社会教育のジレンマ/割り切らないという選択について

社会教育の分野で頑張っている友人がいる。

しかし彼には、「社会教育は成果が出るまでに時間がかかるから、今自分がしていること、考えていることが正しいのかどうか分からない」という悩みがあるらしいのです。

なるほど、と思ったので少し調べて考えてみました。社会教育というものについて。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

社会教育って?

厳格な定義はおいておいて解釈した通りに書けば、そもそも社会教育というものは「学校外の領域(社会)において行われる教育全般」を言うようです。

よって対象は「(実質学校教育を終えた成人が主であるが)どんな人でも」ということになるのでしょう。

多くが行政の主導のもと行われるものらしいですが、ということは、それぞれの行政が自分の地域の教育を仕掛けるのが社会教育という分野。

「少なくとも俺が管轄する地域の中では誰でも教育を受ける機会はちゃんと用意するぜ」という仕事なのですね。

しばしば「生涯学習」との関係がごっちゃになってしまって、何が違うの?という感じになってしまいがちなようですが、生涯学習というものはあくまで主体が自分(個人)にある概念で、そういった「個人的な学習する意欲」に応えるのが「社会教育」ということになります。

学校教育との重なり

社会教育と学校教育は別物として扱われるみたいなんですが、子供はそりゃ学校に属し、学校で教育を受けるけれど、単純な町民としてのペルソナも持っていますよね。

つまり学校教育で足りない部分の学習を社会に求めることは可能で、それに応えることも当然社会教育という分野のお仕事。

でも待ってほしい。日頃から学校に行っている子供が、自発的に、主体的に「学びたい」と思うことなんてあるでしょうか。

少なくとも僕はなかった。教育は学校で受けるもので、今考えればあれば社会教育の一環だったのかなという活動も全て、「学校の延長」だと思ってた。

つまり一方的に与えられたものをこなしていただけで、大人が引いたレールの上を歩いていただけで、少なくとも僕は学びたいと思ったことはないし、社会(町)にそれを求めてもいなかった。

ということは、社会教育とは言え学校教育と重なるところは多分にあって、そのときはどうしても教育を与える側がある程度「目的」を設定しなくてはならない。

学校教育が正しいかどうかは、究極誰にも分かりませんよね。

「こんな人間になってほしい」という気持ちが大人にはあって、でも成果が出るのは今教えている子が大人になってからです。

ただし、社会教育は多分だけど学校教育程マニュアルが乏しくそれぞれの裁量に依るところが大きいので、ずっと手探りな部分は多いのではないでしょうか。

ジレンマ入り乱れる

僕の友人は、社会教育の分野で広く色々なことを考え実行しているらしいのですが、対象が広すぎるばかりに抱える葛藤もあるようです。

「今していることが正しいのかどうか」

この問いはずっと抱えておかなければならない。

だけど、どこの世界でもそういう側面はあると思うけれど、何かを評価しようとするとその方法はすごく限定的になります。

社会教育の場合で考えると、企画したイベントに集まった「人数」で成功かどうかが判断されることが多いようです。

まちおこしがどうなれば成功なのか。
という記事と今回の友人の悩みはリンクする気がします。

もちろん予算があって、それに見合った人数を集めなければならないという最低条件はあるけれど、多く集まったから成功で、人数が少なかったから失敗だと断定されると納得はいかない。

特に子供を対象とする場合、学校教育の補填のような、延長のような社会教育の場合、この点は大きなジレンマを生みます。

あくまで目的に対する成果を判断して、やったことの成否は問わなければならないと思うけれど、「社会教育は成果が表れるまでに時間がかかる」から、直近の成果で判断しなくてはならない。

ということは「人数を集めるための企画」を考えなくてはならないけど、子どもの教育を考えたとき、必ずしも人数を尊重しなければならないという訳でもないんじゃないか。

むしろ大勢を集めるよりも、少人数の学習意欲のある子に、たくさんを教えた方が良いんじゃないか。

簡単に言えば「質をとるか量をとるか」というジレンマと僕の友人は戦っているのです。

自己実現のための学び

話をちょっとスッキリさせるために、学ぶ意欲とはどこから来るのか?ということを考えたいと思います。

僕らが何か自発的に学びたいというとき、根底にある気持ちはなんなのか。

それは「自己実現の願望」だと思います。

何かを取り入れたとき、理想の自分に今よりも近づけそうな予感や気配。もう少し確信を持って、知らなければならない!今の自分に必要だ!と強く感じることもあるでしょう。

学校であればあらゆることを教えてくれますが、十分な主体性を持った人格となった大人であれば、「今自分に必要なもの」「理想の自分に近づける何か」は自分で選ばなければならない。

社会という入れ物の中であれば理想的な人格というものはやっぱ何となくあるようで、社会教育はそういった「人格の完成形」を作るための事業のあれこれを企画するらしいですが、実際、「どんな姿が理想なのか」は人それぞれ違いますよね。

基本的なお手紙のマナーくらいは知っておきたいと思う人もいれば、死ぬまで歩きつづけられる脚を作りたいと感じる人もいる。

それぞれがそれぞれの生涯学習テーマを掲げ、自分に合ったものを選ぶ。

そう考えれば、あながち参加者の数でイベントの良し悪しを判断するって間違ってないんじゃないか?

