多様性や個性が云々される機会が多くなるに至って、「自分らしく生きる」というテーマが掲げられがちなように思います。
「自分らしく生きる」というのは大事なことのように思うし、僕も自分らしく生きたいと願うけれど、願えば願うほど馬鹿馬鹿しくなってくる話でもあります。
それはどうしてかというと、「自分らしさ」なんてものはそもそも存在しないと思うからです。
「自分らしく生きる」って言い方を変えると「自己認識に合致した自分が満足する生き方」をするという程度のことでしょうか。
自分はこうなんだ!って勝手に定めた自分、自分はこんな人間のはずだ!と思い込んだ自分像に沿うような生き方をする、という感じ。
じゃあ、その自己認識って一体いつ芽生えるのでしょうか。
自分はこうなんだというところ。例えば私は○○が得意であるとか、真面目でコツコツとやるタイプだとか、こういうタイプの人とはそりが合わないとか。
自己像は学習の連続によって形作られるものであって、様々な経験と結果によって少しずつ醸成されていくものなのかもしれません。
うまく行った経験、褒められた経験、結果的に良い想いをした経験を選び取って、成功体験として記録したパーツを寄せ集めて、自分らしいと言うのではないか。
ということは、自分らしさというのも他人に与えられるものなのではないかと思うのです。
それはつまり純粋な自分ではなく、あくまで他人を通してみた自分の鏡像なのではないか。
キャラクター志向
これは向上心の言い換えでもあると思います。自分はこうなのだ、こうあるべきなのだという理想像を思い切り追いかけるための、意識的な価値観の限定です。
ところが、自分らしいことをするということは自分らしくないことはしないということでもあって、そこに至ると自分らしいことをするという向上を志す自分とは裏腹に、単純に嫌なこと、気が進まないことはしなくてよいと自分に許す、という捉え方もできるようになる。
つまり、自分らしく生きるというのはパワーバランスの振り分け設定を極端にしますよ的な宣言であり、これをさらに言い換えると、「キャラクター志向」なのかなと思うわけです。
例えばRPGでは様々なキャラクターが出てきて、多くの場合「育てる」ことができます。
キャラクター性が固定されているものもあれば、アレンジ可能なゲームもあって、もちろん後者の場合、かなり自由にキャラクターを育てることができる。
このとき、ある程度「その人らしさ」を参考にすると思います。
例えば、幼いいで立ちだったり腰が細い華奢な女性であれば術をたくさん覚えさせて魔術士として育てようと思うし、無骨な男性であればあえて術や魔法は一切覚えさせずに剣技を磨いて筋肉バカみたいに育てようとする。
たいていその人のイメージに似合う振り分けを行うのではないかと思います。そしてたいてい、似合うキャラクター性というのはそのキャラに設定された得意分野であることも多く、想定される育て方をされたキャラクターはめきめき頭角を現すようにできているように思います。
無骨なキャラクターは魔法や術の威力が弱かったり、上達が遅かったりするということ。
これは客観的に見たゲームのキャラクターの話だし、たいていデフォルメされているので簡単なことです。
ところが、こと現実の、それも自分のこととなると、自分のキャラクター性というのは非常にあいまいです。
僕ら、相対する人によってキャラクターが変わったりするし、置かれた状況によって得意分野さえ変わったりする。
大学ではサークルを盛り上げていた陽気な人が、子どもと話すときは大人しくなったりすることはあると思うし、その反対もある。
いつも一貫して自分のキャラクター、つまり「自分らしさ」を貫ける人というのは、あまり多くないと思います。
設定や指針が欲しい僕ら
自分らしく生きるって結局なんなんだろう。
長所を伸ばし得意なことに力を注ぐということだろうか、それとも、できるだけ楽に生きるということだろうか。
もちろん、その状況によって解釈も変わると思います。自分を奮い立てるために内省した結果、こういうとき私はうまくいく傾向があるぞって分析ができて、それを頼るということもある。
一方でやりたくないことはできないし、やったって良い結果にならないし、やらない方が良いよね、私は私らしく感じたままに生きれば良いんだよねとやらない言い訳に使うこともあるはず。
いずれにせよ、僕らは「こうあるべき」という指針が欲しいのだと思います。
キャラクター志向とさっき言ったけれど、お前はこう生きろ、こう選択しろ、ということを、何だかんだ僕らは知りたい。自分はどうあるべきなのか、どういう期待を受けて、どんな期待に応えられるのか、そういうことを教えてほしくて仕方ない。
そういう側面があるのではないか。設定が欲しいんじゃないだろうか。
自分らしく生きるってなんだろう?(完)
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