経営理念を練るためのアウトプット/「多様性を尊重する場所」をつくることが目標!

会社を作ったから、経営理念みたいなものを書きます。

一度書いて「経営理念」として公開したけど、あまりにも長くて分かりにくかったので、これは経営理念に至る前のアウトプットということにしました。ここに書くものを軸に、伝える努力をしていこうと思います。

会社の名前は「合同会社塚田事務所」と言います。なんのひねりもオシャレさもない名前ですけど会社っぽくて良いと思ってる。

この会社は母と作ったもので、僕は代表ではあるけどおまけみたいなもんだから、正確には「僕の」経営理念です。僕は個人的にこんなこと考えてるよってところ。

その前に少しこのブログの内容についておさらいさせてください。急に会社を創ったわけではなく、僕の中では文脈や納得、もしくは目論見というものがあるはずなのです。経営理念を書く前に、その辺を整理したい。

まちづくりを目的として始められたこのブログですが、好き放題に記事を書いているうちに、僕は多様性を尊重したいという気持ちが強いのだと自覚しました。

君は景色/世界観が違うということ

という文章をごく最初の方に書いたのだけど、ここではざっくり「どうしても僕らにある違いを楽しみたい」と書いている。

情熱と個性と蹄鉄屋

でも同じようなことを。

多様なものを多様なままにしておく工夫

というのは、多様性を守らなきゃ僕ら自滅しちゃう気がするし、そのためにできることってあるんじゃないの?ということを書いてます。

つまり僕にとって「多様性」というテーマで語る範囲は広く、単純な嗜好でもあれば、僕ら(個人レベルでも町とかのレベルでも)「生き残る」にはどうしたら良いだろう?と考えたときに浮かんでくるキーワードなのです。

これを考慮にいれて、会社の経営理念について書いてみます。

簡単に言えば、多様性を守るために多様なものの一部になりたい。それが「まちづくり」という文脈でも、僕が楽しく生きるにはという文脈でも大事なんだ、というようなことを書きます。

ちからがこもってるのでやたら長いです。誰が読むのか!

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多様性は言ってるだけ

多様性という言葉はすごく耳に馴染みがあると思います。自然科学とか生物学の分野の特殊な言葉じゃなくて、僕らの実感に即した、よく使う言葉の一つになっていると思う。

多様な生き方がある、僕らは一人ひとり違う、人生に正解はない、自分の好きを追求するのが生存戦略だ。

そんな文脈で語られる「多様性」ですが、まだまだ言ってるだけ感は否めない。

世の中は多様だ、生き方は多様だ、人間は多様だとは口で言っても、違いを受け入れる寛容さが芽生えただけで、違いが違いと認識される以上、人と違えば生きにくいのは変わらない。

本当に好きを追求できる人は多くないし、追求した好きが誰かに認められるかはまた別で、なんなら追求するほどの好きがある人の方が少なかったりして、生存戦略と言われるほどかけられるもの持ってないよってのが現実っぽい。

間違った生き方なんかない、自分の信じた道をとかって言われても、最低限社会に片足でもつっこみながら、社会を起点にしたピボットターンみたいな忙しなさで、ぎこちなく生きなければならない。好きを持っていることは、捨てられないこだわりがあるという意味でしばしばかえってリスキーだったりする。

社会に足をつっこむって人により度合いがあるだろうけど、ざっくり言えば「好きなことしても良いけど人様に迷惑かけるな」というところに落ち着きそう。好きなことやるなら自分の責任でやれ。

社会は言うほど多様性を受け入れない。

多様性という言葉ばかりが独り歩きして、概念として受け入れられてはいても一人ひとりの人生に即した言葉となるまでにはもう少しかかりそうな気配がある。

まだまだきれいごとで、本当にそうだったら良いねと言われること。

みんな自分の感性を大切にしてさ、好きな場所で好きな人と、小さくても最大濃度の幸せを追求できる人生を送って、できれば争わずに、良くも悪くも自己完結の世界を漂いながら、あわよくば身近な誰かの役に立って、あなたがいて良かったって言われるような人生を送る。

社会に認められなくても、大事な人には大事にしてもらえる。

言ってしまえば今すぐにでもできそうなことが、何故か僕らにはまだできない。

地域通貨の話から

どうしてか分からないかもしれませんが、地域通貨の話からしたいと思います。遠回りだけど僕が多様性に思いを馳せてきた経緯を伝えるには必要なプロセスです。

例えば、Amazonでしか買い物をしないという人は、Amazonギフト券やAmazonのポイントがあれば生活できる。

極端な話ですし、そもそもAmazonギフト券の購入に現金が必要だろってのは一旦置いといて、とにかくAmazonでしか買い物しない人はアマゾンポイントやギフト券がいっぱいあれば生きていける。「円」はもってなくても不便はしないという生活ができる。

