「創聖のアクエリオン」と「シャーマンキング」/地獄に流れる音楽と愛の詩

前回の記事から歌つながりで、もう一つ記事のテーマにしたいのがこれ。


『創聖のアクエリオン』の主題歌です。

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天国に流れる音楽と地獄に流れる音楽と

「君を知ったその日から僕の地獄に音楽は絶えない」という歌詞がすごく印象的。

歌は知ってるけどアニメ見たことないんだよなあ…。

それにしても「僕の地獄に音楽は絶えない」ってほんとよく出てきたなというフレーズですよね。

デペイズマンのお手本というか、ミスマッチの中でも特に想起される映像が美しく茫然とさせられます。

それにしても、この歌詞の凄さはそういう文学的レトリックの作用もあるだろうけど、なにより真実をついている点だと思います。

なぜなら、僕らはどうあがいても天国になんていけないし、もしかすると想像さえもできないだろうと思うからです。

どちらかと言うと、地獄に流れている音楽の方が現実に即しているような気がするのです。

文明が目指すもの

僕らの文明は、きっと天国を作ることを目指しているのだと思います。

悲しみも苦しみもない世界で、全員が日がな一日眠ったり歌ったりとにかくゆったりと、生きることを楽しめるような世界です。

だから機械を作り続けるし、医療技術は進むし、法を磨いているのでしょう。

だけど、いくら文明が進んでも、僕らが楽になることなんてありません。

僕らには良くも悪くも心があり、中には誰かよりも優れていなければ幸福を感じない人もいます。

例えば好きな人が一人いるだけで苦しむこともあります。

嫌いな人が近くにいればそれだけで苦痛です。

全員が満足する世界なんて、自分勝手な僕らには想像すらうまくできないのです。

それなら地獄の方がまだ現実感があります。

何も思い通りにならず、苦しいことや辛いことや悲しいことばっかりで、なんのために生きてるかよく分からないけどとにかく生き続けなければならない。何かの罰だと言われればそっちの方がしっくりきます。

だからこそ僕らはそんな「苦痛を一つずつ潰していく」という方法で「楽」を得るしかありません。

苦痛を選び、解決する。また選び、解消する。また選び、納得する。

嫌だと思う苦痛を選ぶのも、それをどうにかしようと思うのも、人の心です。当然、満足するのも。

だから、大切なことは心で決めなくてはならない。

シャーマンキングと天国と地獄の恐山

僕の好きな作品に『シャーマンキング』という漫画があります。

陰陽師の血を引く「麻倉葉」という少年が、シャーマン(霊能力者、呪術師)の王を決める戦いであるシャーマンファイトに挑み、シャーマンキングを目指すという少年漫画です。

久々に読み返したけど懐かしいなあ。

麻倉家では血統を絶やさないため嫁になる人は厳格に決められる(らしい)のですが、葉は10歳の頃にもう嫁候補がいました。

葉

その嫁候補に会いにいくという19巻、20巻のエピソード「恐山ル・ヴォワール」が特に好きなのでここは今までに何度も読み返しています。

嫁候補はイタコの「アンナ」という女の子。

イタコなので青森です。

僕はこのあたりの話がずっと好きだったから、青森にはずっと行きたかったんだよな。特に、作中主な舞台となった恐山には。

それでこないだ行って来ました。

それでって、いま青森に住んでる大学時代の先輩に会いに行くってのがメインだったんだけど、青森じゃなかったらわざわざ行かなかったかも(笑)ってくらい念願の場所でした。

恐山は作中に出ていたから何となく知っていたけれど、実際に行ってみると想像通りなようなそれ以上なような。

恐山には硫黄のにおいが立ち込めています。

ゴツゴツした岩肌に、死者を悼み詰みあげられた小石が小さな山をなしそれが連なり、あちこりにいる水子地蔵の周りには輪廻を表す風車。その殺伐とした光景はまさに地獄です。

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写真は入口のところ。進むと無間地獄とかあるけど写真撮り忘れた。

その先に続くカルデラ湖は打って変わってなだらかな砂地で、澄んだ水の色が向こうの山を映します。積みあがった小石の小さい山がそこにも並び、カラカラとなる風車の音にはそこが死に近い場所だという連想をさせられます。そういう意味では確かに天国のような場所かもしれません。

