『取材学』読んで考えた、情報は人生の材料だから、主体的に集め、よく吟味するべきだろう。

原始的な情報社会から現代的な創造社会について

は、『取材学』という本の一部を参考にして、というかほぼそのまんま書き写したレベルの参考の仕方で書いたものです。

取材学―探求の技法 (中公新書 (410))

そもそもこの本初版が1975年って書いてあります。

この頃から、つまりずーっと前から「情報に流されるのではなく、情報を主体的に扱った方が良い」ということは言われ続けてきていて、だから僕が前回のその記事で書いたように、「情報社会から創造社会になっていく」なんてあたかもこれからの流れのように言われても返事に困ってしまいますよね。

しかし、ひと昔前の情報社会と今の情報社会はやっぱり一味違うんじゃないかと思う。

例えば情報にアクセスする容易さとか、伴って情報を受信する側の態度とか、そういうもの。

だからこそ改めて、現代における情報への主体性について、自分で考える必要があるのではないでしょうか。

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情報を得るのは容易い

僕ら、情報を得ることに関して何にも感じていません。

そこらに情報が流れていることは水道をひねれば水が出るのと同じくらい当たり前で、よっぽどのことがないかぎり、それがありがたいことだなんて思わない。

そんなもの得られて当たり前、こちらから探さずとも、重要な情報は向こうからやってくるものだという認識が少なからずあるのではないでしょうか。

実際、重要なニュースとか、最新の流行とか、話題の人物とか、そんなのいくら興味なくたってある程度嫌でも耳や目に入ってくるというようなところがあります。

テレビ離れとかって言うけど、例えばテレビでやる程度の事故の報道ならわざわざ10分20分の特集を見なくてもニュースサイトでさくっと見られるし、散々ネット上で拡散されて話題になった動画を今日の面白投稿動画とかって流してたりして鮮度も微妙だし、あんまり見る必要がないんですよね。

しかしそれもパッと見の印象であって、主体的にテレビメディアに興味を持ってこちらから探す姿勢があればまた見方は変わるのでしょうが、少なくとも現代はテレビのリモコンつけてチャンネル替えてちょっとCM見てコメンテーターの話聞いてってことが手間に思うほど、最低限の情報、ほやほやの情報を得るのは容易い。

インフラ整備された情報で主体性を欠く

情報は苦労して得るものではない、という認識は、僕たちからいくらか主体性を奪います。

重要なニュースは向こうからやって来てくれる、少なくとも手元の媒体にアクセスするとき、「好みのアンテナ」という程度のちょっとした注意力があれば、大事な情報に取り残されることはない。

それで入ってこない情報はつまり、あまり価値のない情報である。

僕たちは今主体的に情報を得ようとすれば、「検索する」のが一般的だと思います。

よってこんなブログ記事を始め、ネット上にあるあらゆる文章は基本的に、「検索を意識して」書かれることになる。

グーグルのアルゴリズムなんて不明だし、SEO対策とか、キーワード選定とか、それに見合った答えをはじき出す論理的な構成とか、僕はあまりしない(というかできない。)ので偉そうなことは何も言えませんが、少なくとも「キーワードを打った人が知りたいだろう情報が用意」されているものなのです。

そしてウェブの世界の向こう側にいる人が満足行く情報を与えられるものが、即ち良い情報だということになっている。

僕の記事はどこの誰の情報欲を満たすのか、もしくは活字欲を満たすのか、自分で読んでみてもよく分かりませんから、情報として質が低いのだと言えるでしょう。卑屈とかではなくまじで。

選んでるつもりが選ばされている

僕らが主体的に情報を探すという行為である「検索」の向こう側でさえ、受け手に新設な設計になっているということです。

良い情報は得られるのが当たり前。良い情報であれば自然に多くの人に接触するものである。

僕らは情報社会がここまで成熟したからこそ、主体的な情報探索行為にすら主体性が発揮できなくなっている。

選んでいるようで実は選ばされている。

だからこそ改めて情報に対する主体性を意識して、自分に必要な情報を得る努力をすべきなのかなと思うのです。

では具体的にはどう努力するか。

①情報を発信する側になる。

②お金をかける

まずこの二通りが考えられます。

情報を発信する側になる

単純に考えて、情報は受けるより発信する方が難しいです。

情報を与えようと思ったら、人の何倍かは分からないけど、多くのことを調べたり見聞きしなくてはならない。

だから精神論みたいなものかもしれませんが、自分に必要な情報を真剣に得ようと思ったら誰かに教えるつもりで頑張る。

自分で調べ、見て、考え、体験した以上の情報はありません。

結果的に発信するかどうかはどうでもよいというかそれぞれの好みだろうけれど(別のスキルがいるだろうし)、少なくとも受動から能動に態度を変えることで、得られる情報の量は飛躍的にアップします。

