仕事(経済活動)って趣味じゃないか論。交換の距離感。

「働く」を「誰かのために何かをすること」と「経済活動」にはっきり分ける。

普段はこのふたつの意味が重なってるからややこしいけど、「働く」を試験管に入れて、よく振って、分離させてみれば、誰かのために動くことをいちいちお金で清算する必要はないし、お金が欲しいだけなら別に人の役に立つ必要はない、ような気がしてくる。

理屈で言えば、何々主義とかって話は今置いといて、例えば国が均等もしくは申請された分だけ国民にお金を払い、つまり生活は何もせずとも「普通」に送れる状態で(こういう発想は一歩間違えればディストピアを作るものになりそうだけど一旦スルーしてほしい)、あとはお好みの方法と手段で、つまり好きな労働で人の役に立てば良い。

普通って言うのは最低限度の質素なという意味ではなく、現代の感覚で言うところの普通。リッチでもストイックでもない、ちょうどその間くらいの、文字通りの普通。十分に文明的な生活。

それがうまくいくとかいかないとかはちょっと僕には分からないから考えていきたいんだけど、とりあえずそういう理想を仮定すれば、理屈の上でできないことはないような気がする。

この記事で言いたいことは正直まだちゃんと決まってない。そしてそういうときは絶対に長くなる。でも今のところ言いたいのは、僕らは「人のために何かをすること」をやめることはないけど、そのうち「経済活動」はしてもしなくても良くなるんじゃないかってこと。

こういうのって最近の傾向では特に珍しい考え方でもないようだし、突飛な考え方ですらないけど、僕としてもそうなるのが魅力的に思えるという話です。

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16.文明の発展により生活にかかるコストがこれからもどんどん下がるとすれば

仮に文明が今よりずっと発展して、国家システムにもエラーがなくなって、いよいよ人が働く意味がなくなったとしても、「人のために動くこと」を多分僕たちはやめれないと思う。

なぜなら、認められたい欲求とか、褒められたい欲求はほぼ全員にあるからです。

こういう高次の欲求はしかし最低限度の生活水準が保たれていればの話で、衣食住がある程度整ってから芽生えるものです一般的には。

だから今は最低水準を満たすために僕らは経済活動をしなくてはならないのだけど、文明の発展によって最低水準が底上げされていき、かつその水準を満たすのも簡単になっていくとすれば、今よりもっと「俺が人の役に立ちたい合戦」「認められたい合戦」になるのは間違いない。

実際、文明の進化によってあらゆるもののコストが下がっていますよね。特に思うのが携帯とかパソコンとかテクノロジーの分野。僕が小さい頃、パソコンってかワープロだって30万とかしてた記憶あるけど、今や3万も出せば十分なヤツが買える。

そしてパソコンでもスマホでも良いけど、これ持っててネット回線に繋がってるだけであらゆる情報や娯楽が手の中にある状況。

そしてテクノロジーの進化は、あとでもうちょっと詳しく書くけど僕らの生活を大幅に変えたし、お金の存在に対する価値観も変えつつあると思う。この辺りがこの記事で重要なポイントになりそうだけど、とりあえず一旦話を進めます。

まずは生活にかかるコスト、それも最低限度の生活じゃなくて、文明的な生活にかかるコストがこれからもどんどん安くなって行くと仮定して、じゃあ言うほど仕事しなくて良いんじゃない?ってなったとき、それでも「人って誰かのために動く」ってことはするよなって話。

だってみんな知っての通り人間の欲は深く果てがなくて、ごく一般的な人間であれば腹が満たされたからと言って満足とはならない。腹が満ちたら人に料理を振る舞いたくなるのが人間で、心を満たしたくなるのが人間なのだと思います。

そしてそれは優しさや徳性から来るというよりは、やっぱり欲から生じる行動のように思える。

もちろんそれが悪いことだとは思わないけど、人の役に立ちたくなるのは自分の欲望なんだ、わがままなんだと言い切る方が僕はしっくりくるし、そう思っていた方が独善的にならずに済むんじゃないか。しかもそれを認めざるを得ない状況なんじゃないか。

15.ありきたりな、ちょっとしたユートピアな想像

文明が進み、成熟した社会と言われるようになって、職業がたくさん増えました。その分、なくなっていく職業もたくさんあると言います。

でも考えてみれば、生きることに直接関わる仕事なんか全体から見ればあまり多くありません。なくても良いけどあるよなんかちょっと良いよねって言う、趣味的な仕事が多いと思う。

趣味的な仕事である以上、乱暴な言い方になってしまうけど、やってもやらなくても良いんじゃないか。

そして生きることに直接関わる仕事もロボットに任せられるようになったり、コンピューターで管理できるようになれば(それも低コストで)、いよいよ働く人なんか一握りで良い。クリエイティブな仕事に限らず農業だってもう機械化の一途だという噂だから、機械を動かせる人がいれば良い。

それもその一握りも誰かが人生をかけるのではなく、本当になきゃ困る食べ物とかに関わるような最低限の労働はみんなが順々にやればオーケー。

そうなれば、どこかの国の徴兵制度みたいに、何歳から何歳の間に2年間、国家を維持するための仕事に就くことという決まりができて、でも重要なことはすべてコンピューターがやる訳だからたいていはすごくつまらない仕事なんだけど、生涯でやりたくもないのにしなければいけない業務はそれだけになる(こういう管理体制はやっぱちょっと怖い)。