いつだったか、こんなことを考えたことがあります。このブログを始めたころだと思います。

そのあと、ちょっと思考が飛んでるようだけど、「地域通貨は完全電子化するだろうな」と思いました。

ログインしたときにポイント残高が分かるみたいに、電子的にデータが保管されて、アプリかなんかで管理できるようになる。

従来のおもちゃみたいなお札や手作りのコインみたいなのはゼロになるだろうなって。

地域通貨は良い考えだけど、持ち運べないしその地域を離れると邪魔になるから全然欲しくないし、仮の通貨感がすごいから。

円だってなんだって、邪魔と言えば邪魔なので全部電子化されるかもしれませんよね。

というか今は仮想通貨なるものが話題になることも増えましたね。僕はこれ最近知ったからまだよく分からないし、ここでは経済の話をしたいのではなくあくまで多様性の話をしたいので、とりあえず地域通貨の話に付き合ってください。

その地域の価値観に即した地域通貨があるということ

地域通貨があることで、通貨にバリエーションがあることで何が起きるかというと、価値基準が一つじゃなくなるということだと思います。

Amazonでしか買い物しない人は究極「円」を必要としないように、ある地域にいるときに限っては、そこの通貨だけて生きていける。

例えばある地域では、「虫捕り(ハント)」をすることでその土地の通貨がもらえる。またある地域では「聞き書き」をすることで通貨が貰えるかもしれない。

社会的にはお金にならないことでも、「その地域にとって価値のあることだから対価を支払う」ということが、地域通貨を持つことで可能になります。

もちろん、「その地域にとって価値のあること」を見極めるのは難しいです。その地域にとって価値のあることは「巡り巡って社会的に価値のあること」である必要があるからです。

ダイレクトに社会的な価値に繋がる仕事であれば大人しく「円」を渡すべきで、やはり地域通貨の魅力はありません。

重要なのは、「それで食ってくのは難しいけど、その地域にとっては価値があることだから、その地域においては食うに困らない」という状況。

サブ通貨という立ち位置だからこそ最大限に価値を引き出せる内容を考えなくてはなりません。

文字通り、好きが生存戦略になり得る

地域通貨の価値を最大限に引き出せる内容と言っても漠然とした言い方なので分からないと思いますが、端的に言えば「まちづくり」に役立つことだと思います。

例えばこの町は「虫」でまちづくりがしたいと考えるとする。そして虫にまつわるあれこれに対して現地通貨をポイントとして与えられるとする。

すると「虫の町」に来た人は「虫好き」であるが故に、その地域にいる間は難なく、遊ぶようにして現地通貨を獲得できて、文字通り好きを仕事にする、とまではいかなくても、好きなことして十分に生きることができる。

町の方は虫好きさんが集まることで賑わい活性化する可能性がある。虫好きさんが集まることで、名実ともに「虫の町」になる。

もちろん、ここに訪れた人は同時に「円」を稼ぐ仕事をしても良い。もしくは虫好きさんを相手にした商売をしても良い。虫の名前のカクテル出すバーとかいいよね。図鑑みたいなメニュー表なの。虫苦手な人は最悪だけど。まあこんな風に、現地では共通の通貨を溜めつつ、バイト程度の仕事でもしながら、好きを優先した生活には困らない生活ができる。

もしこれが全国的に普通になれば、例えばAさんは「虫」でまちづくりをしているA町に。Bさんは写真でまちづくりをしているH町に、それぞれ自分の好きを頼りに訪れて、楽しく、ノーリスクに生活できて、町は人が増えて賑わいが生まれ、かなり高確率で目論み通りのまちづくりも達成できてハッピー。

仮に「虫でまちづくり」というコンセプトがかぶっても問題ありません。そういう地域は提携を結んで、A町で稼いだポイントを使えるようにすれば、Aさんの生活の拠点が増えるだけ。

各地の現地通貨は、ある程度大きな都市で他の地域のものと交換できると良いですね。北海道で言えば札幌じゃなくて、北海道のへそである富良野がよさそう。札幌では「円」と交換できたりすると良いかも。出稼ぎがもっとカジュアルになるかも。

