『亜人ちゃんは語りたい』のタイトルのすごさ。個性に寛容な社会と、語りたい時代。

コミュニティ・メカニズム

例えば多様性がどうこうってことを考えながらプライムビデオを物色し、何気なく選んだ作品が『亜人ちゃんは語りたい』だったりすると、それがあたかも大きなヒントであるかのように感じるから不思議です。

『亜人ちゃんは語りたい』はどんな作品なのかというと、こんな話。プライムビデオの詳細からをそのまま抜粋します。

サキュバス、デュラハン、雪女、そしてバンパイア――。僕ら人間とちょっとだけ違う、それが「亜人(あじん)」。最近じゃデミと呼ばれてます。そんな個性的な「亜人(デミ)」ちゃんたちと、彼女たちに興味津々な高校生物教師・高橋鉄男が繰り広げる、ちょっと刺激的でハートフルな学園亜人コメディ!

こんな感じです。これを見て、つまり亜人とはマイノリティの比喩で――と言うのは簡単なので簡単に言っておくだけにしても、よく考えたら作品内では比喩どころかまんまマイノリティそのものですよね。絶対的マイノリティ。

そんな子たちの学校生活を楽しく見るアニメです。

これが何なのかって話なのですが、僕が『亜人ちゃんは語りたい』を面白いと思うのは、僕らがマイノリティとどう受け入れ関わっていくかという従来の問題、あえて言ってしまえば時代遅れな問題を扱うのではなく、マイノリティを既に受け入れ、関わりが深くなった状況で、どんなことを考えようかという点に焦点が当たっているところかなって思います。

そんなこと考えなくても楽しいアニメなんですけどね。

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マイノリティが社会に受け入れられている状況が前提の作品

作品の世界観を説明するために冒頭付近のナレーションを引用します。

この世界には亜人と呼ばれる特別な性質を持った人間がいる。サキュバス・バンパイア・デュラハン、神話やおとぎ話のモチーフにもなった亜人。かつては迫害の歴史もあった。しかし近年では不当な差別も見られなくなり、日常生活に不利な点を持つ亜人に対する、生活保障制度も存在する。いまや亜人は、一つの個性として認められていた。

このように、亜人は社会に十分受け入れられている存在として物語は始まります。

差別も偏見も(少なくとも表面上は)ない。「亜人です」と言われれば「亜人なんだー」って思う。色々と不都合な点があっても「亜人だし仕方ないところもあるんじゃ…」と思われる。

好意的にとは言われないまでも、それは亜人という個性が引き起こすものなら仕方ないと受け入れられている。

社会は亜人を受け入れはしているし、その性質を個性として認めてはいるけれど、それでも亜人ちゃんはそれぞれ、人知れず自分の性質と寛容な社会との壁を前に悩んだりなんだりしてる。

こう見ると、現代社会にもこういうところはあるよなって思います。この社会はあらゆる個性を認めるし受け入れるけれど、例え不都合があっても「仕方ないんじゃない?」と割り切るだけという状況。

「いや、でもそれ以上何を望むの?」という話でもあります。受け入れてほしいとか認めてほしいという願望が叶ったら、今度は尊重して欲しい、貴重な存在として大事にしてほしいとでも言うの?

亜人ちゃんたちはもちろんそんなことは考えていませんし、自分とは切り離せない性質を持ちながらも社会に溶け込む努力をしている。もしくは迷惑をかけない努力している。

何が問題なの?

何も問題はない、というのがこのアニメのすごいところだと思います。

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『亜人ちゃんは語りたい』と問題視されない問題

問題はない問題、言わば、「問題視されない問題」がこの作品にはあるんじゃないか。

でも、「問題視されない問題」と言ってしまうと、社会的な視点はもう無くなってしまいますよね。

これ何言ってるか意味わかんないかもしれません。

つまり、その性質や個性が社会にとってなんら問題にならないのであれば、社会を前にして生きる条件はどの人間も一緒ということ。だって僕もあなたも少なからず欠けているところや過剰なところがあるはずですから。僕やあなただけの性質が必ずあるはず。

デュラハンちゃんの首を持ち歩かなければならないこと、バンパイアちゃんの定期的に血のパックを飲まなきゃならない性質と同等と言っても差し支えない、自分だけの、独特な性質がある。