しかしその2年間だけで、国民の義務は果たされる。国民である以上、最低限度の保障は約束され、あとは寿命が尽きるまで、好きなように人の役に立って、好きなように欲望を満たせば良い。趣味である仕事をするなり、趣味である将棋をするなりして生きてれば良い。

現実的かどうかは置いておいて、悪くない想像だと思うし、最近ではほんとありきたりな話。

14.心底ではユートピアなんかに興味ない人間

でもこう極端なことを考えると、若干頭の中で反発心みたいなのも芽生えてくるはずです。

僕は社会構造とか○○主義とかって巨視的なことよりも、そういう背景があるとき個人はどんな行動をとるだろうかってことの方が興味あって、ここでもできるだけそういうことを考えたい。

テクノロジーの発展によって人類はこの国はどうなるだろうかっていうより、働かなくて良いってなったとき隣のあの子はどう動くだろうか、どう考えるだろうか、みたいなこと。

で、仮にテクノロジーやらが発展して生活にかかるコストが下がり続け、マジでみんななんで働いてるんだ、もうどんだけ怠けても飢えることも凍えることもないんだから好きに生きやがれってなったとき、人はどうするか。

まずこういう話を聞いたとき、そんな風になる訳がない、なったとしてもうまく行くわけがない、うまく行ったとしてもなんか嫌だと感じる方が多いのかなと思います。

これも人間の自然な心理の流れなのかもしれない。僕も書いてて、なんかSFみたいだなって思うし、SFっぽいなと思った瞬間どうしても怖い想像に走ってしまう。

苦痛ゼロのユートピアみたいなものを見せられると、それって生きてることになるの?みたいな筋になってしまう。こないだ世にも奇妙な物語で、みんなじぶんそっくりのアンドロイドに現実は任せて、自分は夢の世界に生きる装置ができてなんちゃらみたいな話があったけど、あれもユートピアを目指した末のディストピアですよね。

じゃあなんでユートピアを夢みると人は素直に受け入れられず、悪い想像を先にしてしまうのか。それが個人の欲望の複雑さにあるのではないかと思うのです。

13.今の文明はユートピアを受け入れられるか

働かなくても良い。でも肉体的な欲求が満たされたからといって満足するわけがない人間は、それでも承認欲求を満たすために人の役に立ち続ける。

この仮説は些か楽観的すぎるかもしれなくて、何となく根拠はないけどそんなうまいこといくわけねーべって思う人もたくさんいると思う。

問題点はいくつかあって、社会全体の問題より個人の問題に焦点を合わせたとき、例えばあらゆる重要な仕事が機械に奪われ、存在価値が揺らぐような未来になれば、そのとき「何をして人の役に立てば良いか分からない」というものがある。

あとは似たようなことかもしれないけど、「え、じゃあ絶対人の役に立たなきゃいけないの?」と何かに強迫を受けたみたいな気持ちになる人もいる。

別に自分の生活が満足ならそれで良い、他の誰かが困ってるとかでもないんだったら自分は人のために何かする必要なんてないなと考えるという人。

仕事しなくて良いなら、わりと全体的に無気力になっちゃうんじゃないの?って心配もある。

これも当たり前ですよね。たぶん僕もそうです。例えば目の前に困ってる人がいて、頼まれたら全然やるけどさ、こっちから「役に立ちたいんです僕を使ってください」ってことにはならんよなって。そこまでギラギラ生きる自信ねーわって。

理屈の上でその人が困るって状況も想像しにくい。生活上の困窮はない訳だから。

いくつか想像できるのは、対人トラブルでなければ知恵やスキルを貸してくれというものだろう。

でも僕は楽天的に考えたい。今の文明と成熟度を見れば、ユートピアも受け入れられるのではないか。

その根拠はこうです。

生活上の困窮がゼロなのだとしたら、残るのは働かなくても良いという安堵感より膨大な暇つぶし時間であり、嫌でも創造的な世の中、遊びに満ちた世の中になる。人の役に立つとかそういうのは二の次で、世の中は遊ぶ人とそれを見る人といった構成になる。

創作者と鑑賞者、作る人と貰う人、しかいなくなる。楽観的に考えれば。

この楽観視が僕にとって現実的だと思えるのは、あらゆるテクノロジーが発達して、遊ぶことが多くなったからです。

プレステ4こないだ買ったんだけど時間泥棒もいいとこだし、読んでない漫画とか小説とか大量にあるし、普通に働いてる時間なくない?仕事してる場合じゃなくない?って思う。今手に入れられる娯楽を楽しみ尽くすには何より時間が必要で、働く時間あったら遊ばないとやばいよって焦りがある。