独特の価値観に、目に見える価値を与えることで人の流動性が高まり個性が際立つ現地通貨というのはとても良いものだと思う。

もしそうなれば、僕ら本当に「好き」を持っていることが生存戦略になる。どこかの個性と自分の個性がマッチすれば、局所的なその点においては難なくどころか楽しく暮らすことができるし、社会的に成功しなくても、社会的に認められなくても、自分の身体一つ分の最大幸福を追求することはできる。

でも地域通貨の流通は無理

地域通貨の流通には問題はある。というか問題しかないと言っても過言ではありません。はっきり言って無理だと思います。

詳しくは書かないし書けないけど、経済とかそういうことに詳しくない僕でもそんなのは無理だということは分かります。一応説明するけど僕マジで経済のこと分からないので話半分で聞いてください。パッと見不安なところ、程度の話です。

まず、ここまでした話は地域通貨が円と同じかそれ以上の価値でなければ成り立たないし、各地域通貨間で価値の差が生じればより価値が高い方に人気が集まるようになる。価値を高くするには資本が必要だから、これまで通り、経済的な力を持つ地域が有利になる。つまり地域通貨が商品になってしまったらアウト。

衰退する地域と盛り上がる地域の差ができて、盛り上がる地域には資本があるということだから、経済の一極集中みたいな現状の問題を打破する力がないし、好きなものが運悪く弱い地域にあるものなら、身を立てる困難さは変わらないどころか好きであるという前提で来ている以上贅沢言えない空気になる。

すべての価値を、「円」も含めて平等、もしくはそれ以上にすれば、社会で普通に働くより遊びみたいな地域のミッションの方が楽になる。税金とかのことも考えなくて良いから、地域通貨を稼いで生活した方が何かと得。するとやっぱり楽して稼ぐことに特化した人々に牛耳られる。別に好きじゃなくても、それくらいのことはできるという、「思い入れもない代わりに抵抗もない人」が活躍するようになる。

地域通貨が有利なものになれば、きっと誰もわざわざ円を使わなくなる。円しか稼ぐ方法がない人は円が相対的に使えないお金になっていくのを見て馬鹿々々しくなってくる。

「悪貨は良貨を駆逐する」を地で行くことになる。これで言えば仮想通貨もどうなんだろう?という疑問はあります。

また、多様性と言っておきながら通貨でもって価値を統一するやり方は結果的に多様性を損ねることになるという問題もある。多様というのは「いちいち数えたり分けたりすんのもめんどくせえ」ということだと思うので、一つの「見える価値・共有できる価値」に落とし込むこと自体が多様性を尊重したいという意志と矛盾している。

さらに言えば、局所的にもマジョリティになってしまったものの内では多様性なんて話題にならないという意味で、言葉上の都合でも多様性を損ねることになる。

定型やひな形や基本となるものと比べたときに見える違いや誤差を指して僕らは「多様だ」というのだから、相対するものを統一された一つの価値(地域通貨)で消してしまえば、それが俯瞰すると個性的なものだとしても、その個性は大したものにならない。

「虫の町」というコンセプトは独特でも、そんなのもアリか(ダジャレである)ってなった時点で多分全国的に見たら20とか30の単位の市町村がそのコンセプトに参加することになるし、一つの地域内でもこの町は虫しかないんですかみたいになる。一つの価値にまとめるのは難しい。

ここから折り返し地点!

だから長いこと書いておいて申し訳ないけど、地域通貨の話は、ただの与太話です。

そしてなんと、ここでちょうど半分くらいです。

でも、一瞬くらい、「好きなものがあるということが生存戦略になること」や「個性が個性を呼び、個性が研ぎ澄まされていく」という感じは伝わったのではないかと思います。

ああほんとに、「好きなことがある」ということが心強く感じられるようになれば良いのに、個性や色が損なわれないようになれば良いのに。

なんか釈然としないけど、こういうことを考えていると、多様性に社会的な価値を与えてはいけないということなのかなと思います。

多様だということは社会的に価値のあることだけど、それに社会的な価値を与えてはいけない。多様であること、違いがあること、マイノリティを認めないというのではなく、それは「多様」を損ねることになるから。

なんか変な話になってきてややこしいけど、社会的な価値ってやっぱり多くの人に有用で、普遍的であることが重要だと思う。そうするとマイノリティを既にあるマジョリティの価値に当てはめるしかないから、結果的にマイノリティのマイノリティ感は損なわれる。

訳わかんないですよね。僕もあんま分かってて言ってるわけじゃない。

分かりやすく例えれば、オカマやニューハーフやオネェ系と呼ばれる人とその辺で会うと珍しいもん見たなとか怖いなって思うけど、面白いからってスタジオに50人も集めたらやかましいだけというようなこと。まあ面白いは面白いけど、芸人集めたときに生じる価値とそんな変わらない。

