まちづくりの原動力とサイクルの話/僕らはけっこう掴みどころのないもので回ってる。

このブログは僕なりにまちづくりについて考えるブログなんだけど、どういう訳か以下のような概念図を描くに至りました。

なにこれ?って思った人は 当ブログの概念図の説明をさせてください。こんなふうに「まちづくり」を考えています を参照していただけるとぼんやり分かると思います。

なんでこんな持って回ったみたいな図を書いて、循環って大事だよねっていう今さら言うまでもないことを書いたのか、という点をこの記事では書いてみようと思います。

自分で見ても、まちづくりの本質に迫っているとは思えないからね。なんか話としては分かるけど、あまりに掴みどころがない。

でも一方で、やっぱりこういう図を考えたのにはわけがあって…という話です。

「まちづくり」「まちおこし」という文脈では、話が経済に偏ってしまう傾向があるんじゃないかってこのブログを書き始めた頃に感じました。

地域を元気にするためにはどうすれば良いか、人に来てもらうためにはどうしたら良いか。

地域がそれぞれ考えるようになって、(あくまで僕の実感では)4∼5年前くらいから「まちおこしブーム」が訪れていたような気がする。そして実際俄かに活気づく地域も出てきていた気がする。

でも、経済に寄ってる気がする。それって悪いことなのか?何に違和感があるんだ?そんな自分の中のモヤモヤがこのブログを書くきっかけでした。

よし、おらがまちも魅力の発信だ、PRだということになれば自然が豊かだとか暖かい人柄がだとかっていうことはあるかもしれないけど、そういう情報を届ける相手がお客さんや消費者だったりする限りにおいて、やっぱりそれは経済の話になると思います。

例えば、ある引越し会社がCMで、爽やかに挨拶してたりお年寄りに優しかったりするシーンを見せることがあると思うけど、穿った見方をすればそれはあくまで経営上のPRであって、その青年の人の良さや誠実さを伝えるためのものではありませんよね。あくまで会社の誠実さやフレンドリーさの表現ですよね。

地域も同じようにすることがあると思う。

でも、経済の循環を軸に考えるのは、僕の書いた図よりはずっと掴みどころがある。

せっかくなので作った図の応用で説明させてもらうけど、経済の循環を軸にすると、以下のようになる。

わざわざ言うまでもないと思うけど、魅力の発信とかPRを行うことでお客さんが増える。お客さんが増えれば需要が増える。需要が増えれば雇用が増える。雇用があれば移住者が増える。移住者が増えれば新たなPR材料になる。

経済の流れが、良い地域を作る。

これは間違いないことだから、PRや魅力の発信がうまくいけば自動的にくるくるくると地域が活性化するという流れ。

循環図の面白いところは、二週目に入ると少し様子が変わるということです。

移住者が増えれば新たなPR材料になる…までさっき書いたと思うけど、その後その地域を訪れる人は純粋な消費者、お客さんだけじゃないかもしれないですよね。

移住も考慮に入れた人が来るかもしれないから、見るところが福祉だとか住まいだとか働けそうな場所の魅力だとかそういう「暮らし」にシフトした目を持った人が現れる。

そうすると当然需要の様相も変わる。今までは消費者を意識した需要(宿泊施設を作ろう、とか)だったけれど、暮しを視野に入れる人が求める需要は例えば「良い感じの公園」になるかもしれない。

こうして循環を繰り返すごとに様相が変わっていく。

これはもう全く否定できない流れです。

だから経済に寄ってる気がする…とは言っても、それは始まりが経済の循環だっただけで、自然と様相が代わり、まるで生き物が自然に成長するようにまちは成長するのだと思うから、どんな姿になるのかは分からない。

でも、「まちづくり」にはこの方法から始めるしかないのかと言われれば疑問ではある。

僕の中では、さっきの「経済の循環図」は以下のような位置づけにあると思う。

どうでしょうか。まちづくりの中にある小さい星マークが、経済の循環だという図です。

つまり、「まちづくり」の中に色々な種類のサイクルがあって、その一つの切り口として、経済の活性化があるという図。

例えば僕で言えばこうして「ブログを運営」することがまた何らかのサイクルを作って「まちづくり」の一要素になるかもしれないし、もしかしたら「歴史の研究」が、「芸の道」が、「朝の清掃」がまちづくりの循環を生むかもしれない。

そういう多様さがあるのが僕らの住む世界で、僕らの住む地域なんだろう。

それぞれが小さいながらもフル回転することで、僕らの住む世界(それがどんな世界なのかは価値観による。僕の場合は文芸的な価値観の影響が大きい)が大きく循環し、彩られ、豊かになっていく。