ドローンでも遊びたいし、料理もしたい。あと生きてると考えることがあって、あと何より頭を整理するためにも色々と書きたい。

いやいやそのプレステ4作ってる人もソフト作ってる人も仕事してんだよ馬鹿野郎って話かもしれないけど、その点もあとでちょっと話がある。

12.経済で回る社会の利点。私は誰の役に立つか。距離感と質の話

ちょっと想像が先走り過ぎて妄想っぽいことしきりなので少し現実の「仕事」を考えます。

「働くこと=経済活動+誰かのために何かすること」にすると、誰の役に立ってるか分からないけど苦労できるという利点があります。

正確には、誰かの役に立っているのは分かるけど、具体的な誰かを思い浮かべる必要がないという利点です。

大抵の場合、この苦労があの人のためになると考えることは少なくて、全体の歯車の一つになることで巡り巡って誰かの需要を満たしてるということは理解できても、直接お礼言われる訳じゃないし、言われることを望んでる訳でもないんだけど、お給料もらえるから、まあ頑張ったんだな、役に立ったんだなって考えようとすれば考えられる。

これは明らかに経済で回る社会の利点ですし、多くの人がこれで満足してると思います。

なぜなら、人の役に立ちたいとか認められたいっていう欲求はまあ人並みにあるけど、もっと正直に言えばなんかこう、こっちから私役に立ったでしょうお礼を言ってくださいってのも面倒で、「なんもしなくても愛されたい」「全肯定してほしい」という気持ちもあるから。

猫みたいに、生きてるだけで万事順調みたいな生活に憧れるのもまた自然な感情だから。

でもそういうのって身近な恋人とか家族とかで割と満たされてるし、一人くらい自分のこと認めてくれて大好きだと思ってくれる恋人が欲しいなとかは思うけど、アイドルとかみたいにマジでいるだけで大勢に崇拝されるのはしんどいなとも思う。

結局はバランスの問題だぜという話になって、不特定多数の漠然とした他者には遠くからなんとなく片足つっこむ感じで控えめに役にたってれば良いし、もう傍にいるだけでありがとうほんと君に会えてよかったって言ってくれるのは2、3人で良い。いや1人いれば十分かも。

社会にはお給料を貰えて、恋人には褒めてもらえてっていう生活で良いじゃない。

だから仕事もプライベートも頑張る、ってけっこうバランス良くて、今は不況ってのもあってか若干プライベートが置き去りになってる人も多いようだけど、まあ食うに困ることはないし、承認欲求って色々なところで満たせるし、頑張れば頑張るだけ応えてくれるだれかがいるんだからいい時代だよねって。

11.必要からではなく、趣味でそこにいるのではないか。趣味ならなくても良いんじゃないか。

でもあえて考えたい。

お金は稼いでも良いし稼がなくてもよくなる日のことをです。

確かに、別に面白くないけどそれなりに仕事頑張って、オフの日には恋人や家族友達と過ごしてという生活はバランスが良いです。

バランスが良いだけに理想的であって、ゆえに幻想的。

みんながそうなれば確かに良いです。仕事後の一杯がたまらないとか、女子会で会社の愚痴を言まくっててもなんだかんだ毎週のその時間が楽しみでとか、ずいぶん楽しそうじゃん、楽しそうに社会人やってるじゃん。

これはもうリア充であって、仕事やだー、月曜辛い。。。って言うことも含めて嗜みという感じがする。

一方で、誰がなんと言おうと仕事ノ―ストレスなんだよなって人もいる。本当に好きなことを仕事にしてたり、すごい自信あったりして、仕事楽しいって人。

なんでみんな飲みの席で仕事の愚痴ばっか言うんだろう。そんなに毎回愚痴ばっかならさっさと辞めれば良いじゃん、好きなことすりゃ良いじゃん、毎週恒例のありえない上司の話とかっていい加減ワンパターンだし本当にありえないならその人なんとかしたら?

どうせ好きなことしたら良いって言っても好きなことなんてないしー、これやりたいって別にないしー、辞めてどうするって話だしー、あーどっかに良い男いないかなーって結局そういう話になるのかよ。もうこいつらこういうロボットなんじゃねえのってくらいワンパターンだな。

って心の中で思っちゃうけど、そういうんでもないんだろうな正論を求めてる訳じゃないんだろうなしかも言ったら嫌われるなって思うから大人しく愛想笑いして、あー時間無駄にした、やっぱ次から飲みは断ろうみたいな。

いずれにせよ、皆なんだかんだ好きでそうしてるって話です。

受動的に仕事してようが、能動的に仕事してようが、まるっとそういうカテゴリーの中に属するということが安心で、そういえば人には所属欲求というものもあって、人はみんなそのカテゴリー内の人物らしく振る舞うし考える。だから俯瞰してみたとき、誰でもよくいるタイプの人間になる。

どのカテゴリーに属するかはもう好みの問題であって、あってもなくても僕ら人類の生命維持に関わらない職業が大半である以上、仕事は趣味のレベルになりつつあるなと思うのです。部活とかサークルとか、そういうのと一緒だよなって。

だから、趣味はなくて良いし部活もサークルも入らなくて良いように、経済活動はしてもしなくても良い感じになるんじゃないかなって思う。

10.辛い趣味を続ける意味がない

マジで仕事嫌な人、もしくはヘトヘトの人は、例えば飲み会や旅行もかなり負担なんじゃないか。

寝たらあっという間に明日になるのが嫌で一回夜中の3時とかに目覚ましかけちゃったり、友達から飲みの誘いが来てるけどその返信とか、ボロボロだから休みにうちにこなそうと思ってた定期入れの買い物とか、そういう些事がままならない程疲弊している人もいるんじゃないか。

