しつこく言うけどまちづくりって競争じゃないと思う。/変化に対するポジティブさの話

まちづくりって競争じゃないと思う。

前の記事でも書いたことだけど、しつこく書いていこう。

まちづくりが競争だなんて思ってないよ?という人も多いかもしれない。でもゆるやかな競争社会ではあるような気がしている。

なぜと言われても困るけど、例えば近くの町が何かで盛り上がったりしたらちょっと悔しいとか、先を越されたとか思うのは、つまりそういうことだと思う。

リードされたら「やられた」っていう受身形のリアクションをしてしまうのだったら、少なからず抜きつ抜かれつの世界なんだろうし、ときには「生き馬の目を抜く」業界なのかもしれません。

そういう感じがするし、僕だって「この取り組みは良いな(羨ましいな)」と感じたら少なからず、やられたって思う。若干焦るし、急がなきゃとも思ったりする。

だから戒めも込めて言っているのだけど、まちづくりは競争じゃない。

正確には、競争社会にすべきではないくらいに思ってる。

あ、競争「社会」とは言ったけど、みんなや世間の話じゃなくて、僕の認識の話です。

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まちづくりは競争じゃないけど起業しました

起業しました。

合同会社を作った。目的は大雑把に言えば「まちづくり」です。

おい企業してんじゃねえか競争社会に自ら足踏み入れてんじゃねえかって思われるかもしれないけど、ちょっと話を聞いて欲しい。

これはコミュニティスペースである「旧佐藤医院」の運営者である母と共に創った会社です。

共にってか手続き的なこと任せちゃったしほぼ母の会社です。

一応僕が代表だけど、雇われ感がすごい。僕個人ならしなかったと思う。

だって起業とか会社の運営とか興味ないから。起業した今に至っても全然興味ない。失敗したらどうしようとかもない。失敗したら静かに畳むしかないじゃんとしか思わない。

イメージの話だけど、起業するかどうかって同じことやるにしても私服でやるか制服着てやるかの違いくらいしかないんじゃないのって思う。

昔から競争的なことに熱くなれないタチで、トランプとかオセロとか格ゲーとか、相手がいるものはなんか苦手でした。一人でRPGのレベル上げが好きだったし、野球やってた頃も試合より練習が好きだった。一人でコツコツやることはすごく熱くなれるのです。

とにかく勝負事が嫌いというかプレッシャーで、ボウリングとかで盛り上げるために負けた方がジュースおごりなとか、そういうので「よしじゃあ頑張らなきゃね」みたいな勝ちにこだわるフリするのも面倒でした。

勝負に熱くなれない、早く終わらせるにはどうしたら良いだろうって考えてた。自分の実力とか勘案して負けた方が早ければ負けるし、勝った方が早いなら勝つことにした(勝とうとしたのに負けることはそりゃある)。

でも中には、長く楽しむためにはどうしたら良いだろうっていうパターンもあって、例えば夜中にやることなくなって始めたジェンガとかオセロとか、お互い勝負のためじゃなくて暇つぶしのためにやることだったら、例えば一勝したら次は負けて3戦した方が長く楽しめる、みたいな計算をした(やっぱ計算通りにいくとは限らないけど)。

会社の運営も、夜中のジェンガみたいなもんだと思う。長く楽しむためにどうしたら良いかは考えるだろうけど、ライバルとか、お客さんとか、勝つべき相手、攻略すべき相手がいると僕は熱くなれないから、あくまで自分の中のゲーム性に集中してやる方が性格的に良いんだろう。

言うなれば人生全部そんな感じにしたい。

長い人生、ややもすると間延びしかねない人生、長く濃く楽しむためにはどうしたら良いかを考える。ヒマを潰す上で少しでも盛り上がれるのは何かって考える。

どっちかが負けてどっちかが勝って、どっちかが損をしてどっちかが得をするみたいな領域でアドレナリンは出ないし、何より自信がないのです。負けたらダメだと思うと足がすくむから、防御本能的に僕は競争に興味を示さないようになったんだと思う。

唐突に、人生を物語的に考える

唐突に、つながりを皆さんが感じられるかどうかは分からないけど、こういう話を物語的に考えてみる。

実は「まちづくり」がテーマのこのブログなのですが、その下位の層には「創作」とか「個性」と言った小テーマがあります。

それは架空の物語の話でもあるし、現実の僕たちの人生の話でもある。

フィクションは人の手で造られ、人物に個性が与えられることで物語になるけど、僕らが生きる現実も同じで、人の手(自分の手)で造られ、それぞれの個性が組み合わさってドラマが生まれる。

言うなればフィクションは現実の抽出物で、濃縮還元ジュースみたいなものだと思う。

上にたらたらと書いた僕の性格と照らし合わせてみても、このブログみたいに自分の中でルールを決めて、好きなことを書いて、一人で満足したり満足しなかったりすることは延々とできる。

