形が先って言っても、とにかくやってみるとは違う。/毒舌キャラの作り方

前前回の記事では、要素(必要なパーツ)を組み合わせても全体にはならず、要素を繋ぎあわせる文脈が必要だということを書きました。

前回の記事では、要素と要素を繋ぎあわせるには文脈は急ごしらえのものではなく感情を持った人間同士の関係の中にできる言わば「無駄な部分」とか「捨てるもの」もなければ、イマイチなことになってしまうと書きました。スマートに繋げようとするとかえって不格好ってことね。(下図参照)

要素と文脈の図

これを受けて今回では、物事を形作る、つまり創造的な思考や想像的な場面においては、「要素」が先であるべきか「文脈」が先であるべきかという話を考えてみたいと思います。

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要素と文脈は同質量

結論から言えば、要素と文脈はDNAのらせん構造みたいに、常に同じような質量のものが対になって存在するものだと思います。どちらが先かは見方によるんじゃないかな?というのが僕の意見。

DNAは生命体の設計図みたいなものだと言うと思いますが、どんな創造物にも設計図があって、それが連なって何らかの意味をなす「形」となるのだと思います。

常に要素と文脈は対になっているから、どちらか一方だけでは形を成すことはできません。5gの要素と5gの要素を繋げたければ、5gの文脈が必要という感じです。

そうでなければ、一応繋ぐことはできるけれど、なんかもの足りない心もとない頼りないということになる。

漫才の要素と文脈

例えば「漫才」に例えるとどうでしょうか。

なぜ漫才かって言うと、その結果が「笑い」という目に見える人の感情の動きに直結して分かりやすいからです。

優れた絵とか文章って人の感情を揺さぶるものだと思うし、それこそが創造の結果だと思うんだけど、そういう意味では笑いが一番分かりやすいと僕は思う。

創造に成功すれば人は笑うし、失敗すれば笑わないというシンプルさがあります。

じゃあ、人に笑ってもらうために何をするか。

要素を文脈に分けて考えてみます。

要素

これから「漫才」を作ります。

漫才の作り方は以下のようになります。

「二人」で、「マイクを挟んで立ち」、「ボケとツッコミ」がいればとりあえずオーケー、形にはなります。

実際に行うネタにはある程度の基本的な構成があります。挨拶(独特の、自分の特徴を活かした自己紹介)、ネタ振り(状況設定)、ボケとツッコミ(持ち味を意識して)、締め、ありがとうございました、みたいな。

作ったことはないから分からないけど、漫才をやろうと思ったら多分こんな感じで作るんじゃないかなと思うのです。穴埋め問題みたいなものです。

よし「漫才」ができた。じゃあこれが面白いかというと、多分面白くありません。

形式だけではまだ笑いは生まれないのです。

文脈
じゃあ文脈です。

文脈って何かって言うと、それをやるに至る「意味」や「必然性」、「相応しさ」と言ったものでしょう。

漫才で言えば、例えば「人はコンプレックスを晒すと心が開かれやすい」と言ったような意味があるから、最初の自己紹介で自虐的なことを言う。

コロンボは最初にちょっとしたドジや奥さんにどやされた話なんかをして、犯人を油断させる心理テクニックを使っていたとかって知識を利用するのです。なんの意味もなくコンプレックスを晒す人はいないでしょう。

次にネタ振りは「誰にでもひと目で分かりやすいシチュエーションを作る」とかでしょうか。

ボケとツッコミで言えば、最近は「テンポの速い掛け合いがウケる」とか、「勢いのあるのがウケる」みたいなこと?

