モモを読む/現代の必読書『モモ』に学ぶ自分だけの時間の見つめ方

お前に割く時間はない」と言われれば悲しい。

お前との時間は無駄だ」と言われれば辛い。

ところが灰色の男たちに時間が奪われた世界では、みんな悪びれもせずこんなことを言います。

なぜそんなことになるのか。

あなたには『モモ』を読む時間はあるか/ミヒャエル・エンデと文化的なものの役割の記事を経て、そういや僕も昔読んでそれ以来だなと思ったので再読しました。改めて読んでみて、考えたことを書きます。

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現代そっくり

しばしば語られるように、『モモ』は高度に文明化した社会への警鐘の意味合いを持つ物語として読むことができます。

モモ (岩波少年文庫(127))

灰色の男たちに時間を奪われた大人たちはみんな時間がなく、極度に無駄を嫌います。

時間の節約を強いられ、なんでも効率よくこなしていく。

そうして時間を倹約して倹約して生きていれば自由な時間は増えていくはずなのに、なぜかみんな時間がないという状況に陥る。

恐ろしいことに、灰色の男たちはその存在を知られないように行動するエキスパートなので、そうやって倹約して浮いた人の時間を奪っても、その悪行に気付かれることはないのです。

どれだけ効率よく働いても、生活の無駄な時間を削いでも、灰色の男たちに時間を奪われた人はなぜか時間がなくなっていくという矛盾に気付きません。

だからもっともっと早く効率良く、もっといっぺんに、もっと簡単にという気持ちになってしまうのです。

『モモ』を読めば誰でも、その物語の中の現象が現代の社会にそっくりだと思うに違いありません。

物語の世界の大人たちのように、なぜか僕たちにはいつも時間がない。

きっとみんなその理由は説明できるでしょう。 きっと物語の中の時間を奪われた被害者たちと同じような顔で、とても言い訳がましく、自分は悪くないと言い切るでしょう。

手っ取り早く、仕方がないと言うはずです。

未来を見せられたから

灰色の男たちの手法は未来を見せること、なのではないかなと思いました。

灰色の声をした外交員は言葉巧みに時間を節約する重要さを刷り込みます。

今まで無駄にした時間はこれこれで、今までこんなことにこれだけの時間をかけている。

もしそんな時間を節約していたら今頃はこれだけの時間が浮いていたはずだ。

もしこれから一日2時間節約したらどうなるか。

頑張ってもっと上手にやりくりしたら何年後にはどうなるか。

そんな風に灰色の男たちは時間を節約する旨味を宣伝し、我々に節約した時間を預ければ利子をつけますよなんてことも付け加え、大人たちから時間を奪う契約をしてしまいます。

あのときこうしていれば今頃はこうなっていた。

今からこうすると何年後かにはこうなるだろう。

いずれも未来を見せる手法です。過去からみた今、今から見た未来。

未来を見ることなしでは、今どれだけの時間を「消費」しているかという認識はできません。

想像しにくいでしょうか。

もし、声に限りがあるとしたら、と考えてみるとどうでしょう。実は話せる言葉の数が限られている。その量はみんな同じ。

言葉タンクをみんなそれぞれ持っていて、喋るたびにそのタンクの蛇口をひねり使うようになっている。タンクの中身が尽きれば当然、当然の結果になる。

余計なことは話さないでおこう。くだらないジョークも、動作の度によっこらしょとか言うのも控えよう。笑い声も言葉か?愛想笑いは止めよう。言葉の通じない子供やペットに語りかけるなんて馬鹿のすることだ。本当に必要なことだけを言おう。声は限られている。

寝言を言うのが深刻な病気として扱われるだろう。同じ話ばかりをする人も無駄に挨拶が長い人も心から軽蔑されるだろう。

未来を見せるとは、こうすればこうなるというイメージを強く抱かせることです。時間や言葉と言った本来カタチを持っていないものでも、量を可視化することで「限度」を見せることができる。

「残り」を見せられれば人は嫌でも逆算し、未来を見ながら今を生きるようになる。

つまり、今の行動が未来にどんな影響を及ぼすのかを常に考えるようになる。

時間のカタチは人それぞれ

未来を見るという能力は言葉を持つ人間だからこそできることです。

今ここにない概念を言い表し、共有できるからこそ成立するものがある。

その一つが時間であり、現在、過去、未来です。

しかし実際には、時間の姿かたちは人それぞれ違います。

モモが不思議なカメ「カシオペイア」に導かれて辿り着いた「どこにもない家」には、時間を司る存在である「マイスター・ホラ」が住んでいました。

マイスター・ホラとカシオペイアが住む時間の国にはたくさんの時計があります。

マイスター・ホラが人間ひとりひとりに時間を分け与えているのだという秘密を聞いて、モモはこう言います。

「たくさんの時計があるのは、そのためなのね?全部の人間にひとつずつあるんでしょう?」 「そうじゃないんだよ、モモ。この時計は私が趣味であつめただけなのだ。時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くために耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間をかんじとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳のきこえない人にはないもおなじなようにね。でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、なにも感じとれない心をもった人がいるのだ」『モモ』(岩波少年文庫)236pより引用

「ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象った」ものが時計だと言うのですから、時計を見て時間を理解した気になるのは大きな勘違いというものです。

アインシュタインは相対性を説明するときに、好きな子といるときはすごく時間が短く感じるけど、ストーブの上に手を乗せていると一分でもすごく長く感じるだろう、それが相対性というやつだという風に子供に教えたらしいですが、これが分かりやすいということは、時間はひとそれぞれカタチが違うものだし、時間を感じるのは心だという事実をみんな知っているということですよね。