そんな感じだと思う。

でも、昔感じたまちづくりは経済に寄ってる気がするという感覚は大事にしたいと思う。

ある一つの価値観に寄ることに対する違和感は、つまり多様性を損ねる可能性になるから。

シンプルにするため極端な話をしますが、「まちづくり」はつまり「経済の活性」のことだとする。

すると「まち」が行うことはすべて「お客さん」相手になる。

多様性が損なわれる可能性というのはそういうことで、地域の人から見れば、どんな人が訪ねて来ても「お客さん」に見えるようになる。これの何が悪いの?と思う方もいるかもしれないし、僕も悪いとは思ってないけど、つまらないなとは思う。

一番最初の概念図に照らし合わせて考えてみると、多様性が損なわれるとコミュニケーションが損なわれるかもしれないから。だって相手は「お客さん」だから丁寧に接客したりみんな優しくするかもしれないけど、これは極論ね、「お金を落とさない」と分かった相手にはあまり時間を割かなくなるかもしれない。上客にばかり愛想をよくするかも。

そんな露骨じゃなくても、「ここで愛想悪くしたら口コミで書かれるからうまく付き合わなきゃ」みたいな気持ちで会話がされるかもしれない。

その地域にお金は回るかもしれないけれど、ここに住みたい、この輪の中に入りたいと思う人はいないかも。するとその地域の日常はいつも業務であって、物語として魅力が乏しい。なぜなら、キャラクターに個性がないから。お客さんとサービス業の人の会話しかなされないコミュニティだから。

繰り返すけどこれは極論ね。経済に偏ってる気がするなって感じたときの憂いの正体を説明したかっただけで、こんな具合になると本気で思ってる訳じゃありません。

でも、先立つものは金というし、どんなことをするにもお金はやっぱり必要で、土台になるものでしょ?

そうですよね。お金は何よりの潤滑油だったりする。あらゆるサイクルの隙間に流れて、回転を加速させる力になる。

だからやはり経済の循環は特別枠で考えた方が良いという気持ちもある。

だけど、それと「お金が無いと回らない」という話は別というか、潤滑油がなければ全く機能しない回転なら、それはもう既に機能していないと考えて良いんじゃないか?と思うのです。

ある回転があって、その隙間にちょちょっと流れて、うわすごいスムーズになったおもしれーってのがお金の力だと思うので、決して何かを回す力の核を担ってるとは思わない。

これも極端な話になるかもだけど、例えばお腹空いてる人にご飯を食べてもらおうと思ったとき、ちょっとその気になればできることです。自分の食べる分を分けたり、あそこでキノコ採れるよって教えても良いと思う。この、自分が持ってる力を誰かに与えて…っていうやりとりの際に歯車が一つカチリと回ると思うんだけど、このときに必要なのは本当にお金だろうか。

お金がないんだからそりゃ何も食べれないでしょ…ってなったら、それで終わりですもんね。

終わりっていうのは人間性とかの話じゃなくて、選択肢とか手段の話。そこに至る経緯の多様さの話。つまりあっても良いはずだった「ものがたり」が消えてしまうという意味で、お金が無い=先に進めないは面白みに欠けるということ。

なんかこの話ちょっと前に話題になった、っていうか話題中のキンコン西野さんの絵本無料公開の件とかぶるのかもしれません。一方で全然違う話のような気もする。

この記事で言いたかったことは何なのか。

それは僕も見失いつつあるんだけど、第一の目的は一番上の、掴みどころのない図を描いた理由を何となく伝えたかったということ。

そしてもう一つ主張したかったのは、「経済の循環」は大事だけど、僕らの営みはそれ以外のものを原動力の核として動くことも多いと思うから、そのことを忘れないためにもあえて「経済の循環」はあくまでまちづくりの一要素として小さく捉えたいと僕は思っているということ。

多分、「経済の循環」が起これば良い町はできると思う。多分便利で住みよい町ができると思う。

でも良い町だからって良い人生が送れるとは限らない。良い人生とは何かと言われればそれは分からないし人によるとしか言いようがないけど、多分フィット感は必要。

歯車がかみ合うように、自分の価値観、人生の原動力、自分の芯がぶれない環境で、カラカラと軽快に、もしくはゴリゴリと力強く回る感覚。誰かに貰った力と、誰かに渡す力を実感できる感覚。それは多分、自分は世界のメンバーであるという感覚だと思います。

その感覚を得るのに、「絶対に経済を介さなければならない」という世界はつまらない。

まとめると、よく考えると僕らはけっこう掴みどころのないもので回ってるんじゃないの、ということを多分僕は言いたかったのです。

まちづくりの原動力とサイクルの話/僕らはけっこう掴みどころのないもので回ってる。(完)

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