みんな架空のまち

昔の町のできかた、今の町のできかた

現代はあくまで現代のまちのでき方があって然るべきなのに、一昔前のスタイルが地域を守るために必要だと言うのであればやっぱり、地域というものは消滅するべくして消滅するのではないか、なんて思ってしまう。

と書いたのですが、この辺り何言ってるか分からないと思うし、僕自身もうちょっと詳しく考えたいので記事を書くことにしました。

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スキーマって知ってますか?

スキーマという言葉を聞いたことがあるでしょうか。

いや僕もあまり覚えてないんだけど、学生時代にしていた日本語教育の授業とか、認知心理学、言語学の中でよく出てきていた言葉で、何となく今回の話題に関係がありそうだなと思って記憶から引っ張り出してみました。

スキーマというのは、ある概念に対する知識が構造化したものを言います。

例えば、「結婚」というものを僕たちがどのように理解しているかというと、「結婚」に属する色々な概念(イメージ)を頭の中で組み立てていますよね?

結婚→(プロポーズ→結納→苗字が変わる→結婚式→男女二人で暮らす→じきに子供ができる→新婚旅行→指輪)みたいに、「結婚」という言葉の中に自動的に組み込まれている概念があって、それが寄り集まって「結婚」を理解している。※矢印にあまり意味はありません。

結婚しました!と誰かが言えば、多くの人はその言葉に付随する概念や知識を引っ張り出して、それをパズルみたいに組み立てて「結婚」と呼ぶのです。

で、面白いのは、「プロポーズ」とか「結婚式」という概念にもまたスキーマがあって、細かく分解していくことができる。概念はどこまでも知識が構造化されたもので、階層的に積み上がっている。

これを利用することで海外の人に日本語を教えるときにも役立つんだよみたいなことを勉強した気がします。

「まち」を構成する概念のうち、実はなくなっても良いものがあったりして

このスキーマがなんなの?という話ですが、「まち」っていうのにもスキーマってあるんじゃないかなって思うのです。

僕らが守りたいと思う「地域」、残したいと思う「まち」。

それらの概念を構成する体系化された知識ってどれくらいあるのでしょう。

またそれらは、どれくらい固定的なものなのでしょうか。

「まちおこし」の目的の一つに「地域の存続」ってあると思うんだけど、その存続させたい「地域」というものはどんなパーツでできているのかなという話です。

前回の記事では、その地域に対するスキーマがもしかしたら一昔前のもので、だからこそ現代にそぐわないんじゃないかって考えが浮上してきたのです。

なんか、例えば、年賀状やお歳暮を送り合う習慣が無くなると日本の「正月」の文化が失われると嘆き、「みんな年賀状を出そう!」と言っているのに似てるような。

僕は年賀状やお歳暮が無くなっても正月は正月だと思う。別にメールやラインで今年もよろしくって挨拶しても、「あけおめことよろ」とかで済ませても、別になんの問題もないと思う。

いやアンチ年賀状ってわけじゃなくて年賀状もらうと嬉しいんだけど、その習慣がなくなったからといって「正月」はなくならないってことね。そんなに必死に「年賀状」を守らなくてもメールで連絡取れるだけで十分嬉しいよってこと。むしろその方が楽じゃんっていう。

だから地域を維持するためになければいけないと思いこんでいるもののうち、実はなくても良いものってあるんじゃないかな、と考えてみる。

例えば人口とか。

架空のまちを考える。例えばホグワーツ魔法学校は架空の存在だけど存在する

もういっそ思い切ってちゃんと架空の場所の話しをするけど、頭の中にイメージさえちゃんとあれば、我々にとって実在とか不在ってあまり関係なくなります。

例えば「ホグワーツ魔法学校」って言ったら、そんな学校実際にはどこにもないのに、ハリーポッターを読んだり映画見たりしたことある人には伝わりますよね?

「ホグワーツ魔法学校」って言った瞬間に、「喋る肖像画」とか「動く階段」とか、「談話室」とか「暴れ柳」とかっていう知識概念が頭に浮かんで、ホグワーツ魔法学校が出来上がる。

そういうモノじゃなくて、あと「寮制である」とか「クィディッチっていう球技が盛ん」とか「3年生になったらホグズミート村に行ける」とかって知識もホグワーツ魔法学校にはあるでしょう。

架空のものであっても、人々の中に存在するものを作ることはできますよね、ってことを言いたいのです。

このブログでは「創造で繋がるコミュニティ作り」というものを何となく掲げているけど、人々のイメージ、創作物、共通概念を創り出すことさえできれば、その地域は難なく存在できちゃうんじゃないかって思ってこういうことを考えているのです。

だからいっそ、そういう架空のモノ(いずれも架空の設定とかドラマとかイベントとか)が生まれ続ける町として説得力を創り出すことができれば、朝日町としてのアイデンティティは十分なんじゃないかと思うのです。

極端な話、実はこの町には僕一人しかいなくて、「朝日町」って名前だって僕が勝手につけた架空のまちで、そこでまちおこしについて考えてこんなブログ書いてるって不気味な設定だってできます。

でも普通疑わないですよね?

僕が「故郷である朝日町はもう1500人も人口がいなくて、この衰退していく寂しさを解消したいからなんとかできないかと思ってこんなブログ書いてます」って言ったら、よっぽどのひねくれモノじゃない限り朝日町の存在を信じちゃうはずです。

いやマジでないんですよそんな町と言っても、多分このブログを読んでくれている何人かはもう頭の中にイメージとしての「朝日町」を作ってしまってる。

じゃあそんなイメージとしての朝日町を例えば国民の半分が知っているとしたら、その町はどうしようもなく存在してしまってると言えるのではないか。

地域の存続という目的を達成する方法として、それもアリなんじゃない?と思うのです。

イメージだけで存在できるまちづくり

物語世界では、架空の町なんていくらでも出てきます。

現実があって、架空があるという主従関係が普通だけど、その主従関係を逆転させて、架空のイメージで現実を装飾することも可能なんじゃないか。

アニメの聖地巡礼なんてのが「まちおこし」になったケースがあると思うけど、アニメの舞台になった地域を訪れるとき、その人たちが見てるのは果たして現実か、架空か、本人含め誰にも判断できないでしょう。

同じように、実際に行ったことがない町があるかどうかなんて究極的には分からないし、今住んでいる自分の地域だって、自分の頭の中にある情報としての記憶、ストーリーとしての記憶、思い込みによる認識の歪み、意識していない部分の無意識の削除などの脳みその機能が働いて、実際とはかけ離れた景色をあなたに見せている。

どこかで、脳は妄想と現実の区別がつかないと聞いたこともあります。

そう考えれば、みんな架空のまちと言っても決して言い過ぎじゃない。

じゃあいっそ、みんなの架空、みんなの創造、みんなの思い込みや理想や夜夢に見る一種異様な景色やドラマなんかが実際に起きうる場所として、説得力を持った形でみんなの頭の中に存在できれば、その町に実在の人が例え僕一人しかいなくても、立派に存在していると言っていいんじゃないか。

いやむしろ、選択肢が広がって、肉体の置き場所がなかなか定まらない現代だからこそ、精神がいつでも赴くことのできる「架空のまち」としての在り方が、なんか現代っぽい町づくりの一形態になっても良いと思う。

そういうコンセプトのもと、創造を通して、遠く離れた人と町のイメージを作っていくのは面白いんじゃないか。

って考えています。

みんな架空のまち(完)

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