挑戦とかチャレンジとかうるさいわ、という人へ

前回の記事では、ちょっと挑戦とかチャレンジとかって言いすぎたなあという反省があります。

無暗にチャレンジできる環境を奨励されても、多くの人は暑苦しさを感じこそすれ、よし、チャレンジするぞという気持ちになんてならないでしょう。

人のチャレンジ精神を鼓舞しようと思ってた訳ではないので別にそれは構わないのですが、そのような環境の必要性について語った前回の記事では、依然チャレンジというものが取るに足りないものであるという一部の人の認識を変えることはできないのではないか。

「チャレンジ大いに結構だけど、まあ好きな人は好きなようにやれば良いよね」、という高みの見物スタイルを崩すほどの力はない。

だから書き直しです。

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チャレンジじゃなくてトライだよね

挑戦と書くと、挑んで戦うですから、自然とリスクの存在が見え隠れします。

戦いを挑むと読むと、平和主義の人々にとってはなんでわざわざそんなことをせねばならんのだ、という感情も湧いてくるでしょう。

チャレンジを普通に訳すと挑戦ですから、当たり前のように挑戦やチャレンジという言葉を使いましたが、僕が言いたかったのはどちらかというとトライの方です。

トライを日本語に訳そうとすると「試しにやってみる」みたいな不格好なものになってしまいます。熟語にするとしたら試行になるのでしょうが、試行できる環境と言えば逆に意味が伝わりにくい。

まあそれでも、やっぱり僕が言っていた挑戦できる環境というのは、トライできる環境という程度のものです。

「試しにやってみる」というのはまさに子供があれこれ考えず思いついたことを思いついたようにやってみるあの感じだと思います。

失敗するとか損をするとか関係なく、薄々無駄なことだと分かってても無駄なことをする笑

どちらかと言うと、できないことを確かめるという感じだと思います。

やっぱダメだよねー!みたいな。

もう結果うんぬんではなくて、そのトライそのものを楽しんでいるという感覚です。その記憶や経験は誰にでもあるでしょう。

大人になったらできない純粋なトライ

大人になるにしたがって、ある程度無駄なものは無駄だと分かっていきます。

ある程度知識がついてきて、経験を積んで、明らかに無理、明らかに無駄なことがやる前から分かりすぎてしまってやる気がなくなってしまう。

「浮けるかどうか」なんて考えるまでもなく無理です。

ちょっとやそっとでできないことくらいすぐに分かる。

人生を重ねる過程で、人はそういう風に無用な労力を使わないように学習していきます。

いつもまっさらな状態から物事を見ていたら疲れて疲れて仕方ないですから、ある程度の頭脳による認知処理を省略するようになる。

これをこじらせて要領良い大人になると、例えば人間関係において「ステレオタイプ」で判断するような大人になるのでしょうか。

はじめましてだけど喋り方とか服装でこいつはこういうタイプだなあとか、目線の動きや声の出し方で内向的か外交的かを判断したり、極端なことを言えば学歴で知能を測ったり。

やらなくても分かること、聞かなくても分かることがたくさんある(と思ってる)から、余計なトライはどんどんしなくなる。

トライがもし「できないことを確認する」、「間違ってることを確認する」という作業なのだとしたら、人生の大体において今更そんなことをする意義を感じないというのが普通でしょう。

確かに、長い人生経験の中で、無駄な試行というのはやらなくても分かります。

出来ないラインってやつがよく分かってる。

水の上に立てるか?

水の上に立てるか?

