『フルサトをつくる』を読んで③/田舎ならではの教育の意義

『フルサトをつくる』に

目指せニンジャ幼稚園――田舎ならではの教育を考える

という章があります。

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ニンジャ幼稚園の発想をヒントに

ニンジャ幼稚園ってなんだって思うだろうから例によって少し本文を引用させてもらうと

竹やぶから竹やぶに飛び移る遊びとかができて、園児が牛若丸のように身のこなしが素早い幼稚園とかあったら面白いのではないかと思う。

立地は平地だけじゃなく裏山も含めて遊び場になっているような地形がよい。

こういう話しがあると危ないからできない、無理、という話しになりがちだ。裏山で迷子になるという懸念があれば、GPS付きのバッジとかを園にいる間だけつけてエリア外に出ると警告音が出てくるようにしておけばリスクを回避できる。

様々な技術を活用すれば野放しではなく自由がある環境もつくれるのではないだろうか。

ここから考えるべきポイントは何なのかというと、当然ニンジャ幼稚園の実現可能性や魅力ではなくその概念です。

本文に書いてあることだけど、「教育」と言うと英会話とかって話になりがちです。

だけど資格とか特技とかって履歴書の欄に書けること以外にも学べることってたくさんあるし、むしろ生きていく上ではそっちの方が貴重だったりする。

咄嗟の状況でケガをしないとか、良い姿勢を維持するとかって一生モノの財産だし、それって大人になるにつれて衰えていく能力でもあるから早くに身に付けておいて損をすることでは絶対ない。

そういうものを自然に学べる場があると良いんじゃないか、なんか、例えば、ニンジャみたいな身のこなしの子がいっぱいいるような幼稚園って面白いんじゃないか、そうだニンジャ幼稚園だ!っていうような発想の流れがあるという話しです。

田舎だからこそこんな目的を持った教育もフィールドをフルに活かすことができて、サービスや英才教育というよりはより自然にそういった能力を享受することができる。

こうやって田舎ならではの教育ってものを考えても良いんじゃないかって章なのですね。

さらに引用した文章からもう一点ポイントを上げるとすれば、実現が難しそうだからと言っても、それは「やらない理由」にはならないということです。

理想があるのであれば、「出来ない理由」はよく考えて克服すべきことであって、避けるための口実にはならない。

「出来そうなこと」という条件を念頭に置いて考えると、思考は恐ろしく狭まります。

大は小を兼ねるというけれど、思考や発想も同じでしょう。

大風呂敷を広げればたくさんの「出来ない理由」にぶち当たります。実際にどうしても不可能なこともあるでしょう。

だけど妥協して考えるのと考えてから妥協するのとでは、非常に大きな差があるはずです。

目的のない教育

さて、それじゃあ田舎ならではの教育について考えるとして、僕が掲げる理想はなにか。

僕が朝日町で田舎ならではの教育を考えるとしたら、大きな理想は2点。

一つは、ただ教えられるのではなく、学ぶ姿をふんだんに見られる教育ということ。

この点について、詳しくは「学びにもセンスが必要だとして/田舎に必要な教育、学習についての愚考」を参照していただけたらと思います。

二つ目は、目的のない教育の場

今日の本題はこっちです。

教育って言うと大人が子供に与えるものって印象があると思うけれど、大人とか子供とかって区別に関係なく、「学び」ってすごく個人的なものです。

何かを教わったり経験したりしたとして、そこから何を学ぶかは人それぞれだと思う。

英語を教えたからと言って英語を学ぶとは限らないのです。

同じく、数学を教えたからと言って数学を学ぶとは限らない。
数学に神の姿を見出し、宗教学に目覚める人がいてもおかしくない。

文学を教えたからと言って文学を学ぶとは限りません。
文学から歴史を学ぶ、ならまだ分かりやすいしありそうだけど、比や構造の問題に思考を巡らせる人もいるでしょう。

それこそスポーツを教えたのに物理学を考える人もいるでしょう。

学問は繋がっているものだと思うし、本来区切りや枠はないものでしょう。

特に頭が柔らかいと言われる子供の脳みそならなおさら、教えたものを教えたまま学んでくれるとは限らない。

ここではこんな体験が出来るからこういう能力を養うことができますよとか、これは頭のこの部分を刺激するのでコミュニケーション能力がうんたらという、「目的を持った教育」はそれこそ既に「妥協した思考」だと僕は思います。

