大人の条件/終わりなき民族的で複雑な通過儀礼

仕事(経済活動)って趣味じゃないか論。交換の距離感

という長い記事を書いたのですが、これだけ長く書くのは専ら自分の頭の整理という意味合いが強いです。

それで、この長い文章を読む人はまあいないだろうから、書いてみて自分なりに整理できた概要というか核みたいなものの一部をざっくり書いておこうと思う。

でこの記事は、その前提を踏まえた上で書きたいことがある。

それは、大人の条件ってなんだろう?ということ。

意味不明だろうからとりあえずは前回の記事のまとめからどうぞ。

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整理。働いても働かなくても良くなる

仕事(経済活動)って趣味じゃないか論。交換の距離感

の整理をします。

まず、文明の発展にしたがって、僕らの肉体的な欲求はとても安価に、簡単に満たせるようになった。

人間には欲求のピラミッドというものがあるけど、基本的な肉体の欲求を満たすと次に芽生える高次の欲求がある。例えば承認欲求(認めてほしい、褒めてほしい)とか所属欲求(仲間が欲しい、)とか色々と高度で複雑な欲求が。

文明の発展によって、肉体的な欲求を満たすのが容易になった今の時代、高度な欲求を満たそうとする人が増えるのは当たり前。高度な欲求が何を指すのかというと、肉体的な欲求の次の段階だから、心の欲求である。お腹いっぱい食べれるから映画とか見て”感動”する余裕が生まれる。肉体の欲求の次にあるのは感動を希求する心と言えるのではないか。

そうなれば文化的な職業である創作の分野を志す人が増えるのは必然。また、どんな仕事も今はほとんどが食べるためにというよりは働き手とお客さんの心を満たすことを目的としているから、言うなればどんな仕事も趣味的である。もっと言えば暇つぶしであって、感動したくて働いてる。もちろん仕事に感動を求めない、ただの作業だという人もいるが。

もし自分の仕事が趣味的であるならば、経済活動に結び付けて考えなくても良いのかもしれない。みんながダイレクトに自分の心を満たそうと考えれば、つまり「好き」を追求し生きていれば、嗜好は多様であるが故に、誰もが誰かの役に立ててしまい、世の中は意外と最低限の経済活動と交換で成り立つのではないか。

悪いことはしないで、好きなことしてればいいんだ

核の部分をと言ってもあまりまとめられないな。

でも言いたいことはすごく単純で、豊かになったのだから働いても働かなくていいんじゃない?って素朴に思ったということです。

働かなくて良いって言うとアレだけど、経済活動は別にしてもしなくても良くて、人の役に立つって意味で働いてればいいんじゃないかって。

とりあえず法やモラルに背くような悪いことはしないで、好きなことやればいいんだ。

野菜作ったり、動物育てたり、小説書いたり、絵を描いたり、あとはゲームでも彫刻でも料理でも盆栽でも将棋でも漫画でもなんでも良い。作ろうが描こうが見ようが調べようが何してても良い。真剣に遊べば絶対誰かが求める何かにはなるから。

ということ。

でもこれだけだと、いやいやそんな訳ないべってなるだろうから、もし気になる方いたら

仕事(経済活動)って趣味じゃないか論。交換の距離感

を読んでほしい。3回目のリンクだよ主張が激しくてすみません。

こっちなら隙がない、と言ってる訳じゃないけど、言ってることは分かるかも…くらいには思ってもらえるのではないかなと。

子どもにかえる時代?

さてここから本題です。

仮に本当に働かなくてよくて、それでもご飯は何とかなって、好きなことしてればよろしいって状況になったとする。

この状況のことを想像してたら、あれ、これって子ども時代と一緒じゃない?って思ったのです。

現代に生きる若い人の子ども時代で、食べ物とか住む場所の心配あまりしたことありませんよね。不足じゃなくて心配ね。中にはそういう心配をする子ども時代を送った方もいると思うけど、少なくとも心配したことないという人がマジョリティだと思う。あるのが当たり前というか。

もちろんそれは親が働いてくれてたからだけど、実生活を考えなくても良いというのが子どもの特権だと思います。

では社会が発展して、みんながみんな働く必要がなくなったとき。働いても良いし、働かなくても良いとなったとき、僕らが置かれる状況はまさにこの子ども時代と同じです。

友達と遊んだり、一人で遊んだり、とにかく遊ぶこと。多少の義務は残るだろうけど、学校行かなきゃくらいのこと。でも重大な仕事だったですよね。

僕らは食べるものとか寝るとことかの心配なく、学校を除けば毎日遊んでた。今の子はお稽古とか塾とか行ってるかもだし、もしかしたら行かされてるという感覚なのかもしれないけど、大人に言わせれば遊びでしょう。

進学のためとかってなると確かに魅力は半減だし確かに嫌だけど、そういう目的意識を度外視して考えれば学ぶことは贅沢ですよね。少しでも好きなことならだけど。

こどもらしいのか大人になれないのか

今の社会で働く必要なくないか? 