この手の内向的な性格を持つ人にとって、しばしば自分との闘いを強要される「創作」というものは楽しく没頭できるゲームなのです。

それで、物語的に考えると、人生に変化は必須です。

「物語が動く」って言うけど、人はこの動きに対して面白みを感じるのだと思う。

「今まではこうだった」けど、「ある人の出会いで」、「ガラッと変わった」というのが物語の冒頭とか、まあ適当なところで起こる。

「こんなことになったせいで」、「こんな感じになっちゃったけど」「なんとかなった」みたいな話もありますよね。

いずれにせよ、大小はあれど、物語に変化は付き物だと思います。

起業するかしないかという選択を迫られたとき、「僕は全然興味なかったけど」「せっかくだから」「代表になった」というのが僕の小さな小さな物語です。

この話がこの先面白くなるかどうかは僕にかかっているし、面白みを考えることが僕の仕事なんだと思う。

具体的に何をするの?どうやって稼ぐの?みたいな話はまた別の機会に書きます。

変化に、驚きと葛藤を

人はフィクションを見るとき、「ある変化」を見たときにワクワクするもの。

ずーっと変化の無いドラマを見たら、きっと誰もがブーブー言います。

変化するポイントが少ないと、間延びした、無駄の多い脚本だと評論家顔負けの野次を言う人もいると思う。

最近の人気ドラマで言ったら、『逃げ恥』の平匡さんとみくりさんがいつまでも、毎週毎週本当に家事の代行サービスの「依頼主」と「掃除の人」のままだったら面白くない。

でも偽装結婚する?ってところから物語が動いて、続々と、「みくりさんをシェアする?」とか「ハグの日作る?」とか、そういう小さかったり大きかったりする「変化」で一つひとつの「お話し」になる。

そしてあわよくば「驚き」や「葛藤」が欲しいと僕らは思う。まさかこんな展開になるとはねってやつ。平匡さんがあんな性格だから、「温泉旅行のチケット」もらうとか、「ハグの日を作る」とかって多くの人にはなんでもないことでも大問題になる。

僕らフィクションには面白くあれと思うし、そうじゃないとブーブー言うんだけど、現実では、安定を一番に求めるし、想定内の変化しか受け入れられません。

意識的につまんない物語を作るように教育されてきた。そういう人生を求めるように訓練されてきた。間違わないように、何でもできるようになれば褒められた。

変化は用意される、何歳で学校に行って、だいたい何歳で初体験を済ませて、だいたい何歳で結婚して、何歳で出世してっていう風に、どこでどんな風に変化すべきかだいたい決まってる物語を僕らは歩んでいる。

変化に対するポジティブさが無ければ、人生に不寛容になる

だいたい何歳で、っていうのはあくまで基準だけど、しばしば来るべきタイミングで来るべき変化が訪れなければ、ドラマに文句を言うみたいにブーブー言われることもある。

変化に富んだストーリーから、驚きや葛藤を取り除いたのがもっとも良い人生だ。ああつまらない。

まさか。だからここで勘違いしちゃダメなんだって。

小説や物語を書くときに忘れがちな、「みんな幸せ目指して行動する」という当たり前のこと。

物語の中の人だって、誰もが安定を求め、幸せを求め、でもうまくいかないからこそ物語になるのだ。

やろうとしてるけどダメで、やってみたけどダメで、ときにやろうとすることすら怖くなってしまうけど、どれだけ変化を恐れ、想定外を避け、堅実な人生を送ろうと思っても、「思わぬ変化が訪れる」から人生は捨てられない。

変化を連れてくるのは誰かは分からない。人じゃないかもしれない。

でも何はともあれ何らかの「変化」が訪れたとき、訪れそうなとき、それが面白い物語になるのか、つまらない物語になるのかは、その人の「志向性」に依るのだと思う。

面白くあれと常に思っていれば変化に対して面白みを見出すことができるし、自分の人生は幸せであるべきだと思っていれば、幸せな展開を見出すことができる。

そんな簡単な話じゃないかもしれないです。

でも変化に対するポジティブさが無ければ、僕らは嫌でも変動してしまう人生の隅々に不寛容になる。

ちょっとしたチャレンジも、ほんの少しの想定外も「大変だ」って言うようになって、大変なことは、「大きく変わる」ことは、物語には必須で、面白い物語作りのコツでもあるのに、そんなものは避けるに越したことはないと考えるようになる。

変化への不寛容が社会に浸透すれば、僕らの人生、名実ともに身動きを取ることが悪手になって、人々は硬直するようになる。自分と、身近な誰かの安定を願い、代わりに遠くの誰かの不幸を楽しむようになる。当たり前です。ドラマは他人事だけど、人生は自分事だから。

やめたいのにやめれない事、いたくないのにいたくない場所、変えたいのに変えられないものがたくさんあるのに、しばしば僕らは何もできない。

まちづくりは競争じゃないと思う

だからこの町で、変化に対するポジティブさを作り出せたら良いなと思う。

変化に対するポジティブさ。物語の面白さ。そういうものを作り出す場所にするために、僕は起業を決断しました。

人には具体的な指針はなくともガラリと方向転換をする必要があるときもあるだろうし、誰かに変えてほしい、このレールから外れても大丈夫だって言ってほしいと思うときもあると思う。

例えば僕の町では、僕がいるから、一緒にこれからどこに行くのが面白そうかって考えることもできる。僕の町では、失敗しても別に死にはしないよ、僕みたいなのが生きれてるんだからって言うこともできる。

僕らは幸せになるための努力をする。たいていうまくいかない。

でもそれが面白くて、別に成功も勝ち負けもどうでも良くて、夜中にやるジェンガみたいに、このくそ長い夜を少しでも面白くして朝を待つように、長い人生の一時を束の間楽しむようなことをゆっくり考える場所があって良いと思う。

まちづくりは競争じゃない。

競争にしちゃいけないと思う。

だってこういう場所は多ければ多い程、人は動きやすくなって、世の中には面白い物語が溢れて、密かに他人の不幸を願ったりしなくなって、みんな愚直に幸せな、波乱と変化に富んだ普通に楽しい人生を送れるようになると思うから。

しつこく言うけどまちづくりって競争じゃないと思う。/変化に対するポジティブさの話(完)

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