちなみに読んだことあるけど覚えてないよという方のために説明しておくと、ラストの「相手」というのは蛙のことで、山椒魚の意地悪によって一緒に岩屋に閉じ込められてしまった哀れなヤツです。

実に二年もの間岩屋に閉じ込められて、もうダメだって時点で山椒魚に、「お前は今、どういうことを考えているようなのだろうか?」と問われてこの答えです。

なんかしゅんとしてしまいますよね。

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井伏鱒二『山椒魚』のラストは後に削除されてる

ラストの山椒魚と蛙のやりとりは、実に45年後、全集を刊行するに当たって、井伏鱒二によって削除されているようです。

削除後のラストは

更に一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。けれど彼等は、今年の夏はお互に黙り込んで、そしてお互に自分の歎息が相手に聞えないように注意していたのである。

となっています。

この改稿を巡ってはいろいろと議論を読んだようです。

ウィキペディア調べなので、詳細が気になる方は「山椒魚(小説)」をご参照ください。

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冒頭に表れるモチーフと滑稽のかおり

続いて冒頭について、手元にある井伏鱒二集では「山椒魚は悲しんだ」にさっそく注がついており、確認すると以下のように書かれていました。

山椒魚は悲しんだ この最初の一句に、すでにこの作品の基調ともいうべき「悲しみ」のモチーフを読み取ることができる。「山椒魚」という外見の奇怪な魚の悲しみは、そのまま滑稽につながる。

え、そうなの? 納得して良いの?と思ってしまう注です。

山椒魚はそういう物語ですよーって決めつけて読んで良いの?

てか、奇怪な外見を持つ存在が悲しむ姿が滑稽ってあまりにもな解釈に思えるんだけど。

いじめっ子じゃないか。

この悲しみのモチーフと滑稽を鵜呑みにするとして内容を見ると、読者の目によっていじめられる山椒魚が、さらに弱い蛙(やはり醜い存在と見て良いか)に意地悪をするっていう構造が見えてきます。

そして最後には揃って諦念を抱き、なんかおかしな友情が芽生えちゃってる様に「哀れな滑稽さ」を感じさせるという仕掛けなんだろうか。

そう言われてみれば、例えば仲間内で、散々身内いじりを楽しんで、ふっと冷静になって辺りを見渡してみると誰も笑ってないどころか自分たちにまったく関心を持っていない他人ばかりだということに気付いて己の世界の狭さを知る、みたいな残念な滑稽さと通じるところがあるかもしれない。

身内ウケって往々にしてこんな感じで、学生時代なんかは街中で、まるで自分たちが一番楽しいみたいなノリではしゃいじゃったりしたけど、冷静になったらなんかちょっと恥ずかしいね、楽しんでたの俺たちだけだったねって感じになる。

一種の悟り、大人になる瞬間。

この、穴があったら入りたい感じをまるごと表してるのが、山椒魚なんじゃないか、なんて想像できます。

ラーメンズのコントと似ている『山椒魚』

さて、この井伏鱒二の『山椒魚』に漂う何かが、ラーメンズのコントに似てるな、なんて僕なんかは思う。

そもそもラーメンズのコントはちょっとした短編小説のような香りがするから好きです。

コントだから表面上滑稽でコミカルなんだけど、ラーメンズの作品にもどこか悲哀とか、残酷さと言ったものが漂っている。

残酷を前にして、何とか自分を保とうとしたり孤独と戦ったりする悲哀があり、「誰も見てないのに張る虚勢」みたいな滑稽(を観客が楽しむっていう構造)がある。

そして眺めている間に、何かを悟る瞬間とか、なぞの友情に至るとか、そういうのがある気がする。

具体的な作品をいくつか挙げたい。

『NEWS』より「私の言葉が見えますか」

『NEWS』より「私の言葉が見えますか」(弱気)

『NEWS』より「私の言葉が見えますか(完結)」

いずれも「なんだこの空間」って思いながら見ることになると思います。

2人がおかしな空間に閉じ込められるというシチュエーションはけっこう多いのではないか。

そして解決したんだかしてないんだから分からない状態で終わるという印象があります。

もちろん『山椒魚』と似ているというのはこじつけだし、閉じ込められるシチュエーションなんてそもそもありふれているのだからこの関係性は絶対じゃありません。

『CHERRY BLOSSOM FRONT345』より「小説家らしき人物」

『TOWER』より「タワーズ1」

『TOWER』より「タワーズ2」

他にもある気がするけどこのくらいにしておこう。

井伏鱒二の『山椒魚』によく言われるように滑稽なところがあるとして、じゃあその滑稽さってどんな質のものなのか、ラーメンズのコントと見比べると分かるかもという点に面白みを感じています。

それと単純に、知ってる作品と作品が脳内で繋がるって面白いよねって話です。

気になった方は動画を見て、それからできれば『山椒魚』を読み返してみて欲しい。なんか、ちょっと面白くなるんじゃないでしょうか。

あと、2人で閉じ込められるというケースではないけれど、小林賢太郎のソロパフォーマンスの作品の中に『うるうびと』ってのがあって、悲哀、滑稽、諦念と言った底にあるテーマのようなものが『山椒魚』ととても似ているなと思います。

公式で配信されていないのでご紹介しないけれど、興味がある方は何かの機会にぜひ見てみてほしい。

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