仕事って趣味的だし、同じ趣味なら何してたって良いじゃないか。

お金だってあれば良いけどなくても良い時代なんじゃないの。

とかって書いたこと後で考えたら、これってすごく子どもっぽいんじゃないかって思った。子どもの屁理屈なんじゃないかって。

でも僕の中に生まれた問題は、これは子どもっぽいってことなのか、大人になれてないってことなのか、どっちなんだろうってこと。

子ども心を失わないと言えば長所かもしれないけど、大人になれないと言えば短所に見える。

大人は子ども心を失いたくないと思ってるけど、同時に大人になりたいとも思ってる。

そして大人になることの条件の一つが、社会における責任を負うことにあるのだとしたら、やっぱり世に生きる大人は「社会における責任」を果たす必要ってないんじゃない?と言われたとき不愉快に思うかも。僕はいいよねそれって思うけど。

大人の条件

でも大人の条件って実際何なんだろうなと。

働いてることか、一定額以上の納税をしてることか、結婚してることか、子どもがいることか、聞き分けが良い事か、知識量の問題か、合理的な思考力を持ってることか。

どれもこれもピンと来ないですよね。例外がいくらでもいるし、結婚とか子どもは無理にしても、じゃあテレビに出てる子役は大人なの?ってなるし。

いやいやとりあえず二十歳を越えてることは前提で、その上、社会に参加してるかどうかだよみたいに言われてもやっぱ足りない。そもそも社会ってどこだよって話になってしまうし、そこにはやっぱり経済活動は必要なのか、ボランティアはどうなる、自給自足してる人はどうなる、おじいちゃんおばあちゃんになったら子どもになるのか。

うるせー!そういうことごちゃごちゃ言わないヤツが大人なんだよ!

うわぁ急にキレんなよ大人げないな。

ここにおいて大人はいるのか。

まあまあどっちの言い分も分かるけどさ、っていう人が大人なのか。

分からない。果たしているのか大人なんて存在。

入場料とかの問題で区別が必要なのだとしたら歳だけで十分だよな。それとも今よりもっと国民の管理体制が整ったら、映画館とかであなたは子どもなので1200円、おなたは大人なので1800円みたいな感じになるのかな。ならないよね。美人税くらいありえないよね。

通過儀礼としての社会

大人である条件はないけど、大人になる条件みたいなのは用意されてるような気がする。

しかも至るところで。細かいところで。

例えばそれこそ就職活動を終えて社会人一年目になったら大人になったような気がするんだろうし、名刺交換をしたときかもしれないし、あと自分は悪くないのに謝ったときとか、怒っても良いようなときにグッとこらえたときとかだろうか。

『田村はまだか』って小説僕好きなんだけど、そういうばその中でこんな一節があります。

スーパーへの納品日の前日にミスが発覚したのは不幸中の幸いだった。メーカー担当者から二瓶正克にまず連絡がきた。かれが受話器を静かに置いて、こちらを見たときには、池内暁の脇の下から、もう汗が噴きだしていた。

あれ、発注しといてくれたよね、と二瓶正克にいわれて、迷った。一瞬だったが、本気で迷った。さまざまないいわけが頭のなかをすぎていく。

コンピューターのせいにしようか。頼みもしないのに、手垢がついて汚らしいったら、とキーボードの清掃をしたがる年嵩の女子社員のせいで故障したことにしようか。発注指示など聞いてない、とそこから「なし」にしてしまおうか、大事な仕事ならペーペーにまかせるなと二瓶正克を責めようか、納品前日まで気がつかなかったメーカー担当者を責めようか。

「すみません」

しかし、かれは頭を下げた。そしたらほんとうに社会人になった気がした。男らしいことをしているという気もした。得策、という気もなくはなかった。(59-60p)

好例かなと思ってただ引用しただけなんだけど、こういう「大人になる瞬間」っていくつか用意されてるんだと思う。でも具体的にチェックリストがあるワケでもない。

仕事ならまだ分かりやすいかもだけど、例えば「一回くらい酒で失敗してないと」とか「浮気の一度や二度は」とか「事故って一人前」とかそういうニュアンスのことを聞くこともあります。

なんで?失敗はしないに越したことないじゃないかって思うけど、一般的な大人なら乗り越えてるはずの壁があって、ときにそれはふわっとした共通認識によるものだったりする。同類意識みたいな。

通過儀礼と言えば一番しっくりきて、部族間で成人と認められるにはこれをしなきゃならないってのが我々にもあるんだろう。それが先進社会だとか文明国だとやたら複雑になってたりして、就職活動とか、社会に出るとか、そういう一連のことすべてに当たる。

だから仕事すぐやめる若者とか、簡単に稼ごうとする人のことを何となく認められないというのは理屈じゃなくて伝統的な同類意識にそぐわないからなのだと考えたらちょっと納得。

でもやっぱバンジージャンプとかバカだなーって思いますよね。ケガするじゃんって笑

でも就職活動を苦に自殺する人が出るような国では笑えない。

通過儀礼を終えたあとはどうなるの?

それで、いわゆる社会に出て、大人になってっていう道のりを通過したとする。

通過儀礼を終えたとする。

そして晴れて自他共に認める大人になりました。

それからどうするのでしょう。

そうなったらもう一人前だからあとは好きなことをしなさいということになるのか。

だから好きなことは定年後にやれと言われるのか。定年まで勤めあげて大人だというなら確かにそうかもしれない。じゃあ社会的に認められるのは定年後?そんなバカな。

あ、定年もそうだけど、好きなことは子育てが終わってから、つまり子どもが大人になってからというのもありますよね。

でもその子どもが大人になるのはいつなのか。

僕は大人なのか、それとも子どもなのか。大人っぽい子どもなのか、大人げない大人なのか。

大人の条件/終わりなき民族的で複雑な通過儀礼(完)

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