「まちおこし」「地域おこし」に対する違和感/運動会を彩るのは

いわゆる「まちおこし」や「地域おこし」という言葉には魅力を感じません。

だから興味がなく、このブログでは「まちづくり」という言葉を使うようにしています。

これはまちおこしについて考えているうちに町おこしに関心がなくなったブログです

「まちおこし」と「まちづくり」の違い

しかし、それは僕なりの使い分けであって、自分の町がもう少し元気になって欲しいとか、自分の町を面白くしたい、自慢できるようなところにしたいと思ったり、実際に何かをすることは全て、残念ながらそれらの言葉の中に収束していくところがあります。

世間的に言うところの「まちおこし」や「地域おこし」。

それはざっくり言えば儲けること、世間に認められることなのではないでしょうか。

これは良い町を作る手段の一つであり決して目的ではないのに、手段が目的になってしまっている好例だと思います。

この記事では、僕は自分の町に対する問題をこういう風に考えてるから、世間的な町おこしには違和感があるんだよというような話しをしたいのです。

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問題は死にかかってるということ

問題は死です。

少なくとも僕が住んでいる朝日町に関しては。

死と言うのが生物的すぎるというのなら、問題は「消滅」です。

地方消滅』って本が大変売れて話題になったようだからある程度共通の問題なんだと思います。僕まだ読んでないけど。

多分、このままだったらこんなに消滅するよーって本なんでしょう。適当すぎますけど多分そうでしょう。

でもほんとわざわざ本なんて読まなくても人口1500人もいない町にいると地方の消滅なんて時間の問題だよなーって普通に思う(実際朝日町は合併済みですからね)。

脈も少なく、呼吸も少なく、起きてる時間も少ない老人を見ているようで、寂しくて、切ないものです。 これは…時間の問題だよなってデータなんか見せられなくても、肌感覚で分かる。

よしじゃあ何かしなきゃって思ったとき、注射とか投薬とか付け焼刃なことしてどうなるの?って思う。

衰退する町で言えば地域の魅力を発信するとか、イベントを企てるとかしてどうなるの?と思う。

人口が少ない→人口を増やそう。

人が来れば良いんだ。じゃあイベントだ、じゃあ観光だとなるのはあまりに安易に思う。

時代は進んで、じゃあもっと移住とかを意識したことをしよう、ショートステイ、田舎体験ツアー、空き家対策だ、となればうんうんそういうのはあった方が良いな、面白そうだなとは思うけど、やっぱり既に処置っぽい。

何故ならもうやることに意味があって、必然性がなかったりするから。

結局そこに来る理由がなければわざわざそこを選んでサービスを利用するなんてこともないのだから、家族の前で一応体裁だけ整えるみたいに心臓マッサージするお医者さんのように、消滅しそうな地域ではこれをやることになってるみたいなことをただしているにすぎない。

どこの地域でもやってるからこそ、選ばれる必然性がなければならない、けどそれがない、けどやる、とにかくやるという意味でただの作業になってしまっている。

まちは今にも死にそうなんです。

息も絶え絶えなんです。

注射とか薬とか手術でなんとか命は繋ぎとめられるかもしれないけれど、対症療法でしかなくて、根本的な治療にはなっていないからいまいち元気にはならない。

しかしだからと言って、よし昔のような元気を取り戻すために今日からランニングしよう、筋トレしようったって弱った体では無理な話です。そりゃそれができたら、元気、だよねって。

もちろん、町は生物ではないから、衰退化したからといって死を待つのみではありません。

だから対症療法的な処置がまったく意味がないとは思わない。

しかし、何だか老人に無理をさせてるような違和感が「町おこし・地域おこし」とか「地方の活性化・地方創生」という言葉にはある気がするんだよな。

町おこし、違和感の正体

多分町おこしとか地方創生に違和感を持っている人はたくさんいると思うんだけど、僕の違和感の正体は先に上げたやってるだけ感無理してる感です。

やってるだけ感ってのはさっき書いたけど、無理してる感ってのは、老人捕まえて無理くりにでももっと元気になれ、できることは全部やれって言ってるような乱暴さです。

違和感程度の感覚だから深く突っ込まれると困るんだけど、あーあーあーあんまり無理させんなよなって感じる。

もちろん、実際に地域で色々やってるのは比較的若い世代だと思うから、老人に無理させてるって比喩は当たらないんじゃないの?と思われるかもしれません。

だけど、僕が言いたいのは、その「元気さのパロメーター」における老人性なんですよね。って意味わかんないですよね。

今までの日本だと、元気な地域ってお金が稼げる地域だったと思います。

お金が稼げるからそこに行くし、住む意味があるし、住んで良いことがある。

例えば朝日町だって昔は林業とか農業で栄えて、伴って鉄工業、木工業が盛んだった時代がある(ちなみに僕ん家は鉄工場)。

その時代はそりゃ元気な町だったらしいですが、その後林業が衰退し、営林署がまさかの消滅、そして町自体が元気なくなって、今に至るというような感じ。

「地方創生」っていうのは端的に言えば、そういう経済の活発さをどうにかして地方に見出そうという話ですよね。

そして町おこしの目的だって端的に言えばそうでしょう。稼げる地域になったら国に褒めてもらえるみたいなモチベーションでやってる気がする。

東京だけじゃなくこっちでも稼げるんだよってアピール合戦で、それには金のにおいが必要です。観光客数とか名産品の売り上げとかイベントの来場者数とか、数字に執着したり数字で評価するところを見るとそう思う。