それはマイノリティを認めたと見せかけて、マイノリティをマジョリティに入れてあげたという社会にある尊大な許容精神のなせる業だと思います。

多様性は認められることで輝くのではなく、あくまで際立つことで輝くのだと僕は思う。もしくは誰にも見とがめられたり壊されたりしないように隠して隠して、自分の中にはっきり見えてしまった他者との違いを実感する度に手に取れる愛しいものだと思う。

そういうものを守るにはどうしたら良いだろう。

多様性が「認められつつある現代」で、多様性を尊重しつつ、かつ殺さない工夫はできないだろうか。

世の中は多様だと思っていた方が楽だから僕らは多様性を許容した

多様性というワードも、とても文明的なものだと思う。

つまり便利で、使い勝手が良い概念なのだと思う。だって自分と違う生き方や考え方をする人と会っても、「多様性」という言葉を使えばとりあえず過剰に怖がったり軽蔑したり避けたりする必要がないから。

「世の中色んな人がいる」と思ってた方が楽だから、僕らは多様性を受け入れるのです。だから「多様性」という言葉もただのライフハック的なアイテムであって、心穏やかに、自分と違うものに煩わされないための工夫だと言って大きく間違いはないのではないか。

社会にとっても望ましいものだけが、選択的に生き残る、という点で、僕らが日ごろ叫んでいる「個性」や「違い」だって、漠然とした誰かに認められたいと願ったときから、一つの価値観に向かっている。

多様性が社会に認められればそりゃ色々なものが現れて、目に見えるようになるだろうけど、それは社会で消費される商品に過ぎず、認められれば生きやすくはなるかもしれなくても本当に「私が私でなければならない意味」なんて見出せないと思う。

なんかさっきの地域通貨の話と重なるところがあると思いませんか。

多様な部分が認められるという形で損なわれるとき

「まちづくり」という文脈でも、同じようなことが起きます。

僕らはたいてい自分と関わりのある地域を唯一無二だと思っていて、誰に認められるわけでもないけど魅力的だと思ってる。自分のアイデンティティや自我を大切にするように故郷を大事にしたりするけど、どうもそれだけじゃ社会で生き残るのは難しいらしい。

だから今ある魅力を社会的な視点で探し出し、唯一であるはずの自分を普遍的な価値へと押し広げ、「認められよう」とする。

そうすると不思議なことに、どんな地域も「似たような場所」になる。人が良くて、自然が豊かで、食べ物がおいしい田舎、とか。

便利で使い勝手の良い地域は社会に認められるし暮らしやすくなるけれど、「自分が一番大切だと思ってた部分」にはあまり触れられなくなってしまう。

だって僕らにとって大切な部分って、認められることで生じる価値じゃなくて、際立つことで輝く思い入れだったりするから。

そしてその思い入れはしばしば、どうしようもなかったり役に立たなかったり言葉にできなかったりする。もしくは分けたり理解したりするまでもない微妙な部分、細部にこそ多様性は宿っていたりする。

その名状しがたい思い入れの部分が「認められる」という形で損なわれたとき、僕らのいう「まちづくり」は本当に成功したと言えるだろうか?

だから僕は多様性を守りたい。

そのためにはどうしたら良いだろうかと考えてきました。

僕のまちづくりは僕本位である

結論的なことを言えば、まず、僕が僕の「個性」や「好き」という部分、独特な部分を守ること。守るだけでなく、そういう領域に磨きをかけること。つまり僕が独特でいられる領域を守るということです。それは、町で文芸的な創作活動をするということ。物語を作るということ。

これが僕にとって「まちづくり」の目的の一つであり、「まちづくり」がそのまま創作活動でもあります。つまり、「自分の好きな創作活動に打ち込めるまちをつくる」というストーリーを作っているのです。もっと具体的に言えば、僕はコミュニティスペース「旧佐藤医院」にオリジナルの図書館を作りたいと思ってる。

自分の故郷で、人がいないのを良い事に、僕好みにカスタマイズできる部分があるんじゃないのか。自分にとって他の地域とは異なる独特な地域に、自分という独特な個性が手を加えることで、他ならぬ僕にとって居心地の良い場所ができるんじゃないのか。

個性というのは、言うほど絶対的なものではないと思います。一人じゃ個性もクソもないのだから、相対的なものであると言い切ってもよい。

個性に社会的な価値を与えようとすれば、多くの人は凡人ですし、珍しくも何ともありません。

だからこそ、小さなフィールドで自分の個性を発揮させようと考えるのは一つの方策だと思います。つまり、小さなコミュニティへの希求(ある種のまちづくり)は、自らの個性を守ろうとする人々の生存戦略だと思う。

