体験と言語習得/猫なで声ってどんな声?優しい人ってどんな人?

言葉は知っていても、それを自分のものにするのは容易なことではありません。

外国語を勉強すれば分かる。

例えば僕たちは英語の勉強を中学生くらいから始めたと思うけれど、習ったことを日常で使いこなすのは難しいと感じている人が大半なはず。

それは、言葉を知っていることと、言葉が自分のものになっていることの間にすさまじい距離があるから。

「can I have~」を使えばお店での注文が出来たり、「I am going to~」で近未来の予定が表せたりできることは頭で理解できていても、いざ口に出すときに躊躇してしまうのは、その言葉が本当に意味を持っていて、それが本当に伝わるものなのだという実感にいまいち欠けるから。

言葉が実感を伴った肉になっていないから、自信を持って話すことができない。「あ、本当に通じるんだ。本当にみんな使う言葉なんだ」って実感して初めて、普通の自信を持って話すことができるようになる。

それは意外にも、母国語である日本語でもあることなのです。

意味は分かっているけど実感のない言葉。そういうものは意外にたくさんある。

そして、日常会話ではあまりないけど、文章になってしまうとそういう「意味は分かってるけど実感のない言葉」をやたらめったら使ってしまうことがあると思う。だから気を付けなきゃねってことを書きます。

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猫なで声ってどんな声?

例えば「猫なで声」という言葉は当然知っているけれど、僕は猫を飼い始めて、その猫に話しかけるときの自分の声を聞くまで、「猫なで声」を理解していなかった。

はっ!今僕が出したこの声が猫なで声か!と気づいたとき初めて、僕は「猫なで声」という言葉を獲得し、自分の言葉として扱うことができるようになったのです(※撫でられている猫が甘えて出す声のことを猫なで声っていうのが正式らしいけど置いといて欲しい)。

反対に言えば、それ以前の僕が何かの文章で「そのおじいさんは猫なで声で言った」みたいなことを書けば、それは少なからず嘘になる。

もちろんだからと言って実感のこもった言葉を使ってるかどうかにそんな目くじらを立てることではないかもしれないけど、例えば小説のような形式のものを書いていれば、小説らしい文章を書きたいがばっかりに、文章に対する誠実さを欠いてしまうことがある。

わざわざ難しい風に言ってしまったり、安易な比喩や慣用表現で濁してしまったりする。必ずしも悪いことではないけど、実感のない言葉を並べてしまって、すらすら書けたと思ったら、まだ苦しむ余地がある。

「彼は風が吹きすさぶ丘の上で暴れまわって慟哭した。その声はたちまちかき消されるが、風が気まぐれに歩みを緩める間隙を縫って私の耳まで届いた。踊るように泣く彼を見て、私の心は張り裂けそうになった。声を聞けば自責の念に駆られた

なんともとって付けたような文章になり、血が通っていない文章になる。それは実際にとってつけた文章だからだし、僕がいまいち獲得できていない言葉を並べたから。

でもそんなこと言ってたらチープな表現しかできないだろうし(彼はすごく悲しそうだった。めっちゃ泣いてたし、感情のやり場がないようで、ばたばたと暴れてた)、お前の言う「獲得できてる言葉」なんて分からないよ、という話ですよね。僕だって自分で言ってて無茶言ってる感じがする。

だから僕が言いたいのは雰囲気や勢いで知ってる言葉を並べて、それっぽいことを書いてる気がしたら、もう少し疑ってみて、簡単な言葉でもせめて辞書を引いてみるとかくらいはした方が良いんだろうな、ということ。

「知ってる言葉」と「自分のものになってる言葉」には違いがあって、できるだけ自分のものになっている言葉で表現できないか?を探す努力は必要なんじゃないかなってこと。

優しい人ってどんな人?

もう一つ例を出します。

「優しい」って僕らよく使うけど、その言葉の意味を実感したときの話。

あれはオーストラリアのあるバックパッカーズに宿泊していた頃でした。

表のバス停のところで、何人かが輪になって座り込んでいました。

あの人たちどうしたの?と近くにいた人に聞くと、「あの子のお父さんが亡くなったんだって」ということでした。

その子の身になって考えるとぞっとしました。異国で家族の訃報に触れるなんて残酷すぎます。すぐに駆けつけられないのも苦痛だし、楽しく気ままに旅をしていた自分を責めたくもなるでしょう。

おそらく、そこで輪になっていた友人みんなが心から同情したのだと思います。

帰国するためにバスを待つその子の周りで座り込んで、文字通り悲しみに寄り添っている。

ああ、みんな優しいなあと思ったとき、そういえば「優しい」って漢字は「憂いの横に人がいる」なあ、なんて考えてしまった僕は不謹慎だけど、初めて優しい人ってどんな人なのかが分かった気がしました。

正しさとは別に、実感のある言葉かどうか

色んな「優しい」があるかもしれないけど、確かに、本当に悲しいときとか悩んでるときは、誰かに何かをして欲しいというよりは、ただ傍にいてほしいものかもしれません。

「そっとしておく」という選択だって優しい人の行動かもしれないし、日本ではそっちの方が主流な気はします。

だから悲しい人の傍にべったりとくっついているその人たちが少し不思議にも見えたけど、確かに僕はあのとき彼らを見て「優しいな」と感じたし、今後そういう「優しさ」を扱えるようになりたいと思いました。実生活でも、文章上でも。

で、結局何が言いたいのかというと、僕みたいに活動的でなく、引きこもり体質で文章を書いたり読んだりするのが好きという人でも、仮にも言葉を扱うのだとしたら、自分が使える言葉を実感するというのは大切だろうということ。

だからと言って、「何でも自分でやってみなきゃ」とか、「まず経験してこそだ」みたいなことを言いたいのではありません。

それには限界があるし、「やってみること」や「経験」が目的になってしまったら、実感に至る前に理解してしまう。僕らは小賢しいのです。

だから、どれだけ簡単な言葉でも「これ本当に知ってる言葉かな?」って疑う癖みたいなものを身に付けたいよね、ということ。

また、「猫なで声」の例のように、言葉としての「辞書的な正しさ」だけじゃなく、自分が納得できる実感としての言葉を獲得できるのは貴重な機会だと思う。

「優しい人」がどんな人なのかは辞書で引いて分かる意味よりずっと幅広いだろうし、人によっては「父に散々殴られた記憶」と「優しさ」が結びついてるかもしれない。

それはなんか心配になってしまうけど、実感の伴った言語感覚なのであれば否定できない。

僕らはそれぞれ色んな見方や経験や感じ方があって、それらをある程度分類してまとめて、共通の概念として記号にしたものが言葉なんだ。

僕が優しいと感じる人と、彼が優しいと感じる人の姿は違うかもしれない。「優しい人」を書こうとしたとき、僕と彼とではまったく正反対の人物像になる可能性がある。

実感の伴った言葉で書けばこそです。

安易に「辞書的な優しさ」を持った人を書いてしまえば、血の通っていない人間しか書けなくなる。そういうのは怖い。だから言葉を自分の血肉にできる機会は逃したくないなと思う。

体験と言語習得/猫なで声ってどんな声?優しい人ってどんな人?(完)

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