つまり地域の元気さってのは経済の活性度合いであるという点、お金が文化的な生活を保障し、文明の礎となるという点がなんとなく古臭い。

そういうところがなんか老人っぽく、古臭い。

もう一度あの元気だった日本をって、かつての盛り上がりを想定しているから、言ってしまえば日本全国でアンチエイジング頑張ってるみたいでしんどいんですよね。若さや溢れる元気が即ち魅力なのだと信じてて、それ以外の価値を改めずにいる。

充実した生を送りたいなら走りなさい、筋トレしなさい、そうして体力と筋力をつけ、肌ツヤを良くし、勝てる体を作るのだ!まだ現役バリバリ活躍できるってところを見せるのだ、みたいな体育会系なノリを感じます。

元気になる、活性化する、充実する。

その形は様々なはずなのに、未だに社会というところでは資本主義レースに勝つことこそが地域の活性だと思っている、気がする。

いつから「勝てなければ死」になったんだろう。 いや、一体いつまで「勝てなければ死」なんだろう。

彩りを添えるのは

いや競争は別にしたければすれば良いと思うのです。

競争が嫌だから運動会ではみんな手つないでゴールしましょうとかって言ってる訳じゃなくて、運動会とかって競争フィールドに立つんならそりゃ一等賞目指せば良い。

けど別に運動会に全員参加しなくて良いじゃないかってことです。

町おこしに抱く違和感はそこのとこなのです。

何となく勝たなきゃいかんって感情があって、抜きんでなきゃいけんってのがあって(関連記事→抜きんでたい気持ち、一目置かれたい心理と町おこし)、それがみんな同い年の走れって言わなくたってずっと走ってる子供だけの世界なら良いんだけど、じいさんばあさんにも競争を強要するのは無理ですわって。

現代では「価値観の多様化」ってのが認められてきて、幸せのかたちみたいなものも千差万別で、少なくとも勝つことだけが価値ではないということはそれこそ共通認識みたいになってると思う。

段々作られた「普通像」とか「平凡」とか「常識」と言ったものが廃れてきて、そりゃみんな一律で良かった時代もあったかもしれないけれど今は違いますからねってなってなお、やってることは徒競走とまで言わないまでもレースだよね、ゆるやかな奪い合いだよねって思うとなんだくだらない、結局運動会には全員参加なんじゃないかと思って冷めてしまう。

徒競走で一位になれなくても障害物競争とかお遊戯とか玉入れとかあるからね!得意なので頑張ろうね!頑張って入賞したらメダルがもらえるよ! って言われても、だから、んーそもそもしんどいんだよ、もう競争とかに熱くなる歳でもないし柄でもないからさ、ビニールシートにお弁当広げて息子が走ってるとことか見て感動したいわけよ、大玉転がしてる小さい娘見て転がされてるわとか言って笑いたいわけよ、そういうんじゃダメなの?って。そういう参加の仕方もあるよね?って。

競争は良いけど、誰かが見て、彩り、誰かが見られて、彩られ、そういう風に色んな次元から介入できるフィールドじゃなきゃ、競争で転んだ子の頭を撫でて励ましてあげるのは一体誰だろう。

一昔前で言う勝つ力はもうないかもしれないけれど、例えばそんな役割を負う地域、そんな役割を負う町づくりがあってもよいのではないかと思う。

そんなあり方を認められるようにしないと、負け=死であって、負けには意味も物語もなく、そういうものが欲しいなら、従来のとにかく勝つという方法でしか問題は解決できないということになってしまう。

だから、問題の設定をよく見なおして、「まちおこし」というフィールドや言葉を違う視点で解釈しなおす必要がある(地域もある)と思う(そんで僕がやりたいのは「まちおこし」じゃなくて「まちづくり」だなって思ったから自分なりに使い分けてる)。

じゃないと、皆が根本的に競争したまま、競争原理?は保ったまま、だけどなんとなく時代に飲まれてか体が衰えてかやりかただけはマイルドで、めちゃくちゃ順位気にしてるくせに表面上「体を動かすのは良いですな」とか、「みんな手繋いでゴールしよう」とか、全員参加賞とかで満足しようとする、本人たち以外は誰が見てもつまらない運動会を繰り広げることになるんじゃないか。

今町おこしって多くの地域がそうなってるんじゃないでしょうか。

そんなんならやんなきゃ良いじゃんとか、各自やりゃ良いじゃんみたいなレベルのことをわざわざ大きな運動場でやって無理矢理盛り上がってる風に見せるみたいな気恥ずかしさがある。 そんなのには、参加したくないなって思う。

「町おこし」「地域おこし」に対する違和感/運動会を彩るのは(完)  

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