言葉にする、言語化することは、基本的には物事を矮小化することだ

自分で考える創作論

言葉にする、もしくは言語化する、ということは、基本的には物事を矮小化することだと思います。

例えば、謎の体調不良に見舞われた経験は誰しもあると思うのですが、原因が謎な状態のときってめちゃくちゃ怖くないですか。

どうしてだか身体に力が入らないとか、何となくお腹の調子が悪いとか、頭がズキっとするのを繰り返すとか、その程度の不調は日常茶飯事なんだけど、はっきりとしていないからこそ妄想が膨らんだり、大きな病気なんじゃないかと思って怖くなることってありますよね。

で、実際に何らかの病名を言われたらホッとしたり、それだけで良くなったりしたことありませんか。

病名じゃなくても「ああ、相当肩がこってますね」って言われたりするだけで「確かに肩こりは酷いな、この頭痛はそのせいか」って思った瞬間になんか楽になったりする。

これって、事態が矮小化したってことだと思うのです。病名が付く、原因が分かる、つまり言葉で理解できるサイズに収まる。よってそれまで抱いていた大それた妄想がギュッと固まって、大したことないことになる。

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「恋」は矮小化されているか

病繋がりでもう一つ例を挙げるとすれば、「恋」なども「恋」という言葉があてがわれていないときの方が巨大ではないでしょうか。

あまりにも人によると思いますが、人を好きになって、その人に触れて楽しくなったり悲しくなったり、世の中がキレイに見えたり不穏に渦巻いて見えたり、物事を知らないときというのは往々にして、地球規模で物事が変化するように感じるものだと思います。

それに「恋」という言葉をあてがわれたとき、急に感情のすべて、経験のすべてがその言葉に収れんしていく。

これも、言葉によって物事が矮小化されることだと思う。

しかしこう言えば反論したい人も出てくるはずです。「恋」はむしろ、恋であると知ったときから気持ちが強くなるぞ、というようなことです。

「具象」と「概念」

確かにそう言われてみればそうかもしれませんし、アニメやドラマなどの物語においても「恋」に気付いた瞬間から相手を強く意識しだすという描写がよくある気がします。

矮小化するというのは、あくまでその言葉にあらゆる感情が収れんしていくということで、必ずしも小さく感じるとは限らない、ということでしょうか。

病気の場合は恐怖や不安が「病名」や「原因」に収れんしていく。すべて一つのことで説明できるから感じ方としては小さくなる。

恋の場合はあらゆる経験や感情が「恋」という文字に収れんしていく。この場合、四次元ポケットを手に入れたような感覚でしょうか。だから感じ方としては大きくなる。

この二つの出来事を分けるとすれば、「具象」と「概念」の違いでしょうか。

ここでちょっとまとめ

こんな小難しい話をしたいわけではなかった。すこしまとめます。

言葉にする、言語化するというのは、基本的に物事を矮小化することだ、という始まりでした。

矮小化するというのは「入れ物」を手に入れるということでしょう。単純に何もかも小さくすることではない。

これはどういうことかというと、物事を「具象」と「概念」に分けるとすれば、具象は容量が決まっているからこそ物事が小さく感じられて、大きな効用としては「理解」に繋がる。

一方「概念」は容量がとても大きな、四次元ポケットのような入れ物だから、持ち運びやすくはなるけれど実感としては大きく感じたり、強く感じたりする。大きな効用としては「行動」に繋がるのではないでしょうか。

なぜなら、その言葉一つ持っていることで「動機」となるから。「恋」とか「愛」とか、そういう言葉を知っているからこそ、僕らは様々な場面でそういう概念を指針にした行動を取れるのではないかと感じます。

本題:僕らが物事を言葉にしたり、言語化することで目指すことは何なのか

さて本題に入るのが遅いのが僕のブログの悪い癖なのだけど、考えながら書いてるからこうなるのですね。紆余曲折や脱線や無駄がありますが持ち味だと思って許してください。

本題というのは、じゃあ、僕らが物事を言葉にしたり、言語化することで目指すことは何なのかということ。

僕は小説を書く。小説を書くというのもやはり物事を矮小化することだと思う。歌もそうだと思う。言葉を扱う以上、やっていることは基本的に物事を矮小化すること。基本的には物事をはっきりさせるためのものだろう。

だけど不思議なことに、小説を読んだり、歌を聞いたりして、ものすごく大きな感覚に出会うことがあります。ありますよね。

例えば小説を読んでいると「時間がゆっくり進んだり巻き戻ったり、反対に早送りする」感覚に陥ったり、音楽を聴いていると「大柄な風が吹きすさぶ夜の草原に立っている(やけに具体的だな)」ような感覚に陥ることがあります。

そういう感覚に陥ったとき、「これは良いものだ!」という風になります僕は。

それは物事が矮小化されたものに触れたときとはまったく反対の経験です。漠とした名づけようのない感情に晒される経験であり、言うなれば、矮小化されたはずの出来事に触れて分からないことが増える経験です。

なんでしょうかねこれ。「言葉にする、言語化するということは基本的に物事を矮小化することだ」ということそのものが間違っているのでしょうか。

 

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言語化は宇宙に「果て」を設定すること

いや、良い創作というのは、つまりそういうことなのではないかと思うのです。

分からないことが増える経験を人に与えること。

例えば宇宙の果てを想像させて、その先はどうなっているのか、という疑問を突き付けること。

考えたことがあるでしょうか。宇宙に終わりがあるとして、最終的な境界線、ここで終わり、というラインがあるとして、じゃあその先は何?と考えたことが。少し怖くないですか。「あれが宇宙の果て」と誰かが決めたとして、その先の虚無はじゃあ何。僕らの知ってる宇宙と何が違うの?

僕らが物事を言葉にする、ということはつまり、「宇宙の果て」を人に思わせることだと思うのです。

宇宙に「果て」を設定することで、つまり宇宙を矮小化することで、宇宙というものは少なくとも脳内で持ち運べるサイズになるかもしれない。つまり、言語化するということは物事を矮小化すること。

だけど、それは同時に「それ以外」をクリエイトすることでもあって、その部分に想いを馳せさせることが言葉を扱う人の目標の一つなのではないでしょうか。

言葉を与えられた瞬間、同時にその先や、それ以外を思わせること。自ら考えたり、想像したりせずにはいられなくさせること。知らない感情に翻弄されたりして、自ら名付け親にならなければ気が済まないような感覚に陥らせること。

優れた小説や、優れた音楽に触れるとこんな気分になる。「言葉にならない」ってヤツ。グアー!って気持ち。

それを誰かに感じてもらうことを達成するためには、めちゃくちゃな言語能力と感性が必要になると思う。

 

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