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極楽浜

この極楽浜の前に、石が積みあがってる「賽の河原」があった、んだと思います。区切りがよく分からなかったんだよな…。

賽の河原と言えば、親より先に死んでしまった子供がその親不孝の罰のため、親を供養する石塔を積み上げ続けなければならないという民間信仰があります。

積み上げて段々塔が高くなってきて、完成するかと思うところで鬼がやってきて崩してしまう。

恐山では賽の河原は天国のような光景で、石積みは死者を悼むために行われることのようですが、石積みはまさに地獄の苦行です。

その伝承は「賽の河原地蔵和讃」という詩として残っているようです。

一つ積んでは父のため

二つ積んでは母のため

三つ積んでは故郷の

なんてところはアンナもうたってたから見覚えあります。

アンナ

大切なものは心だ

ってのが『シャーマンキング』の、とくにこの嫁候補と会いにいくエピソードである「恐山ル・ヴォワール」のテーマなんだけど、幼い頃にはじめて読んだこの話のこのテーマが、良い大人になった今でもまだ新鮮。

むしろ歳を取ればとるほど、「大切なことは心で決めなくてはならない」ということの難しさと大切さが身に沁みるようです。

自分の進むべき道は心で決めなさい

そう言ったのは葉を青森まで連れていってくれた、もう千年も麻倉家に仕えているという猫の幽霊です。

マタムネ

可愛いわカッコいいわでドラえもんかマタムネかどっちかと友達になれるよって言われたらギリギリでマタムネ選ぶんじゃないかってくらい好きです。

マタムネは言います。

この世のすべてに答えなどなく

同じく等しい人間など一人もいない

そしてこう。(クリックで拡大)

マタムネ2

詳しくはこの話19巻と20巻だけでも十分成り立ってるからいつか立ち読みでもネカフェでもどこでも良いから読んで欲しいんだけど、僕はこの猫が言った言葉が初めに読んだ十数年前からずっと心に残っています。

「自分の進むべき道は心で決めなさい」と言えば、何らかの決断に迫られたときを想像しますよね。

僕らには必ず人生のターニングポイントがあります。

進学、就職、結婚、または反対に、退学、辞職、離婚という決断をすることもあるでしょう。

そんなとき、自分の心で進むべき道を選ぶことが僕らには本当にできるでしょうか。

大きなターニングポイントなんかなくたって、僕らの人生は選択の連続です。

一つ二つと苦痛を選んで、それから解放されるために、僕らは地道な努力を続けているのです。

嫌われたくないから人の機嫌を取ったり、馬鹿にされたくないから勉強したり、優越感のためにあらゆる努力をする。

この言い方が身も蓋もないのであれば、僕らは自分が正しいと思うものを選んでいる。

就職、結婚に限らず、食べるもの、使うもの、見るもの、行くところ、総合して生き方全て、どんな経緯であれ自分が正しいと思ったものを選ぶのです。

しかし「この世のすべてに答えなどない」のですから、更に言い換えれば、僕らは単純に好ましいと思うものを選んでいる。

ではその好ましさを作るのは何か。

それは世の中で信じられている「正しさ」では決してなく「心」であり、即ち僕らの脳みそです。

でも脳は正しさだけで動いている訳ではありません。

必ずしも「正しさ」を心地よいと考える訳ではない。

論理的でなくても合理的でなくても、もしくはアンバランスでもミスマッチでも、僕らは心さえ動けばそれを好意的に理解し、美しく感じられるようにできている。

何をみて「しっくりくる」かは人によって違うし、全然意味が分からなくても伝わるものはある。

僕の地獄に音楽は絶えない

僕らの人生は、まるで小さな石を一つずつ積んでいくような、地道なものかもしれません。

どれかを選んで一つ置き、またどれかを選んでは一つ置き、そのうち高く積み上がったと思ったらどこからともなく鬼がやってきて、崩されて台無しになってしまうような、惨めなだけの地獄かもしれません。