「うつ」とかってひとまとめにされてしまうし、気を抜くと何かに負けた人のように扱われてしまう気がして嫌になっちゃうけど、「うつ」と言われれば「うつ」だし文句もないんだけど、はっきり言ってそうやってすぐ名前を付けて割り切ってしまったり、割り切られて納得するような人は「うつ」にならないんだろうなと考え考え、こういう考えすぎなところが悪いのかなって堂々巡りをする。

そういう人も多いと思う。

そもそも私は私を割り切れていないのだ。

私が世の中で属する環境と、私とのギャップを合わせられなくて、例えば足なんか痛くないのに松葉杖をついて歩いてるような、雨も降っていないのに傘をさしているような、そんな納得のいかなさがあるのだ。

仕事となれば嘘もつく。騙すとかじゃなくて、笑顔を作ったり、声を張り上げたり、ありがとうございましたも申し訳ありませんでしたも、正直心から思ったことなんてないけど、必要に応じて声に出したりする。

思ってもないことを我慢してするのが仕事で、社会人ってそういうことって言われても、その社会っていう趣味のサークルの親玉みたいなところに属することに納得してない。

仕事してりゃ誰でも嫌なことあるとか、辛いのはみんな一緒とか、世の中そういうもんでしょ適当にやりなよとかって、そういうのはだからあなたなんだかんだ好きでそうしてるんでしょう。そうやって割り切れるだけ所属することに納得してるんでしょう。

嫌なことに耐えられない訳でもないし、辛いことを受け入れたくない訳じゃない。

重要なのはこの中にいたくないという感覚で、カテゴライズされた通りに振る舞うことに納得してないという部分。納得さえしてたらよくいるタイプと言われようが、十把一絡げに凡人と呼ばれようが文句はないよ。

9.誰の役に立つかを考える必要はなく、自分の嗜好に沿う生き方をするだけで役に立ってしまう

さて何書いてるのか分からなくなっちゃったからちょっと立ち返るけど、僕はこのまま文明が進めば経済活動はしてもしなくても良くなる日はそのうちくると思っていて、でも人は誰かの役に立つことをやめないだろうって話がしたかったのです。

誰かの「役に立つ」というくらいだから、誰もが役割を持っていて、何となく英語にするとつまりキャラクターを持っていて、役に立つかどうかって本来持ってるそれに合うか合わないかって問題なんじゃないかなって思う。忍耐力の問題じゃなくて合ってないとめちゃくちゃ辛いっていう。

だから役に立たない人なんかいない。

これはみんな世界にひとつだけの花だよ的なことを言いたいのではなくて、現実に存在する以上どこかに配置されてしまうということです。

マジで何もしてなくたってニートとか呼ばれるんだから、何かにはなっちゃうってこと。

このことから少し頭をよぎる仮説があって、それは役割って基本的には与えられるものなんじゃないかということ。もう少し行為の主従をぼかして言えば、人の役割というのは関係性のなかに芽生えるものなんじゃないかということです。

例えば、僕は表には出ない(と思ってる)けどわりと感情の浮き沈みが激しくて、調子が悪いときは雨季なんだろうかってくらい内面がどんよりする。

でもお付き合いしてる彼女と会って話すとかなり落ち着きます。

すぐに気分が晴れる訳じゃないけど段々薄ぼんやりと日光が差し込んでくるみたいな感じがあって、あーもうそろそろ雨止むなーって感じのときの、何とも言えない安心した気持ちになる。

あの人は社会的なカテゴリーで言えば「恋人」とかって呼ばれる役割なのかもしれないけど、個人的にはそういう枠に収まらない人であって、とても短い単語でカテゴライズするには忍びない。

こんな風に人は誰かの役に立ってしまうものだし、勝手すぎるかもしれないけどあの人はこういう人で、あの人はこういう人っていう役割の分配を、みんなそれぞれがしてるもんじゃないだろうか。

そういう訳で人は多面性を持ち、どうしても人の役に立ってしまう。

「つながり」や「シェア」が叫ばれる昨今、同時にあらゆるものの多様性が顕現したのは単純に人と人のキャラクター的な距離が近くなり、俯瞰から近接へと価値観や視点が移り変わっていったからだろう。近くにいるから個性的に見えるし、その個性を表現する言語が増えたんだろう。

だから、与えられる役割に満足できるかどうかは、役割そのものよりも誰に与えられるのかという部分の方が重要なんじゃないか。

それが今までは漠然とした他者である社会に与えられるのが普通だったけど、文明の発展により多様化が進み、個人の影響力が増していき、かつ繋がりを持ち運べるようになったことで、より一人ひとりのキャラクターが大事になってきたのではないか。

8.自分の属する世界に納得しようとするとき、身近な存在に理由を求める例

20代も後半になると、周りの人間の話題の変化も体感できます。

20代前半では仕事を辞めたいとか先が見えないという話をしていましたが、途中から仕事は相変わらずつまらないけど上司には世話になってるからあの人のために頑張りたいという人が増えます。そして後半になると、仕事の苦労話を好んでする、もしくは意識的に苦労を口にしなくなるようです。