また、小さなコミュニティというのは、構成人数が少ないということではなくて、「一括りのストーリーの中で生きる」ということだと僕は考えます。

例えば、ツンデレキャラはわりとどの萌えアニメにもいるけれど、そのストーリーの中では唯一無二です。ある一括りのストーリーを作ることで、個性を絶対にすることができる。

僕の個性が作る「まちづくり」という一括りのストーリー。社会に認められることを目標とするのではなく、あくまで「違いや個性や多様」が際立つフィールドの一つを作るのが目的です。

きっとある程度僕の個性や目的(創作活動に打ち込める環境づくり)と共鳴する誰かが来てくれる。「虫のまち」を作ろうと思うと「虫好き」が集まって、名実ともに「虫のまち」になりそうなように。

いや、お前と同じような個性集めたらオカマ集めるときみたいに、それぞれの個性が薄れるんじゃないの?と思う方もいるでしょう。僕もそれちょっと思ったけど、ここがポイントです。

次その辺を書いてまとめにします。

経営理念

まとめます。まとめてから来いやって感じかもしれないけど、書くことでまとまるので仕方ないのです。

会社の経営理念の話でした。経営理念って普通、「世のため人のために何をするのか」ってことを書くんだと思うけど、自分のことばかり書いてしまいましたね。

でも自我が先にあることは否めません。

多様なもののうちの一つになりたい、という自我です。自分を含めた、自分の町を含めた、多様を守りたいという自我です。

世の中に潜在する違いや個性が際立った場所の一つとして、誰かの個性と共鳴して、誰かの個性が心地よい場所として、自らを拠点としたまちづくりがしたい。

似たようなヤツを集めたらオカマ集めたときみたいに、個性が薄れるんじゃないのかという疑問ですが、僕が作り出したいのは社会的な価値ではなく、「物語」です。

僕の思う「まちづくり」という限られたストーリーの中で生じるのは、普遍的な価値ではなく、それぞれの「思い入れ」や「記憶」と言った絶対的な、名状しがたい何か。簡単に人に伝えられないもの。

少し似ているところ、多少共鳴できるところがあったところで、僕らはやっぱりもともと多様です。多様さは相対的なもので、基準や定型との違いから生じるもので、同じであると信じるからこそ生まれるものです。

ここに訪れてくれる人のためにじゃあ僕が何をするのかというと、他者を理解しようとする時間を作ることです。

「世の中は色んな人がいる」とか言って自分と違う部分を理解することを怠けておきながら、「世の中は多様」とか知った風なこと言わないために、違うところがあったらそこを知り合える時間を作りたい。

自分と違うものを理解するなんて絶対にできないよ。自分を知ってもらうことも絶対にできない。何考えてるかも分からないし、分かったとしても何とも思わなかったりする。分からなすぎるとイライラもするだろうし。

だからこそ「知ろうとすること」や「理解に時間をかけること」は大切です。

理解することではなく、分かろうとすることが大切。能力の問題ではなく姿勢の問題だ。

なのに、社会は常に楽をしようとするから、「多様性の時代」とか言って「違うものは違う」と切り捨てて分かった気になって、煩わされる時間を節約しようする。

そんな社会の中で、「自分を知ってほしい」と叫ぶことに虚しさを感じてしまうことがあってもおかしくはありません。

創作は、言ってみれば「私の世界観を誰かに伝えようとする健気な行為」です。私はこういうことをキレイだと思う。私はこういうことは許せない。私はこういうときにうれしくなる。

誰にも求められない自分だけの価値や思い入れや記憶を、つまり多様なものの一部を、できれば誰かに知ってほしいと努力することです。

そういうことが思い切りできる町を作りたい。僕の周辺はそうであってほしいし、世の中で価値はなくても自分だけが大切にしているものを伝えてほしい。できれば僕が親しんでいてもっとも感じやすい文章で。

そういう営みのすべては、文明に与しないかもしれないけれど、文化を作る。贅沢なコミュニケーションは独特のコミュニティと物語を作る。

僕のまちは、僕のまちづくりは世の中の役に立たないかもしれないけれど、誰かの伝えたい、理解したいという文化的な満足感を満たすかもしれない。

じゃあもっと具体的に、お前はどんな仕事をするの?という話はまた今度書きます。

経営理念を練るためのアウトプット/「多様性を尊重する場所」をつくることが目標!(完)

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