普通じゃない人が作る普通

発想と行動を記録する

「自分らしく生きるってなんだろう?」ということについて考えています。

最近ではとくに、自分は自分だから、人の批判とか世間体とか気にせず、自分がこれだっていう人生を追い求めていこう、「普通」なんてそもそもないし、あったとしてもそれはとても小さい領域でまかり通っているものだから、自分を殺してまで漠然とした社会に身の丈を合わせる必要はない、自分にフィットした生き方は必ずある、みたいな話は多いと思います。

伴って暮らしの多様性だとか、人間関係の多様性について云々される機会も多いのではないでしょうか。

本当にそうだよなあと思う。世の中は多様で、まとめて規格化しようとする方が無理な話だろう。

だけど十人十色なんて言葉がずっと昔からあるんだから、そもそも今から見れば大昔の人間だって、人間みんなちげーよなーってことは当たり前に理解して納得してたのではないか。

人を、「自分の思う普通」という尺度で評価して、はみ出すヤツを糾弾する、不審に思う、追い出すと言った行為はとても老人めいている印象があるけれど、僕のように、こう高齢者ばっかりの田舎で暮らしてると、意外にお歳を召した方こそ「普通じゃない」に寛容な気もする。

そりゃ見知らぬ人を見たら不審そうな顔するし、結婚してるかしてないかで扱いが違う気がするし、閉塞感みたいなものを感じることもあるけれど、話を聞けば皆さんの過去の方がよっぽど「普通」じゃなかったりして、「なんでそんなぶっ飛んだことになるんだよ」ってエピソードがあったりする。

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普通の人しか普通に疑問を抱かない

生きにくい社会を感じている人は多いと思う、というか少し考えがちな人であれば、ほとんど全員が感じるこういう感覚こそ今や普通で、平凡で、生きにくさを抱くことに一種の「嗜み」の気配を感じる。

「普通ってなに?」みたいな問いかけにいつしか辟易している自分がいて、普通なんかないと言いつつも、そういう問いかけが出てくる時点で十分普通だよな、普通が見えてるんだもんなって思う。

なんか意地悪な言い方かもしれないけれど、普通って枠がしっかり見えていて、そこに自分を、もしくは他人を当てはめて比べてみることもできるわけで、あとは好き嫌いの話であって、結果的に枠に収まると収まらないとに関わらず、十分普通だと思う。

普通の定規を持ってるから普通なんて…って言える。定められた1cmの長さに不満を感じることはあるかもしれないけれど、不満を抱くことを指して普通じゃないなんて思わない。

コンパスの針が北を指すことに不満があったって別に普通。たまたま北に用がないだけのことで、常に北を指すコンパスなんて必要ないなんて言ってどうする。普通のコンパスを持ってるからそんな不満が芽生えるんだろうと思う。

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僕ら何だかんだ普通を目指してる

アンチ普通を声に出せば出すほど普通の人になっていく、と思う。

自分の普通じゃなさ、変さに自覚的であればあるほど、どうして自分はこうなのだと言えば言うほど、普通を叫んでいるような気がする。

だけどそもそも、僕らは普通を目指すのだろう。普通はあくまでみんな必死こいて目指すものであって、それは僕らがもともとまったく違うことを前提にした上での努力目標であって、自分も他人も安心させるために必要なことだって分かってるんじゃないか。

つまり、僕がなんとなくぼやーっと、本当にぼやーっと今日考えたのは以下のようなこと。

今は生きにくさやマイノリティや独特さや偏執について自覚的になり、多様性を云々し、そういう自我の強い個としての自分に磨きをかけたり、認められるように工夫することが「普通」だから、多くが「普通なんかない」を口にするんじゃないだろうか。

「普通」という概念に対するツンデレとも言うべき対応を僕らはしがちなんじゃないか。

はっきり言って好きでしょう普通。素直に言えば僕は好き。普通じゃない自分は人と違うと思ってしまったら不安になっちゃう。自分が普通だと思ってることが社会で何か違うとなると不満だったり怖くなったりする。それってとてつもなく普通だと思う。

普通じゃない自分に不安になっちゃう人が腐るほどいるから逆に「普通なんかない」って言われたら安心するんだろうし、「個人差」や「自分が基準」っていう絶対評価に安心するんだろう。

僕らはもともと普通とは縁遠いが故に普通を目指し、普通を目指すという不可能を追うからこそ普通じゃなさが目に余る。

んん、ちょっと意味わかんないですね。僕も書いてて分かってない。うまく言えないけど、僕らそういうことを繰り返しているんじゃないか。

普通じゃない人が作る普通(完)

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