友達が少ないので参考にするには乏しい統計ではありますが、この流れが一致してて興味深かったので印象に残っている。

こういう風に人は自分の役割に納得していくのだなと感じたし、やっぱりその手段として身近な誰かのためにという感情は強力なんだなと思いました。

石の上にも三年というのはその過程のことで、長く留まれば人と人の間には必ず関係性が芽生え、役割が与えられ、納得すればある程度居心地がよくなる。

ここまで考えれば、社会にある仕事、生きる上で必ずしも必要のない仕事は、そういう関係性と自己認識のためのただの手段なんじゃなかろうか、と思う。

だってもう、働かないことをみんなが本気で望めばとっくに人が働く必要なんてないという時代になっててもおかしくないでしょう。

マジで働きたくないって人が本当に大半で、仕事が辛い、行きたくない、やりたくないというなら、絶対にそんなことやらずに済む道もあったはずです。

でもそうなってないのは、働くという行為が手放せないということなんじゃないか。

そして腹が満ちた現代社会で主張が激しくなってきた承認欲求とか所属欲求を満たすことが本当に目的なのなら、働くことはわがままで、贅沢なんだということになりはしないか。

そしてそれが贅沢でわがままなことなら、我慢してやる必要ないんじゃないか。高級料理を食べたくないのに食べてるみたいな変なことになってないか。

だから、仮に仕事で得られると思しき承認欲求や所属欲求を満たせる見通しがないのなら、無理してそこにいなくても良い。

人はただ強欲なだけで、いくら我慢しても我慢強くならないし、失敗しても学ばないし、何度立ち上がっても強くなったりしない、と僕は思う。

結局人はそれほど応用が利かないのです。だから別に辛い環境から逃げて負けるとか、今を乗り越えて勝つとか考えなくて良い。欲が満たせる場所と満たせない場所があるだけです。腹具合にちょうど良いものを選んで食べられるのが飽食の時代たる今の幸せだと思う。

7.今、好きを仕事にするは現実的か

だからと言って、仕事をすぐに辞めるなんて現実的には難しいでしょう。

仕事しなくてお金どうするのって話になるし、結局またすぐに就活して働き始めないとならない。

それだって裏返ったカードをめくるようなもので、やってみなくちゃ分からないし、一週間やそこらで合ってるかどうかの判断もできない。

それに実際問題、賃金を得るための仕事に対して私はこうなりたいとか、こんな人の役に立ちたいという具体的なイメージだってないし、仮にあったとしてもそうなれる保証もない。

というかせっかくの心機一転なんだからやりたいことをやろう、自分が少しでも興味のあることをやろうと思うと、職業に結び付かなかったりする。

何より難しいのが、自分の興味あることやるって時点で欲求が満たされるのに、それで人の役に立つ(承認欲求を満たす)なんて強欲も強欲というところです。当然仕事として成り立てば基本的な欲求も満たされるしね。

もちろんそれが出来るならそうするに越したことないし、そうするために仕事頑張ってじっくりやりがいとか見つけていんだけど、そういう過程を簡単にこなせそうな好きなことで食っていくというやりかたを、漠然とした他者が許さないということはないだろうか。

「好きを仕事にする」みたいなの最近ではよくあるけど、たぶん多くの人は心のどこかでそんなのズルいっって思うんだろう。そりゃ全ての欲を簡単に満たす人がいたら羨ましいですよね。

例えば私は旅行が好きだから旅しながらブログ書いて生活してます、なんて羨ましいですよね。

みんな苦労してんだぞ、やりたくないことやって稼いでるんだぞ、それが仕事ってもんだ。でも苦労してるうちに認められて、だんだん任されること多くなって、やりがいが芽生えていくんだ。そしたら責任感も備わるから、信用されるようになるんだ。いいか、最初から好きなことで食ってくなんて甘いんだよ、そういうヤツは社会に信用されないんだよって。

行きつく理想は同じなのに、簡単にそこまで行く人のことは許せず、せめて軽蔑するとか認めないとかって方法でダメージを与えないとってほぼ無意識に思うのかもしれません。承認されない辛さって人間に共通ですから。

6.ダイレクトに欲求を満たすことに寛容になれば

そんなセコイことしてないで、みんな好きなことすりゃ良いじゃん、好きなように人の役に立って、大好きな自分を大好きだって言ってくれる人の傍にいれば良いじゃん。

「社会」にいようが自分のブログとか配信チャンネルのファンに囲まれてようが正味小さなコミュニティの中にいることには変わりないんだからさ、「世話になった人」みたいに顔が見える身近な人の役に立って、顔の知らない遠くの誰かの役に立ってるんだろうなって思って満足してることに変わりないんだからさ、もっとダイレクトに欲求を満たしてみても良いだろう。