そんなものはいちいち問題視されませんよね。

例えば、僕は大人数での飲み会が極端に苦手ですが、僕が言う大人数は自分含め5人以上のことです。

これは僕だけの性質と言うにはありふれ過ぎていると思うけど、みんなで騒ぐのが好きな人にとってはよく分かんない個性?性質?ですよね。

で、僕だってそんな場に行ったらたちまち死ぬって訳じゃないから、別になんも言わんと大人しく座ってるし、なんか大人しくない?とか楽しんでる?とか言われたら若干疲れた気分にはなるけど、普通に楽しいよ大丈夫とか言って場をごまかす。

大丈夫とか言っちゃってる時点でごまかしきれてないんだけど、本当に楽しくないってわけじゃないし、大丈夫だから来てるわけで…って頭の中で変な言い訳モードが展開すると同時に、ああこういうとこで心配されたり人に気遣わせたりしないで済むようにならなきゃなって反省モードになる。でもだからってみんなと同じようにはしゃぐなんてできないし…。

結論、「行かない方がみんなのためなんじゃないの?」となって、付き合いわりいなってなると水面下で問題になるかしらんというかそんな風に思われてる気にもなるけど、いや違うんだ誤解なんだ俺は俺なりに気を遣って…と言っても後の祭り、みたいな状況。

言わば亜人ちゃんたちが抱える問題もこれに類する話であって、マイノリティゆえの問題というよりは、みんな等しく抱えている個性と、内省時に感じる孤独の問題。

語る、聞くの関係が何かを溶かしていく

これをどういう風に解決するかというと、作品タイトルにもあるとおり「語る」ということなのかなと思います。

作品内のヒーローである高橋鉄男先生は亜人の性質に強い興味と好奇心を持っており、彼女たちの話を聞きたがります。亜人が抱える問題を解決したいと考えているのではなく、亜人ちゃんたちと語りたいと思っている。

その上で浮彫になる問題点は解決したいと考えるしアシストするけれど、多分それはあくまで教師としての性質なのかなと僕は思う。義憤に駆られてとかっていう風には見えないので、とてもスマートです。

亜人ちゃんたちにとって高橋先生がヒーローなのは、問題を解決してくれる以前に、話を聞いてくれる存在だからだと思います。興味を持って自分の性質に触れてくれる人の存在がときにただ解決策を示してくれる人よりも頼もしく思えたりするということだと思う。

僕のさっきの例で言ったら、飲み会がつまらないとかみんなが好きじゃないとかじゃなくて、大人数だとどうしても萎縮しちゃうんだって語らせてくれるだけで、若干ホッとするだろう。

あ、じゃむやみやたらと誘うのは止めにするわーって言われたら嬉しい、分かるわーって言われたら嬉しい、わがまま言うなボケって言われても嬉しいとまでは言わなくてもまあ孤独にはならない。

作品に話を戻すと、こんな風に、語ることを許された時点で彼女たちの悩みはほとんど解決していると言っても言い過ぎじゃないんだと思う。

問題って共有できた時点で解決なこともあるよなと思うのです。

語りたい気持ち

語り合った上で、その性質を理解できるとかできないとか、そういうのは別の話です。

他者や自分以外の性質に対する態度の話で、話を聞いたうえで理解できなくても良いし、結果的に拒絶反応が出てもおかしくないと思う。それは悪いことではないと思う。

ただ、そういう不都合を見て見ないフリするだけでは救い取れない部分があるよなと、漠然と思うのです。

多様性が認められる時代、個性が認められる時代というのは、究極お互いを理解できなくてもなんら問題のない時代なのだと思うのです。色んな他者の中で生きなければならないけれど、「多様」という言葉で括れば、何か不都合があったとしても「まあ人それぞれだから仕方ないんじゃない?」って心穏やかにいられる。

「亜人」という種が社会的に受け入れられている社会では、亜人の性質ゆえの不都合に対して寛容なのと同じように。

だからその何が問題なのよと思われるかもしれないですね。もしくは何にでも興味関心を持って向かい合えと言ってるように聞える方もいるかもしれません。

僕も問題は無いに越したことはないと思うし、何にでも興味関心が抱けるわけじゃないことも間違いないと思います。

だからそこまで極端なことを言ってる訳ではないけれど、でもみんな平等に孤独になっていくような、そんな社会の気配も感じるから、「語りたい」って気持ちは分かるよね、という話でした。

で、結局何が一番言いたいかと言うと、『亜人ちゃんは語りたい』っていうタイトルすげえなってこと。「語りたい」という気持ちが主題となり得るのは、この時代だからこそなんじゃないかなってこと。

『亜人ちゃんは語りたい』のタイトルのすごさ。個性に寛容な社会と、語りたい時代。(完)

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