なんのためにこんなことをしているのか分からなくても、罰だと言われればその通りな気がしても、とにかく積み上げなくてはならない切なさがあります。

現実はどれだけの正しさで埋め尽くしてもやっぱり地獄です。

父のため母のためといくら「正しさ」を積み上げても、そこは天国になんてなり得ません。

やってることが地獄だから。

マタムネが言う「心」とは「今目の前にある現実に捉われぬ信じぬく心」だと言います。

以下引用

小生にも守りたいお方がかつて一人だけおりました

しかしそのお方を信じられなくなったあの日から千年も続く後悔の日々ははじまったのです

今でもくりかえし続く人間の心の闇の歴史

戦争にまきこまれる人々

悲しみを負う人々

そして数かぞえきれぬ様々な諸行

それら全ての切なさの原因こそ他と信じあえぬことにありました

たとえいくら裏切られようと信じる限りこちらから敵対する事などなく、むしろ疑いを持たずにいられる事こそが何より自身の幸せである事

それが愛なのだという事

あのお方が正しいかどうかなど問題ではなかった

信じることをやめた小生のこの行いこそ――人の闇そのものだったのです

なんのことを言っているのかはコミックスを確認して欲しいんだけど、僕らは実際、地獄でも天国でもなく、人の世に住んでいます。

ほとんどのことは人がいるからこそ起きる苦しみですし、ほとんどは人がいるからこそ感じられる幸福でしょう。

理解ができないからこそ僕たちは敵対し、理解ができれば受け入れる。

それはつまるところただの好みではあるけれど、自分の正しさに固執して他人の正しさを信じられず、怒ったり傷つけたりする。

そんな風に誰かが誰かの鬼になって、せっかく積み上げたものを容赦なく台無しにしようとする。

その心こそが鬼で、僕らの住む世界はやっぱり地獄に似ている。

だけどその原因がもし、信じられないこと、伝えきれないこと、理解できないことにあるのだとしたら、やっぱりこの世は切ないです。

僕らは実際には何も強制されておらず、こう生きなければならないというものもなく、正しい道なんてなく、自分の心で選んだものを積み上げ、心で選んだ道を進むことができます。

マタムネ3

正しさではなく大切なことは心で決めれば、ただただ自分が選んだ好ましさで人生を満たすことができるのです。

もしくは、他人にあるのは「正しさ」ではなく、ただ「心」なのだと知れば、それはあなたが信じるものを脅かすものではないことが分かるでしょう。

そこにあるのは「納得」であり、納得に囲まれたあなたの世界にはきっと誰かに何かを伝えようとする音楽が絶えず流れている。

それで悲しみや人の業が消えてなくなる訳ではないけれど、それがマタムネの言う「何より自身の幸せ」、で「愛」なのであれば、みんながそうすれば良いと思う。

それは地獄に流れる音楽で、芸術的であるが故に誰かと誰かを繋ぐもので、妄想上の天国にいて聞くよりずっと感動的できれいなものかもしれない。

正しさではなく心で

ここまでの話は少し複雑だと思うし、理想論というかなんというか、心とか信じるとか愛とか、そういうことでみんな幸せになりましょうなんて嘘くさい話に見えるかもしれません。

できたら苦労しねえってヤツ。

心で決めて良いのであれば、怠けたい人は怠ければ良いし、怒りたい人は怒れば良いってことになるじゃないか。

それを正しさで評価するのではなく心で判断すれば、理解が生まれ、その人をどうこうしようなんて思わないに違いない。

それは確かに腹が立ったりはしないかもしれないけれど、それが良いことかどうかは別だろう。

だからあくまでも常識の範囲で、いざと言うときは理屈ではなく感情の方を優先しろってことだろ。

つまんないつまんない、理想論どころかもうみんな普通にそうしてるし。

そもそも、心で決めるなんて人間が全員生まれながらに善良であれば良いけど、中には根っから心が腐ってる奴もいる。

そいつらが好き勝手やったらめちゃくちゃになるに決まってるし、それを許したり肯定したりできたとしても、損をするのはこっちの方だ。

確かに、簡単なことではないのだと思います。

だから、「信じる」とはどういうことか、それを「正しさではなく心で決めるのが人間だ」と言うのはどういうことか、それが「理解という創造行為」にどう繋がっていくのか、またそれは創造行為だからこそ「芸術の色を帯び」ており、自ずから「完成した美しさ」を持っているものだ、という主張をしたいので、もう少し考えていきたいと思います。

でもこのまま書いたらクソ長くなるから、そのあたりは次回の課題に。

ちなみに余談ですが、「恐山ル・ヴォワール」というのはマタムネが葉にあてて書いた手紙に入れてあった詩のタイトルです。

詩のタイトルがまんまエピソードのタイトルになっていたのです。

この詩が素晴らしいので是非読んでほしいです色々な人に。

「創聖のアクエリオン」と「シャーマンキング」/地獄に流れる音楽と愛の詩(完)

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