嫌なことの中に無理やりやりがいとか見つけて自己正当化するような健気さを捨て、さっさと好きなように生きて、好きな人の傍にいて、行きたいところに行けばいい。

それは正論かもしれないけど実際には簡単にできるものじゃない。なぜかって言うと、人は社会が定める仕事に「基本的な欲求」、「普通の生活」を人質に取られているから。

もしかしたら心のどこかで、人は強い枯渇があるからこそ欲が出て頑張れるのだから、欲を満たせるのが普通になったらダメになると思ってるのかもしれない。

確かに、つい平和で満たされた時代に生まれた僕たちは基本的な欲求のこと忘れてすぐ承認欲求とか所属欲求とかっていう高次の欲を満たそうとしてしまう。

お腹が空けばご飯を食べれば良いと普通に思ってしまうところがあって、もしかしたら本当の食事の喜びを知らないのかもしれない。

でもそのために発展したんだろうって思う。誰も腹を空かせなくて良いように頑張ってきたんだろうと思う。

だけど社会では、そういう高度なヤツを無暗に取ろうとしたらご飯を取り上げられて、バカだな社会は厳しいんだぜって言われてしまう。

なのに余ったごはんを捨てたりしてる。お客様には出せないし、持って帰るのもダメ。ほら何かあったら怖いからさ。ほんと社会っておかしいよなーはははって。

この状況を何とかしたいなと。だって文明の発展を感情論で否定して、これまでの叡智を享受できてない気がするもの。足踏みしてないでここからさらに貪欲に発展させなきゃと思うもの。

なんとか全ての人質ならぬ欲質を奪還しようと思ったとき、何とかやり過ごさねばならない問題が二つある。

一つは、基本的な生活を保障するための工夫。

もう一つは、「社会って厳しいんだぜ、みんな苦労してんだぜ」って被害者風を装いながら、社会は厳しくあるべきだと信じ、厳しい社会というルールを守り続けている人。つまり好きでそこにいる人。

それにしてもその人たちが「それじゃあ社会では認められないよ。それは理想かもしれないけど、社会って厳しいんだよね」と言うから社会で生きていけない人が出てくるという構図がなかなかウィットに富んでる。

5.泥仕合の経済レース

本来、文明が発達していけば行くほど、働くべき人の数は減っていって然るべきだと思います。

でも不思議なことに、お米を作るのに機械を使うようになって、機械を作るのに機械を使うようになって、人口がどれだけ増えても、まだ全員が働くことになってる。

全員が切磋琢磨することは多様な価値観と際限ない欲望を満たす行為だから文明の発展にとって全員が欲望むき出しでレースすることは重要だという点は否定できないけど、各国の文明社会って既に飽和状態じゃないだろうかとも思う。

仮にまだ鎖国中で、国内だけで成長しなきゃいかんって状況を考えたらもっと貪欲に文明の発展を追い続けなくちゃいけないって思うけど、もうこれだけグローバルとか言ってるなら、医療だろうがテクノロジーだろうがなんだろうが、最先端にいる人は既に国境を越えている訳で、これ以上の進歩は世界レベルの偉業な訳です。

国内で切磋琢磨してコンビニ弁当の質が若干ずつ上がることにそれほどの意味があるだろうか。

成長と言えば聞こえはいいけど、なんだかもう単純な駆けっこって言うより、ルールを変更する合戦になってはいませんか。

ゴール目指して最速ダッシュでダーッと走ってたら、「今日からゴールはこっちだよ」とか、「知ってた?これだるまさんが転んだだったんだぜ」とかって感じで、何が勝ちなのか決めたもん勝ちみたいなセコイ泥仕合になってないか。

そんなもんに巻き込まれる一般大衆はたまったもんじゃない、それで社会は厳しいんだぜとか言われてもですね、だから自分たちで作り上げた厳しいルールが好きなだけじゃないのかな、って。

4.僕らの欲に際限はないから大丈夫

そろそろ結局何が言いたいのかって話なんだけど、最初から一貫して僕は「人が人のために動くことはやめないけど、経済活動はしてもしなくても良くなる日が来るんじゃないか」ってことが言いたかったのです。

そして人が人のために動くというのは若干嘘で、誰もが自分のために動くことが人のためになってしまう世の中が理想的なんじゃないかってこと。

だって僕がここまで長々と書いてきたのは、結局人は欲も我も強くて、欲を満たすためのプロセスとか思考回路に違いがあるだけだってことだから。

いくら世のため人のためと言ってみても、お客様の喜ぶ顔見たくてとか言っても、絶対何かの欲求を満たすためにほとんどの人は動くものだろう。そんなの当たり前なんだしじゃあそれを認めたらどうかなという話です。

自分が自然に楽しく生きて、好きな人と仲良くして、暇つぶししてれば、別に意識してなくても誰かに求められたり誰かを求めたりする関係性が芽生える。

暇つぶしったってゲームとか漫画読むとかに限りません。自分で食べ物作るって楽しいだろうし、小説書いたりすんのも楽しいし、って挙げてったらキリないけど、難しいことほど楽しいと思う。そして難しいことしたら見てほしくなるし、褒めてほしくなる。

だって僕ら普通にしてたら80年くらい生きなきゃならないんだよ。難しいことやってこりゃ100年あっても無理だわってことに挑戦しないと暇で暇でやってられない。それこそ仕事は難易度高いから良い趣味になる。

