プライスレスなまちの価値に注意を払うことは大事だけどそれだけじゃ負け犬っぽい

例えば、アイキャッチ画像にある石塀の、ひし形の穴のところに思い出がある。

野球少年だった僕は友達と、この壁の前でトスバッティングをしていました。

僕らがやっていたトスバッティングというのは、一方がバッター、一方がピッチャーになって行うキャッチボールのようなもので、放られた球を打ってワンバウンドでピッチャーに返す、を繰り返します。

なかなか難しいので、たまに打った球が逸れてしまうことがあり、そのためにピッチャーは壁を背にします。

僕か、友達のどちらかが打った球が、この、ひし形の穴のところに吸い込まれてしまいました。ぴったり、小学生が使うC球が収まる穴だったようで、僕らはその偶然になかなか興奮しました。

ドラえもんだったらかみなりさんが来て怒られるところでしたが、特に内側から人が来る様子もなく、だからと言って中に取りに行く勇気もなく、なんだか何もなかったみたいで、そこが病院だったということもあり、すごすごと、息をひそめるようにしてこっそり帰ったのでした。

それだけの話ですが、僕と友達の記憶の中には強く印象に残っている出来事です。

20年以上前の出来事ですが、まだたまに話に出てくるような出来事です。

めっちゃぴっったりだったよな!って。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

プライスレスなまちの価値にどれだけ注意を払えるか

まちおこしとかまちづくりの文脈でまちの長所を考えたとき、いかに価値があるかが問われると思います。

言い方を変えればいかに金になるか、いかに人を引き付けるかという観点でまちを見ることになるのです。

それはもちろん必要な視点なんだけど、当のまちに住む人にとっての価値というのは、そういう文脈で言われる価値とは程遠いものなことが多いと思います。

とるに足らない思い出や、面白くもおかしくもないワンシーンがなぜか強烈に印象に残っていて、その前を通る度に思い出す何かが愛着となっている。

そっちの方が大事だというわけではないですが、そっちも大事だと思うのです。

プライスレスなまちの価値にどれだけ注意を払えるか。

ああ僕は、誰かのまちを歩いて、どこにどんな思い出があるか聞いてみたいものです。

田舎に行く系の番組でまちの良いところを聞くシーンが絶対あるけれど、食べ物がおいしいとか人が良いとか自然が豊かとかいう答えに完全に食傷しています。そう言うしかないんですよね。

別に価値なんかないんす。価値がないことと好きであることは別だから問題ないんす。

価値を作り出すことも大事なのですが、それ以上に文化面が底を支える力になる

価値はないけど大切なものを僕らはたくさん持っていて、しばしば、社会的に無益なものをこそ大事にしたくなることがあると思います。

この、価値にならない価値を共有するためにできることの一つが、僕の場合、文章を書くことだと考えます。

大雑把に文化的な活動だと言って良いのではないでしょうか。

価値を売ったり、価値を作り出すことも大事なのですが、それ以上に文化面が底を支える力になる気がするのです。

それはおそらく人間と一緒で、僕らは社会で生きるため、ステータスや所属や経歴という社会的な価値を持っている必要もあるんだけど、無価値で、取るに足らなくて、数で示せないことに注意が払われる瞬間もたくさんある。

人を好きになるときはだいたいそっちが大事にされる。

無駄だけど大切にしてるものや、無意味に覚えていることが、そのまま僕らを人間たらしめているんじゃないかと思うのです。

それはデータではなくストーリーで、僕らは履歴を埋めようとしているのではなく物語を歩んでいる。

ただ、プライスレスって大事だよね!って共感の促し方は矛盾をはらんでいる

ただ、ここまで書いたことはキレイごとというか、市場から降りる理屈でもあります。

戦いから逃げる戯言と言っても良いし、牧歌主義的な自己満足と言っても良い。

人は数字じゃないとか、競争社会から降りるとか、プライスレスな思い出を大事にするとか、それが大事なことは分かるが、そう思ってるなら勝手にそう思ってたらよろし、という話でもある。

だってそうですよね。大事にしてるものがあって、それが取るに足らないものなのなら、自分でそっと持ち歩いてたら良い。誰も奪わないし文句も言わないから。

取るに足らないものって大事だよね!って吐いた瞬間に生じる矛盾がある。

そこが分かるから何とかしたい。ただの負け犬の遠吠えと言われても何とも言えない。

この矛盾というか、アンビバレントな感情がぶつかって生じる選択肢Cは必ずある、といつか思いました。

「自分自身が価値を生み出す営み」という取るに足らない時間を共有できる場を作れたら、と遠い昔に考えました。

それぞれがゴリゴリ自分の価値を作れる場所。そして合間にある、取るに足らない風景が共通の思い出になりえる場所。

それがぼくのまちづくりの理想で、創作合宿できるようにしようと考える動機でした。

ああいつか、誰かと旧佐藤医院で朝から晩まで引きこもって書いて書いて(作るでも描くでも良いが)、夜はくたくたの身体で散歩して、取るに足らない空を見る、みたいな日が訪れると良いなあ。

そういう思い出があるとまちは楽し。

スポンサーリンク
スポンサードリンク