大は小を兼ねるのだから、学びも最初から小さくする必要はないでしょう。一つのことから何通りもの学びがあると言うのに、これをこういう風に学びましょう、こういう能力を磨きましょうと限定する必要があるのか。

例え幼くても人間一人の学ぶ余地や発想の爆発には際限がないのだから、その余地を初めから放棄してしまうのはもったいない。

塾やお稽古事がたくさんある都会では教育もサービスなのだから目的があって当然だと思うけど、だからこそ田舎は目的のない教育、際限のない学びの幅を提供できてこそ特有の価値が生まれるのではないかなと思うのです。

『フルサトをつくる』で挙げられているニンジャ幼稚園の例は身体能力の高い子がわんさかいる幼稚園ってコンセプトだから、言わばちゃんとした「目的のある教育」で、僕が疑問を呈するとしたらその部分です。

それって都会の体操クラブじゃダメなの?と問われれば「自然の中、広大なフィールドで」って部分が田舎ならではだってことだろうし、身体能力以上に自然から学ぶものはいっぱいあるということだと思います。

だからはじめにも言ったけど、考えるべきポイントはニンジャ幼稚園の実現可能性や魅力ではなくその概念。

田舎特有の教育っていうのを、各田舎でこんな風に考えると良いのではないかというところです。

学びの点では田舎の方が有利という理想

田舎ならではの教育を考える意義、田舎ならではの教育の理想としてもう一つ付け加えます。

それは、田舎特有の教育が本当に田舎特有なのだとして、それが価値あるものだとしたら、「子供が小さいうちは田舎の方が良い」って認識が一般的になるということです。

これは『フルサトをつくる』にも書いてあったことだから再び引用させてもらう。

子供が小さい間はフルサトで暮らして、ハイペースに仕事をしたくなったら都市に移動するというも選択肢になる。

こういうフルサトと都市の移動がスムーズにできるようになればだいぶ余裕のある社会になるのではないかと思う。

都会で子育てって本当に大変だと思います。

そもそも子育てが大変なんだから都会に限った話しではないけど、両親共働きで忙しくしてるし優雅に産休とか育休が取れる人ばかりではないから生活水準を維持しながら子育てをがっちりってやるのは本当にハードルが高いと思う。

その上幼稚園が足りないみたいな問題があれば大抵の場合お母さんは実質今まで通り働くなんて無理だし、預ける時間が長くなればそれだけコストもかかる。

というか仕事とかお金とかの問題ではなく、子供に寂しい思いをさせたくないとか、成長をつぶさに見守りたいとかって人情的な部分をないがしろにするしかないっていう選択肢の少なさが問題でしょう。

育てられれば良いって問題じゃないからね。

だからこそ田舎で子育てという選択肢はあって然るべきだと思うし、それがそれなりにメリットがあって(わざわざ選ぶ理由があって)、その選択が行き止まりでもなくてっていうシステムが必要だと思う。

その方法が「フルサト」を作ることなんです。

そしてその「フルサト」には、田舎特有の教育があって、そこで学んだ子がいっぱいいるというのは大きな理想です。

親にとってはインスタントな「フルサト」かもしれませんが、子供にとっては心から大事な経験や記憶が詰まった第二の故郷になるでしょう。

そんな子が各地にいるって、地方にとっては何より心強いことです。

じゃあ、具体的に朝日町ではどんな田舎特有の教育をするのかという具体的なアイデアについては、これからこのブログ上でゆっくり言及していこうと思います。

今回は、「田舎特有の教育」を考える意義について、思うところを書いてみました。

こちらもよかったらどうぞ↓

フルサトをつくるを読んで①/僕のブログはどんな人を見つけるのか

フルサトをつくるを読んで②/飽きない田舎ってなんだろう…。

フルサトをつくるを読んで④/フルサトに仕事をつくること

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