という問いがあったとき、大人であれば立てませんというのが正しい。

子供だったら「超早く足動かしたら立てるんじゃない!?」みたいなことをやる。で当然できない。

それにそれできても立ったことにならないじゃんってつっこみも入って「やっぱダメかー」となる。

そしてビッチャビチャになってから、少し大人になる。

こんなダメサンプルはみんな腐る程持ってて、自分の力量とか常識的な物理のルールとかも説明できないまでも分かってて、やるだけ無駄をいくつもこなしてきました。

で、水の上に立つなんてトライはやるだけ無駄だから、普通の大人はやりません。

だけど、本当は成長するに従って「水の上に立つ」って無理難題もこなせるようになっててもおかしくないですよね。子供のときにできなかったからって大人になってもできないとは限らないじゃないですか。

例えば、まず水の上に立つっていうのは実感の問題なのか、見かけの問題なのかという屁理屈をこねます。

実感の問題だとしたら、上からヘリかなんかで吊ってもらって足をぴったりと水面に乗せれば水の上に立ったことになる。

見かけの問題なのだとしたら水の塩分濃度を上げるなどの仕掛けを施す×足の面積をなんらかの方法で広げるという工夫で、しゃがむ姿勢でなら立てるとかって出来るかもしれない。

表現上の「水の上に立つ 」だったら?

例えばずっとサーフィンの練習をしていて、今までずっとダメダメだったけどやっと今日サーフボードで立てた!

「今日私は、はじめて水の上に立ったのだ」

という日記をその人が書いたとして、誰がその表現に違和感を持ちますか?

大人になるにつれて知能が発達するのだから、「水の上に立つ」という解釈も広がっていくはずなのです。

子供が水の上に立つと聞いてそのまんま解釈するのは子供だから仕方ない。発想が乏しいのだから仕方ない。

だけど大人が「水の上に立つ」を成立させようとしたら、まず自分で何が正解なのかを定め、そして試し、できるようになるという経験が可能です。

じゃあ「幸せになってください」という問いだったら?

しつこいようだけど「個人化の時代」です

「幸せになる」という問いを与えられたとき、大人であれば今まで培ってきた知識と経験をフルに活用して、あの手この手で「幸せ」を成り立たせることができるんじゃないですか?

自分で「幸せ」ってものを定義して、解釈して、屁理屈でも何でもいいから要は幸せになればいいんでしょ?って感じで自分だけの正解を見せて、「どうだ、幸せだぞ」って言えれば良いわけじゃないですか。

本当は大人になるに従って幸せの解釈や形というものはどんどん広がって、様々な解答や解法が理解できるようになるはずです。

だけどあの手この手ってヤツを繰り広げるのがすごく難しい。

なぜか。

一つは考えるのが段々面倒くさくなるから。

一つは正解を与えられるから。

「社会」にはある程度「幸せの形」が用意されていて、それは性質上ある程度僕たちを拘束するものであるが故に、身動きを取ることが難しく、極度に失敗を恐れさせる力がある。

安定とかリスク回避という項目を優先的に成り立たせて、もって幸せという解答を与えるからです。

そこからはみ出すことは不安体で危険という意識になれば、幸せの形を探るなんて無駄で、「崩すな、動くな、余計なことはするな」という結論になる。

でもそれって無理ありますよーって言う人が増えてきたし、面白くないって思う人もいるし、何だかんだそのやり方が絶対安心って時代でもないじゃんとか言われる。

「一体いつ楽しむために今生きてるの?」なんて厳しいことを言う人もいる。

だからさ、もう大人なんだから、こういう時代なんだから、自分なりの「幸せ」目指して思いついたことやろうよ、出来る出来ないは別っていうか、子供の頃のこと思い出したら分かるけど、目的に向かってトライするって、ダメでも面白かったじゃん。

ダメだ―とか言って。
実際全然ダメでもケタケタ笑ってられたじゃない。

幸せを形つくろうとする行為全部が幸せ、で、結果的に幸せだったー、面白かった―で良いじゃない。

形が決まっていない分できることがたくさんあるし、試したいことがそれぞれたくさんある。

みんながそういう前提に立って人生を作り始めるのが、「価値観の多様化」した「個人化の時代」の風景なんじゃないか。

だからそういう人たちのために、トライできる環境が必要なのだ。

もっと言えばトライ&エラーが許容される環境が必要なのだ。

という話しが前回の補足なのですが、どうだろう。伝わるだろうか。

まあダメでも、また書けばいいか!

 挑戦とかチャレンジとかうるさいわ、という人へ(完)

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