手紙は小説になりえるか?

面白い小説が読みたいという欲望は、面白い小説を読めば読むほど激しくなっていくものだと思う。

しかし、面白いと思う小説と出会う確率はそれほど高くありません。

自分に合わないものや、自分ではまだ理解できないものがたくさんあるから。

すべての本はきっと面白いんだろうけど、こちらの感受性には限りがあるので、すべてを面白く感じることができないのです。

きっと、100冊読んで、今の僕が理解できてずっと心に残るほど面白いと感じられる作品は5冊程度なのかなと思う。つまり5%。体感的にはそれほど心から面白いと思う作品に出合う確率は低い。

それは読む力の低さの表れでもあるんだろうけど、今まで出会った人の中で親友とか運命の人と呼べる人が限りなく少ないのと一緒で、当たり前のことなのかもしれません。

だからこそ人は一度面白いと思った作家の本を読み続けるのだろうし、再読したりするんだろうな。

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そんなことを考えているうち、僕が絶対に面白いと思う、僕のために書かれた本があったらすごく贅沢だなと思いました。誰かが僕のために小説を書いてくれないかなと。

あれでも待てよ、誰かが僕のために小説を書いたとしたら、それって「手紙」とどう違うんだろう。僕に宛てた文章であれば、それがどんな内容であれ、どれだけ長くたって、手紙、もしくはもっとドライにメッセージと呼ぶべきもので、感覚的には小説と呼ぶのには抵抗がある。

それは何故だ?というのがこの記事で考えたいことです。

僕は「小説」をどういう風に捉えているのだろう。

「小説」を構成するレシピはなんだろう。

それを考えることはきっと「小説」を書く上で役立つに違いない。ほんとか?分からないけどとにかく考えてみる。

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小説ってなんだ?

小説の起源とか定義って話をしたい訳じゃないけど、普通に辞書引いて「小説」とは何かを調べてみます。

①「漢書(芸文志)」「小説家者流、蓋出於稗官、街談巷語道聴塗説者之所造也」市中の出来事や話題を記録したもの。稗史。

②(坪内逍遥によるnovelの訳語)文学の一形式。作者の想像力によって構想し、または事実を脚色する叙事文学。韻文形式だけでなく、語り手が物語るという形式からも自由となった、市民社会で成立した文学形式。古代における伝説・叙事詩、中世における物語などの系譜を受けつぎ、近代になって発達、詩に代わって文学の王座を占めるに至った。(広辞苑第5版)

①の方 は? って思いますよね。僕だけ?

小説家者の流は、蓋し稗官に出ず。街談巷語、道聴塗説の造る所なり。

小説家の一流は、稗官(ハイカン)から出たものであろう。通りや横丁で話をとりかわし、道で聞いたことをそのまま道で話すようなものたちの作ったものである。(参考 『中国小説の歴史的変遷』)

なんか、あんま参考にならなかったですね。

こうじゃなきゃ小説じゃないとか、小説の定義みたいなものが分かるワケではありません。

そこらで話されてる噂話の集めたものだって小説って言って良いし、それが事実かどうかはどうでも良い、という程度の、まあ僕らが普通に認識している「お話し」のことですよね。

手紙は小説じゃないと感じるのはなぜか

仮に、誰かが僕目がけて小説を書いて送ってくれたとしたら、それはもう、手紙じゃないか?

手紙は、どれだけ内容が小説っぽくても(原稿用紙に書かれてたりしても)、小説ではない気がする。

いや、内容があくまで小説ならそれは小説で、むしろそれは手紙じゃないと言うべきなのか?

この、手紙と小説の違いはどこにあるのでしょうか。

特定の個人に宛てられた小説が小説でないのなら、文学賞に応募するときに選考委員の誰かの好みに合うように工夫したりするものは小説じゃなくなってしまう。それは乱暴だと思う。

なんかややこしくなってきちゃったから、こう考えてほしい。

20万字にも及ぶ長い手紙が送られてきたとして、それは小説か?

だいたいの人は、「内容を見て見なきゃ分からない」と言うと思う。

でも僕は思う訳です。

なんで内容を見たら分かると思うの?

それって、「小説はこういうものだ」っていう定義みたいなものをみんな実は知ってるってことじゃないか?

小説は自分に関わってはいけない?

なんかわざわざややこしいことを考えてしまった感があるけど、その文章が小説かどうかっていう定義は比較的明確で、それは自分の実生活や現実に関わっているかどうかだと思うのです僕は。

こう、送られてきた文章を見て、自分に実生活に関わりのあることが書かれていれば、それは手紙。少なくとも小説ではない。

私小説みたいなジャンルもあるから微妙だけど、小説は読んだときに自分の実生活に関係があると感じちゃいけない。小説は自分事ではなく、他人事でなければならない。

もちろん割合の問題で、現実に存在する「ある場所」を舞台にした小説もあるし、実名が出てくるものもあるだろうけど、全体はあくまで想像上の出来事で、作者の思想を通して、事実が脚色されたものでなきゃいけない。

手紙は、架空の自分でもなく、仮初の自分でもなく、紛れもない今生きている自分の実生活に向けて書かれています。例えばそこに自分の話題が書かれていなかったとしても、それが手紙なのだとしたら、自分に向けて書かれている。

同級生の誰それが結婚したとか、誰それの親が亡くなったみたいな、直接自分の人生には関わらない事柄であっても覚えておかなくちゃならない情報なのだから、それは自分事。

小説は、忘れ去っても良い。あくまで無責任な立場から眺められるものである必要があると思います。

小説は役に立つこともある。役立てようとするとうまく役に立たない。

でもでも、自分の心に響く小説とか、のめり込む小説って、まるで自分がそこにいるかのような錯覚を抱くことがあって、それがいわゆる「好きな小説」になりますよね?僕で言えば今まで読んだうちの5%の作品には、少なからずそういう部分がある。

よく聞く話だけど、「この小説を読んで、なんで僕のこと知ってるんだ?という気持ちになりました」なんて感想を持つことが、本を読んでいると確かにあると思う。

ここが微妙なところで、「まるで自分がそこにいるかのような錯覚」を起こさせる文章であることと、「自分のことが書かれている」文章であるのとでは、全然違うということ。

あくまで役に立たないのが小説で、僕らの人生に直接関わってしまう物語はただの現実の一部。

ここでさらに疑問に感じるのは、「でも、小説を読むことで実生活が豊かになったりするよね」ってこと。

なぜ僕たちには物語(フィクション)が必要なのか

役に立っちゃってるし、実生活に関わってる。これを根拠に人に読書を勧めたり、これを動機に読書に勤しんだりする。

これも割合の問題で、小説は実生活に食い込むこともあるだろうけど決してそれが主にならないということだと思う。

ただ眺めていればいつかのときに役立つこともあるけれど、役立てようとするとうまく役に立たないのが小説なのではないかな。

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