暇は多様を生むはずです。好みってそれぞれ違うから。

食べ物の素材を作る人もいれば、料理を極める人もいる、小説書く人もいればそれを評論する人もいる。もちろん創造性には無縁という人もいるから、好きなものをピックアップして楽しむだけの人もいて、創作者にとってはそういう人の評価が何より大事になったりする。

これだけであらゆる分野は自然に切磋琢磨されていくから、仕事とか社会とか、競争とか勝ち負けにこだわらなくても人の営みは勝手に成長する。なぜなら食べられる量に限界はあるけど、僕らの欲望に際限がないから。

3.お金がなくても楽しく生きられる

そしてここまで考えれば、最初の「普通の生活の保障」って別に国に頼らなくてもよくなるんじゃないかって思えるようになる。国の一括管理となるとやっぱ完璧であればあるほどディストピア感が出るからね。

じゃあどんな風に文明の発展が普通の生活の保障に繋がるのかって言うと、やっぱり暇だからです。暇だから、放っておいたら勝手にこだわりの食べ物作る人ができて、家とかだって作る人出てくるだろうし、服だってデザインする人、縫う人が出てくる。

出てくるっていうか今の段階で日曜大工とかDIYの域越えて独学で家建てちゃってる人いるし、農業ブームみたいなところあるし、服だって自作してる人いっぱいいるんだから時間があったらもっとするし必ず増える。そしてそれだけノウハウは溢れる。

手作りの力がこもった贅沢品がほぼ無料で簡単に、とは言わないけど志せば手に入るようになる。

いやでも直接交換とかってやっぱ無理あるよ?安定供給は必要よ?となるけど、それはもちろん残ってる。大型チェーンで超安いものになるだろうしブランド的なものではないだろうけど、国がちゃんと最低限のは確保してる。だから無難に手に入れるものも安く済むし、こだわりの食材を得ようと思っても、てかその方がうまいのに安く上がるって不思議なことが起こる。

そうなれば素材とか作業スペースとかの都合で、田舎の方が有利なこといっぱいあって、だからこそ田舎ブームになったりしてるんだろうけど、そうやって人が散らばっても、あらゆる情報や知識やスキルはコンピューターネットワークが繋いでくれる。

あらゆる知識体系がネットワーク上に備わっているから、あらゆるコストはかからなくなる。

だって布余ってるんだけど誰かいらない?って言えば、遠く離れた人がいるって言う。

それで服ができて、だれかが着る。同じノリで家余ってるんだけど誰か住まない?ってことにもなるかも(もうなってるけど)。

流通やエネルギーに関してはまだお金がかかるから保留だけど、ドローンの進化とかエネルギー問題の大解決に期待できるかもしれません。自家発電の研究する人も出てきて、ノウハウが公開されて、みんな自分家の電力なら余裕で賄えるようになるかもだし。

もちろん念のために繰り返すけどこんなの全国一律でそうなるとは思えません。所詮自給自足とかシェアとかだってブームだろうし。

だから今までみたいに普通の仕事も全然あるし必要だろうと思う。だからそこは趣味の世界で、どこに属するかっていう問題。経済活動をしたい人はすれば良いし、そうじゃない人は趣味に生きるなり恋に生きるなりすれば良い。

時間がある人は子育てとか高齢者のお世話とかもできるよね。こうなれば国の保障はやっぱ最低限で良いよね。

2.自国の自信みたいなのも欲しいんだ

お金の使い道は常にあるけど、なくても全然楽しく豊かに生きられるというシチュエーションを今よりもっと社会が認めるかどうかという話です。

認識の上で社会にはそれくらいの幅があっても良いんじゃないかってことを言いたいのと、仮に経済活動の重要性が乏しくなって全員が働くことを志さなくなったとしても、世の中は世界の発展に伴って勝手に発展するどころか、それで成り立つ国なのであれば、日本の魅力が増すんじゃないかとすら思う。

あの国はなんで成り立ってんの?って思われたら強いですよ。それこそ観光でもなんでもやろうとしたら阿らなくても済むくらいには。それこそ基本的に礼儀正しくて奥ゆかしくて職人気質で凝り性で信頼できるという日本人像が幻となりつつある昨今、みんな遊んでるだけで国が回るジャパンってマジでキモいな良い意味でってなったら面白いよね。

日本に来た外国人が、「マジであいつら遊んでるだけだったよ。真剣にね、だからどこに行っても楽しいんだ。しかも多分小さい島国だからできるんだよなああいうこと」って言うようになるかも。そしてそれって僕らこそが感じるべきものだと思う。

それができてこそ「成熟した社会」の名に相応しいと思うし、文明発展の意味があるんじゃないかなと思う。

1.距離に応じてお礼を変えれば良い。遠くの人にはお金で、近くの人には何かで。

あと、もうこんだけ長くなったから遠慮なく書くけど、モノづくりだったら3Dプリンタの発展も見逃せない。

これが発展して、素材まである程度限定できるようになったらすごいです。石膏、プラスチック、木材、鉄、もっと細かく素材が指定できるようになるとも限らない。つまりあらゆる物体はプリンタ上で再現できるということになれば、距離の障害がゼロになり、流通のコストも一瞬でゼロになる。

