役に立たない文章が好き

文章にもいくつか種類があると思う。

ざっくり二つに分けると、役に立つものと、役に立たないもの。

言い方を変えると、その場限りのものと、保存可能なもの、と言っても良いかもしれません。

例えばこうしてブログなんかを書いていてもその違いは痛感しています。

ブログだと、圧倒的に役に立つ文章の方が有利です。役に立つ文章は後でもう一回読もうと思われるし、誰かに教えようと思う。だからシェアされたりブックマークがついたりして、PV数が上昇する。

だからこそ、読者の需要を意識して、読者がこれを知りたいと思う内容を詳しく、もしくは分かりやすく伝える文章というのが、一つの正解にあるようです。

そういう数字の裏付けによる確固とした正解があると、試行錯誤の末だとしても行きつく先が同じみたいになるから、あらゆる文章が正解に寄ってしまうというのはやっぱりある。

タイトル、文字数、画像を入れるか否か、構成、文体、もろもろが似通る。

そしてムラがなくなっていくという寂しさがある。

いやちょっと前まではあった。

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web上の記事も多様性が許容されてきた?

 PV数を指標にして記事の価値を計るのは、しかしそれも流行のようなものだったり、やり方の一つであって、保存され、拡散され、役に立つ文章だけが良い文章という訳ではありませんよね。

僕の見る目が変わっただけかもしれないけど最近は特に書き手の個性が目立つ文章も増えて、「この人が書いた記事」みたいなのも増えてきたようにも見える。強い個性のある個人が頑張ってくれた結果で、ブログ初心者としてはなんにせよ正解とかセオリーに振り回されず自由に楽しめるというのは嬉しいことですよね。

 今では忙しく思考も停止しがちな人にも分かりやすい文章であったり、啓発の作用があるライフハック的な記事を書いたり、「感動したい」みたいな欲求に手っ取り早く応えようとするのはひと昔前の手法か、大きなメディアの手法のようにさえ思える。

 文章を書く目的や好みや媒体によって正解はいくつかあるのだと思うけど、なんにせよ役に立つ文章の対極にある文章として、その場限りの、役に立たない文章があって、そういう記事がweb上にも増えてきたという実感がある。

役に立たない文章と言えば言い方が悪いけど、その文章を読むための文章という感じです。だから低質という訳ではなく、より文学的、芸術的な色味を帯びた記事が増えたような。

その文章を読むことで、そのあと具体的な何か(情報や知識)を得られることを期待するのではなくて、その文章を読むこと自体が目的であるという文章。うん、そんな感じがする。

その文章を読んでいる時間に価値がある

役に立たない文章の代表例が、小説作品とかではないでしょうか。

小説って、究極的には人生で一回も読まなくたって普通に生きていけると思います。小説から学ぶことはあまりないと思うし、多くは分かりやすい答えや教訓なんて書いていない。

今その瞬間を少しだけでも充実させるもので、自分の精神を悦ばせるためのもので、極端な話、本を閉じた瞬間その文章の価値も消失すると言っても良い。

もちろん、心に残るフレーズに出会っていつまでも支えになったり、登場人物の思想に触れて生き方が変わったりと、色々な「効用」はあると思います。 

でも、それはあくまで副効用だし、そんなものを探してページを繰るのは邪道であって、役に立つし人生の糧になるから読むのではなく、ただその瞬間の充実度を底上げするために文章がそこにあるのだと思う。贅沢な話だ。

 もっと言えば、書いてあることはどうでも良くて、目の前の文章を読むことによって自分の頭の中や心の中で起こるあれこれに価値があり、答えを与えられるのでなく文章を刺激にして自分の頭で心で発生する問いに妙がある。

そういう文章は読む人やタイミングによって驚くほど印象が変わる。

芸術的な香りがするweb記事

これは完全に好みの問題なんだけど、僕が好んで読むのは「役に立たない文章」の方です。

その読んでいる時間が最高に楽しい、人と話す時間あったらこれ読んでいたいと思える文章。

もちろん、役に立つ文章も大事だしお世話になってるけど、新書や啓発本より小説の方が好きで、web上の記事で言えば情報系のブログ記事やまとめブログ記事よりも、芸術的な香りのするブログの方が好き。

そう、役に立たないって、芸術的なのだと思うのです。芸術的ってなんだよ。この記事ではこの話がしたかったのです。

小説も、写真も、音楽も、映画も、芸術的なものだと言われれば否定する人はまずいないと思うけど、その芸術性の一番大事なところが、「役に立たない」というところなのだと思う。

というより、芸術か否かを分ける分水嶺が「役に立つかどうか」にかかってるという感じ。

文章も役に立つ情報(説明書とか教科書)は芸術とは呼ばないし、写真も記録のためのものであれば芸術とは言わないと思う。音楽だって、宣伝用のだとか、町のPRのために作ったテーマソングなんかは芸術にはならないんじゃないか。だから町おこしのための映画とか町のPRのための映画とかも、いくら出来が良くても芸術にはならないと思う。

だってそういう映画って、休みの日に見ようとか、デートの締め括りに見ようとかって絶対ならないと思うから。BGMに○○町のテーマソングを流そうってならないし。

こう、一日の中で生産性を求めなくても良い、心を潤すことができる貴重な時間に、いわば一日の中の最も贅沢な時間に、実利的な目的の見え隠れするものなんか見たくない。

芸術って、お腹が空いてるときに優先することじゃなく、明日無くなって困るものでもなく、目の前にあったからと言って万人に恩恵を与えられるものでもない。

でも僕らにはなければならないもので、つい求めてしまうもので、ときには役に立つものよりずっとたくさんの人のためになったりする。

芸術的な町

僕は自分のブログや自分がやることを何かの役に立てたいとは思わないし、ましてやまちづくりの手段にはしたくないと思ってるのだけど、まちづくりも芸術的であるべきだと思ってるがゆえに、創造的な作業をまちづくりに役立てようと考えているのも本当で、なんだか訳が分からなくなってきた。

自分の中に矛盾を感じてなかなかしんどい時期だ。

いや、さっき役に立たない文章を指して

書いてあることはどうでも良くて、目の前の文章を読むことによって自分の頭の中や心の中で起こるあれこれに価値があり、答えを与えられるのでなく文章を刺激にして自分の頭で心で発生する問いに妙がある。

そういう文章は読む人やタイミングによって驚くほど印象が変わる。

って書いたけど、僕は町もそういう感じになったら良いなって思ってるんだきっと。

何度も書いているようで何度書いてもよく伝わっているかどうか分からないんだけど、何かのための町じゃなくて、そこにいる瞬間にこそ、それぞれその人がいる意味が生まれるような芸術性を求めているんだ。

数字じゃ絶対換算できなくて、一方の人には何ともないけどもう一方の人の心には強く響いて、大切な価値になるような。

つまり普通の町で、自然な町。どこにでもある個性的で魅力的な町。

そのまま行けば良い、自分なりの正解で良いという許容の広さが、芸術的な何かを生む。

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「物語」に対するアレルギーと二番煎じのまちおこし

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