あとややこしくなるかなと思って先に書かなかったけど、社会教育には「家庭教育」という領域も含まれているから、子供たちを参加の対象にするとは言え、それに参加「させる」のは親です。

そういう「親としての学習」という風に考えることもできるため、学校教育の延長という側面もあるけれど、「ウケ狙い」的な要素も必要になる。

「多くの親が興味を持つ」って評価基準はあながち間違ってない。

だって社会教育って学校みたいに義務で何かを身に付けるものではなくて、コンテンツに近いってことですもんね。

コンテンツとしての社会教育

例えばこうしてブログを書いてる僕も、コンテンツを作ってる訳です。

このブログを読む機会があるくらいな人はおそらく普段から色々なブログやサイトを見ている方だと思うのですが、WEBの世界の膨大なコンテンツの中から読むもの、見るものを選ぶとき、誰かの期待に応えて選びますか?

例えば、日本国民にとって儒教の思想は絶やしてはいけない道徳の基本ですみたいなことを政府に言われて、『論語』を読む人ってどれくらいいるでしょうか。

六法全書には皆さん目を通しておきましょうと言われて律儀に読む人はどれくらいいるでしょうか。

マイナンバー制度が始まります、注意点をしっかり確認しましょうと言われて、実際にしっかり確認している人はどれくらいいるでしょうか。

いやいずれも興味があったり、必要だと思うから読むという人は大勢いると思うんだけど、食後のリラックスタイムとか、寝る前のネットサーフィン的な時間に、誰かの期待に応えてコンテンツを選んだりするでしょうかという話です。

自分が読みたいもの、自分に今必要だと思うものを選ぶはずで、社会や国がこういう知識を身に付けて欲しいといくら僕たちに要求したとしても、僕らにとっては知ったこっちゃない。

社会教育の場面では、教育とは言えそれはあくまで町民の主体性と好みで選ばれるものであるが故に、「町にあるコンテンツ」という感覚が強い。

だから社会にとって「必要だから」ではなく、「多くの方が求める」コンテンツを作ることが大事と言われても、あながち文句は言えないよなと思う。

ブログ記事作成のジレンマ

だけど、依然「数の問題か?」という疑問はあります。

例えば僕は毎日何かしらの文章を書いている訳ですけど、そのとき人気の出る記事を作るべきと考えてるかというと、そうでもありません。

いや人気が出たり評価されたら嬉しいのは嬉しいんだけど、書くという作業をするとき、大勢を目的にして書くと何書いていいか分かんなくなっちゃって、結局書けないんですよね。

だから極小の価値観を持った、限定的な状況に置かれた誰かを想定して書くというのが基本スタイルです。

そして実際にその人にしっかり言葉が届けば、多分大勢の人に流し読みされるよりもメッセージの伝わり方としては好ましいんじゃないかなあ?って思う。

だから質をとるか量をとるかだったら、僕は「質」と応えたい訳だけど、質が良いものは量も得られるという原則がある訳だから、このブログの読みにくさやスッキリできない記事の数々を書いている言い訳にはならない。

いやでもそもそもこのブログで言ったらテーマがなんか大勢にウケるって感じででもないし、だからといってテーマをもっとキャッチ―な感じにするってのもね、結局書きたいものにか書けないし、量が質を作っていくという原理もあるだろうから数かけなきゃ始まらないよな、とか色々葛藤はありますよね僕にも。

今日も僕らは割り切らない

長くなっちゃったのでそろそろ結論に入るけれど、何が言いたかったのかと言うと、何やってたって色々な段階でジレンマは生じます。

真剣に考えれば考える程、あでもこうとも考えられるよなとか、こんなこと考えてたらダメだよなとか、これを考えなきゃなとか色々な分岐点が出てきて、「何が正しいか」なんて分からなくなる。

でも、僕個人の意見を言わせてもらえれば、このブログ上で何度も書いているのですが、人生において「正しさ」はそれほど重要ではなく、重要なのは「好ましさ」だと思うのです。

だって「正しい」と決められることはなかなかないから。

今子供たちに行っている教育が正しいのかなんてずっと後になってみなきゃ分からないのと同じように。

またこの子にとっては正しかったけど、この子には全然ダメだったってこともあるはず。それも義務教育を終えた大人の皆さんなら分かってるでしょう。

思うに人生ってそんなもんで、いつも自分が考える暫定的な正しさを「信じて」、自分にとってこれだと思える「好ましさ」を追求して、「納得」できた方法でやっていくしかないのではないでしょうか。

少なくとも、例えばここまで話してきた社会教育の分野でも「数を集められなきゃ意味がない」なんて評価を一方的にしてしまう誰かがいるのであれば、その人はもうそのことについて考え、悩むのを止めた人なんだと僕は思う。

対して、僕には友人が自分の仕事について悩んでいるところが格好よく見えた。

社会教育とはなんぞやということは僕にはとうてい分からないけど、やっぱり僕は割り切ってない人の方が好きだなあと思った。

社会教育のジレンマ/割り切らないという選択について(完)

スポンサーリンク
スポンサードリンク