必要なのは設計図データだけだから、創作者のアイディア一個で済んで、誰もその場から動かずとも好きなものを手に入れることができる。

ちょっと怖いけど食べ物だって作れるようになるかも。サプリメントくらいなら割と出来そうだし抵抗もなさそう。

いややっぱそこは人の手だろって人も絶対いるけど、そういう文明の利器を使うのはあくまで距離的な制約があるときで、基本的には直接やりとりできる距離でいろいろ済めば良い。

だから人間は近くの人と仲良くすることを学び、人の役に立つことを学び、求められて嬉しいとか欲しいものを探す喜び、人に感謝する喜びを知れば良い。

コミュ障の人はこうやってブログ書くみたいにネットワーク上に生きてスキルやら知識やらを開陳すれば良いし、欲しいものはネットで注文すれば良いし、誰か遠くの人の役にたったらそのときは直接お礼ってことにもならないし、ちょっとお金とかで清算すれば良いんじゃないか。

そういう意味で経済活動はしてもしなくても良い。お金はあると便利だし、その手段はいくらでもあるけど、強いて稼ぐ必要はなく、あるとちょっと嬉しい程度の存在になれば、例えばお金に汚い偉い人がいろいろセコイことしてようが、まあいいけどさ別に、でもなんでわざわざお金得るためにそんな面倒なことすんだろう、昔の人だから仕方ないんじゃない?って状況になって、くだらないニュースで時間が潰されることもなくなる。

他人が私欲を満たすことに鷹揚になれば、少なくともお金の問題で血眼になることはなく、逆説的な考え方だけど厳しく糾弾しなければお金を誤魔化したり大ばくち打って大金をせしめようとする人もいなくなる。それだけの価値がないんだから。

てか国の頭たる国会みたいなところだってそうです。どうやって儲けようとかどうやってメンツを守ろうとか余計なこと考えないで、何かテクノロジーの進化や大発見があったら教えてもらえるように、もしくは聞いてもらえるように他国と仲良くすることを考えれば良い。日本に見せたらどんな反応するかな?ってワクワクさせる国になれば良い。簡単に言うようだけども。

でもそれに必要なことは義務教育で十分に習うことで、いわゆる社会の厳しさはもう必要ない、と僕は思う。

0.直接社会と関わるアイディア、もしくはお金

でも一般生活レベルならこれで良いけど、技術や科学の発展にはやっぱりお金が必要でしょう。それこそドローンの進化とか3Dプリンタの進化とか、ゲームのソフトとかあらゆるプロダクトの開発にはやっぱりお金がかかるものなんじゃないかと思う。

規模がでかく、行為が深くなればなるほど、お金は必要なはず。そのレベルまでお金かけないで済まそうとする想像ができない。

そういう必要なところにお金がわんさか集めるためにも、一般生活レベルでお金はそんなに必要ないよねって感じになれば良いと思う。応援する分野に投資するという方法で文明の発展に貢献できる訳で、よりお金を使うことで社会に貢献してるって実感が湧くと思う。

それこそファンの企業があれば、お金の投資でもなく仕事というわけでもなくそこにデザインアイディアを送って、これ作ってください!って言っても良い。ゲームソフトだったらシナリオとシステムのアイディアを送るとかね。

企業は少人数で頭捻って次のブームは…とか考えなくても、ファンが直接こういうの作ってくださいって言われたのを作れば良いからよっぽど効率良さそう。

企業もクラウドファウンディングが普通になって、今度ファンから要望あってこういうの作ろうと思うんだけど○○円必要なんですよね。協力してくれませんか、ってやればそのアイディアがどの程度の層に響くかもあらかじめ分かるし、株主とかじゃなくてファンからの資金を募る訳だから資金集めの成功=開発の成功になる。しかも作ったらすぐファンには安価で届けられる。

問われるのは吟味のセンスと、プロダクトの過程が現実的かっていう企業ならではの蓄積された判断ノウハウで、社会との関係性で言えばやっぱりここでも消費者との距離が近くなり、作る側も貰う側もより個性的になっていく。個性が活かされやすくなる。

というか小さい会社とかベンチャー企業とか、もしくは個人でアイディアはあるけど資金が…ってとこは既にそんな感じでしょう。そしてその方がずっと魅力的だったりキャラクターが尖った感じになってるんだとしたら大企業も小型化したい気分になるんじゃないか。

だから繰り返すけど経済活動自体はいつまでも健全で良い。お金が不要って言ってるんじゃなくて、お金はあってもなくても良い、あったらできること、なくてもできることという感じに分けていけば、お金が持つ余計な権威(持ってれば持ってるだけ幸せに違いないみたいな印象)が減り、もっと道具的に(必要な分だけあれば良いという風に)扱えるんじゃないか。

そうなったら、なんかちょっと前進する気がするし、生きやすい人が増える気がする。

最後に

まったくまとめずに思いついたこと、今まで見聞きしたこと、一直線に並べて書こうと思ったらこうなりました。17000字くらい。

好き勝手書くのはわりと簡単で長さ関係ないんだけど、読んだ人すごい。ありがとうございます。

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