灰色の男は、人の時間のカタチは人それぞれだという事実を巧みに隠し、画一的な数字にして見せることで人を騙します。「時間の限度」を見せるから、けちけちするようになるのです。

ではもっと具体的に、時間を画一的なものにしてしまう弊害はなんなのか考えてみます。

今を評価するクセ

時間を画一的なものにしてしまう弊害は、「時間の使い方が客観的に評価できてしまうということ」だと僕は思います。

そして忙しい大人たちにとって、その評価基準は無駄か有益かなのではないでしょうか。

一つの事象をどのように評価するかということはまた別の問題です。

一見無駄に見えることでも、考え方次第で有益なものへと変えることはできるのですから、その評価というのも人それぞれだし、スキルが必要な部分です。

だから無駄か有益かの二択で評価すること自体については問題だと思わない。

評価することそのものが問題だと思うのです。

つまり、時間がない人は「今」から何かを得ようとする。今という時間に、意味づけを行わないと気が済まないのです。

今ここでしたこと、見たことが、未来の何かになることを期待していつも生きている。そうじゃないと無駄になってしまうから。

それは今という時間にいながら、未来に生きていることです。

未来を想定して生きることは悪いことではなくむしろ必要なことですらあるけれど、その思考が行き過ぎると、視点が未来に行き過ぎると、灰色の男たちにまんまと時間を奪われてしまいます。

ああ、少し話が飛んでしまうかもだけど、モモの友達である、「道路掃除夫ベッポ」の、灰色の男たちに時間を奪われる前の仕事に関する考え方を引用しなければなりません。

「一度に道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?次の一歩のことだけ、次のひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃けのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」 「するとたのしくなってくる。これが大事なんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃだめなんだ」『モモ』53pより引用

『モモ』を読み直したときも、ブログにどんなことを書こうかを考えながら読みました。少し未来から本を読んでいたのです。

それは悪いことか?

いや、むしろ優秀な読書の仕方かもしれません。それに行き過ぎた未来という訳でもないから、こうして書くところまでをセットで考えられて楽しかったというのはある。

だけど初めて『モモ』を読んだときの時間を忘れる感じはまったくありませんでした。夜中になって、早く寝なきゃと焦ったりもして、残りページを眺めたりもしました。そのとき僕は未来を見過ぎていたのです。

「とっても長い道路をうけもったことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」 「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき、目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」『モモ』52‐53pより引用

読書に限らず、没頭していつの間にか時間が経っていたという経験が、大人になってからはあまりなくなってしまいました。

人と話すときも、今日は悩みごとを忘れようとか、この人から何かを得ようと考えます。「セルフマネジメント」とか「学習」という風に、その場の満足感ではなく、少し遠い未来から見た今の時間に意味づけをして、実際に目標のものを得られたかどうかでその時間の意義を評価します。

見方によってはよい心掛けかもしれませんが、そんな風にしか人間関係を築けなくなるのであれば、ああクソみたいなクセだなと感じます。

「割り切り癖」が「創造力」を阻むとして。「考え方は人それぞれ」とか、大人になったつもりでさ。

評価はしない、観察をする

繰り返しになるけれど、使った時間に対して評価をしすぎてしまうという点が時間を画一的なものと捉えることの弊害だと思います。

未来を見せられると限度が見え、「消費」の意識が強くなる。

評価の方法によっては有益な消費なのか、無駄な浪費なのかという思考に陥ってしまい、人はいつも遠い未来を見ながら今を生きるようになる。

今ここで何も感じられないとすれば、その時間はないも同じなんだよ、とマイスター・ホラは言います。

いつの間にか時間を感じられなくなって、いつも時間が残されていないように感じ、焦って、もっと効率よく、無駄を省いてという風にせかせかとした生き方をしてると、次第に「お前に割く時間はない」と言うようになります。

口に出す出さないではない。そう考えるようになるということ。 そしてその気持ちは思った以上に伝わります。

モモのような文明におかされていない子には特に。

口先ではどんなに都合の良いことを言っても、お前との時間は無駄だと言われれば分かる。

そんなことを考えずに済むように、そんなことを伝えずに済むように、いささかチープな標語のようになってしまうかもしれないけれど「今を生きる」べきなのだと思います。

その方法は、評価するのではなく観察すること。

それは、視点をもっと自分の近くに引き寄せることです。

遠い未来のことを考えれば、今ここで起きたことを有益か、無駄かで判断したくなるでしょう。そうならないためにも、もっと近くの今、自分が何を感じているかを考えるのです。

楽しく人と話した後は、あああの人と話して気持ちがスッキリしたなとか、考えがまとまったとか考えれば、それは他者やその人との時間を評価しているのではなく、現在の自分や過去の時間を観察しているのです。

それで味を占めて、あの人と話したら気持ちが楽になるという期待、得られるものを想定してかかるとどうなるでしょう。

思ったようにいかなかったとき、無駄な時間だったなと考えると思いませんか?

あなたがどう感じるかは自由です。

だけどその時間を評価することで他人との時間を無駄だと判断してしまうのなら、きっとあなたはどこかで灰色の男と会っている。気付かないだけで。

悲しいことに、現代では「お前に割く時間はない」「お前との時間は無駄だ」というのは、それほど酷い言葉ではないのです。

みんな効率よく生きたいと思っているし、今が未来に繋がることを期待している。人より少しでも多く何かを得たいと思っているし、充実した日々を送りたいと思っている。そしてその方法は自明である。

そんな共通認識を持つ現代人はやはりそうとは知らずに灰色の男たちの悪行に加担してしまっているのかもしれません。

モモを読む/現代の必読書「モモ」に学ぶ自分だけの時間の見つめ方(笑)

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