態度の変化で得られる情報の量が変わるって不思議。情報は既にいつでもそこにあるのに。

情報にお金をかける

最近はnoteで有料記事を扱う人が多くなったようです。

僕も隠居系男子の有料記事買ってみました。なんか、noteで買い物ってしてみたくて。

「次世代を生きる若者が、好きなモノに囲まれた人生を送るための唯一の方法」

ネット上で注目される専門家になるためのテンプレは確実に存在する。

の2点。

中には無料で読めるブログを有料にして売るなんてとか、ましてやそれを買う人がいるなんてという意見もあるようです。

お金払う価値あるの?って。

そこなんですよね。

お金払う価値があるかどうかは自分にかかってるのです。

自分にとって労力もしくは対価を支払って得る必要があるかどうか。それは自分で決めなきゃならないです。

ならないってこたないけど、世間一般に価値があると言われているでかいニュース、拡散された有名な記事、知ってなきゃ恥ずかしいことが自分にとって必要な情報なのだとしたら、そりゃもう苦労する必要も身銭を切る必要もありません。かってに流れて頭に入ってきますから。

でも情報って自分の人生を作るための材料で、だから情報を得るための行動を「取材」って言うじゃんって『取材学』に書いてあったんだけど、ほんとそうだよなあ、情報を自分が好きなものを作るための材料とか道具だと考えたら、そりゃ自然に自分で吟味するよなって。

少なくとも記事を作る人は、あなたの代わりに労力を割いたことは間違いありませんから、自分の人生を形作るのに必要な情報だと思えば、対価を支払って得る価値があると思います。

noteの有料記事はマークだ

noteの有料記事は、それでも現代風の優しさが漂ってると思います。

だって書いた本人が、つまり自分で努力して情報を発信するまでに達した人が、これは価値のあるものだよというマークを付けてくれているということですから。

ここまでの情報にするのほんと大変だったんだから!っていう実感がなきゃ値段なんてつけられませんよね多分。

でも味を占めて、この調子ならこの程度の質でもこの値段で売れるんじゃね?ってなると問題だとか、労力の対価と言うなら客観的で正当な値付けが難しいだろとか考える人もいるかもしれません。

しかしお金払って得た情報の質が悪ければ(期待してたのと違うという意味ではなく文字通り低質という意味)、損をするのは結果的に本人ですからバランスは保たれるはず。全然適正価格にならなくてnotoの販売システム自体が破綻することもあるかもしれない。

いずれにせよ、うわこんなの有料記事にしやがって!って感じると騙されたって思うかもしれないけどそれも大切な情報です。期待はずれで騙されたと思うようなコスト、言われるままにかけてしまうってまさに主体性がないからおこることです。

こんな時代だからこそ、自分が得るべき情報と、そこにかける労力はどれくらいが適切かっていうバランスは自分で考えた方がよい。

情報を得るために主体性を持たざるを得ないこと、僕のど田舎町について。

その話は置いておいて、しかし、これは良い情報だよという分かりやすいマークはありがたいものです。

それこそ情報のひとつになっているのです。

だって図書館の文献に分かりやすいマークなんかついてませんよね。この情報探してる人はこの文献ツボだろうなー、絶対役に立つよ!みたいなこと言ってくれる人、実際にはなかなかいません。

人に話聞くったって、適切なアシストをしてくれる人なんて多分そうそういない。

この記事を読んだ人はこんなのもおススメ!とかさ。そんなホスピタリティ溢れた感じの調べものってできないでしょう。

問題は、これから僕が得たいと思っている情報が、まさに僕の町のことなのだという点。

つまりどんな親切な設計も、有価値だというマークも見当たらない、アホみたいな労力をかけなければならないことが分かってるような情報を得たいと思ってる点。それが僕の情報に対する主体性。

これはやりがいがあるぞ。

 

 『取材学』読んで考えた、情報は人生の材料だから、主体的に集め、よく吟味するべきだろう。(完)

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