多分こういうことです。その形に至るためにはある程度の意味があるのです。これが「文脈」

もちろん僕はこういうことを書いてみたけれど、漫才ができる訳ではありません。文脈を語るだけでは(お笑い論では)当然笑いは起きない。

だから形式を文脈でつなぐ必要があって、繋ぐことができてやっと普通の「漫才」になる。やっと見せることができる。

でもじゃあこれで面白いかというと、まだ面白くなる気がしません。これだけで人を笑わせることができたら誰も苦労しませんよね。

笑いが起きないのであれば、笑いを目標とする創作物は存在していないのと一緒です。

形式が先というのは形から入るのとは違います

要素を並べるだけではいけない。

文脈はそれだけでは実体がない。

要素と文脈がそろってはじめて形になり、それもただ繋がれば良いのではなく自然な方法で、同じ質量の文脈で、手抜きをすることなく繋げなくてはならない。

前回の記事では、その自然な方法とか同じ質量ってやつを満たすには「無駄」な要素、論理的には捨てても良さそうなところが大事だと書きました。

物事を形作る上で捨てても良さそうなところって、論理とか理屈以外のもの、つまり「感情」とかってことになると思うんだけど、そもそも「創造」って感情から発生しているところがあるから、これを削っちゃダメでしょう。

だって創造の最終目的って人の感情を刺激することだと思うしね。漫才の目的を考えれば分かると思うけど。

要素だけ文脈だけでは「仏作って魂入れず」の状態になってしまいます。それでは人の心は動きません。

だから、要素と、要素に相応しい文脈をあますところなく使ってやっと生まれるのが創造物。

要素(形式)が先かもしれないけれど、小器用に並べて繋げるんじゃダメで、文脈も同じくらい大事にしようという訳です。じゃないと自然じゃないからね。

じゃあ、自然な文脈ってなんでしょう。

例えば引き続き「笑い」を例にとるとして、誰もが経験あると思うんだけど、あの人が言ったら面白いけどあの人が言っても面白くないってことってあると思うんですよね。

なんか同じこと言ってもお前がやるとつまんないんだよねってやつ。

それは形式と文脈があるだけで、自然じゃないってことだと思う。

例えば毒舌キャラがウケるぞとなったからと言って、そういうキャラにして漫才とかしたとしても、それが似合ってなかったら全然面白くないですよね。

パッと見「嫌」というのはフィットしてないってことだから、デザインの失敗です。

ただ口が悪い人みたいになっちゃうし、毒舌は面白いかもしれないけど、それはその人が毒舌を放つに至るこれまでの物語があって初めてできることでしょう。

形式だけ借用してもダメだし、インスタントな文脈でもダメ。

毒舌キャラの作り方

何かで読んだ創作論で

キャラクターは怒るから怒りやすい性格なんじゃなくて、怒りやすい性格だから怒るのだ

というのを読んだことがあります。

今現在そうなってるってことは、そうなるに至る自然な成り行きとか流れがあって、それは決して簡単に説明できるものではない。

こんな経験があって、そこから怒りやすくなりましたなんて人いないでしょう。

これまでずっと些細なことで怒り続けてきて、そのうち普通に話しててもちょっと文句言ってるように聞こえるようになって、それが的を得ていたり、みんな思ってたってことだったら面白く感じる人が増えて、そういう風に好意的にキャラクターが受け入れられた歴史とか経緯があるから、「毒舌キャラ」として成り立つワケじゃん。

システムや論理だけで繋げて創ったものに足りない部分を補うのは人間との関係性の中に芽生えるものなのでは?という井庭先生の言はこういうことだと思うのです僕は。

形作るという目的の上では不要だけど、創造とかデザインとか人の好みに関わることの上では絶対必要って部分があって、それは人間の感情が握ってる。

毒舌を言ってれば毒舌キャラになるなんてことはなく、そんなとってつけたような毒舌じゃ高確率でつまらないですよね。文句多い人だなあくらいになりますよねきっと。その時点で創造物のデザインは失敗なんです。

要素が先というのは決して形から入るということではなくて、先にあった形を元に、どんな風に磨き上げてきたかというのが自然な文脈なのだということ。

前回も書いたけど、理屈上の正解目指して論理的に組み立てるのではなくて、原石を磨いて磨いて、削って削ってやっと出てきた宝石だから綺麗なのです。

そういう風にデザインは磨かれていき、創作物は人に感動を与えるんだと思う。

形が先って言っても、とにかくやってみるとは違う。/毒舌キャラの作り方(完)

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