「お金」と「言葉」の共通点

僕は普段、文章を書いてお金を貰っているから「お金」と「言葉」を同列に扱うという考え方に一定の親しみというか、信頼のようなものを持っているんだけど、改めて本当にこの二つはよく似ているなと思ったのでメモがてら記事にしておきます。

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「お金」と「言葉」の共通点

・国や地域によって使えるものが違う

・その地域でしか使えないものがある

・使う相手がいなければ100%の価値は引き出せない(持っているだけではあまり意味がない)

・使い方にうまい・下手がある。(上品な使い方・下品な使い方がある)

・使うことに意味があることがある。(形式的な利用方法がある)

・本質的な価値は同じだが、信用や状況によって重みがまったく異なる

・取っておける

・他者を救うことも貶めることもできる

まだあるかな…。

とりあえずパッと思いついたのはこのくらい。

どちらも概念的なものだから当然と言えば当然とも思うけど、それにしてもこの二つは似てるなと思うのです。

だって同じ概念的なものだとしても「お金」と「愛」は似てるとはならないですよね。愛とかってどこに行っても使えるものですから。

それで結局何が言いたいかと言うと、言葉とか言葉で出来上がるものもお金と同じように大事にできたらいいねってことです。

なんとなーくだけど、やっぱり言葉よりお金の方に跪く傾向が人にはあって、言葉→今のブログのテーマで言うところの「伝える・理解する」という部分に対する意識が歳を取るごとに低くなっていくような感じがするので、自分はそうならないぞという戒めです。

以下からもう少し具体的に考えていきます。

共通認識があるから使えるお金と言葉

言えることは、言葉もお金も「共通認識」の上に成り立っているということです。

「ありがとう」という言葉をみんなが知ってるという前提があるからこそ、「ありがとう」を言う意味がある。

それと同じように、例えば千円札に千円のモノを買えるという共通した認識があるからこそ、コンビニで千円を自信持って出せる。

もし20年後とかにタイムスリップしてしまったら今ってこの千円使えるのか?と皆思うだろうし、明らかに時代とか国が違う雰囲気のところにワープしちゃったら「ありがとう」という言葉への信頼性すらも失われてしまう。

ワープとかタイムスリップとかしなくても、国が変わればお金も言葉も使えません。

また、最近はプレミアム商品券?地域復興券?呼び方には揺れがあるみたいだけど、地域通貨っぽいものも全国的に利用されました。

その地域の商品券はその地域でしか使えないのだから、強烈な方言みたいなもんで、もしくは仲間内にだけ知らされている暗号コードみたいなもので、一部でしか使えない。

これまでにもいくつかのものが生まれてますよね。

お金も言葉も共通認識の上に成り立っているという点で共通しています。

持ってるだけでは意味がない

大きな共通点だと思うのですが、お金も言葉も持っているだけではあまり意味がありません。

どれだけ豊富な言葉数を持っていても、使う場面が無ければ機能しない。

つまり基本的には一人ぼっちでは用をなさない代物であり、それが前提にあった上で自分のために使うということもできるのが言葉でありお金です。

この自分一人では用を成さないという点において、言葉で代表的なものと言えば「名前」でしょうか。

自分のものに違いないけど、ほぼ100%他者のためにある。

自分のものだから大切にしたり凝ったりするのはけっこうだけど、他者のためにあるという本質的な部分を忘れると宝の持ち腐れとなるかもしれない。

共通認識の上でってこともあるし、以上のようなことからも、お金や言葉は他者の存在の上に成り立っているものであり、その点を忘れてしまい私腹を肥やすことに汲々としてしてしまうとか、そのために他人との関係性を崩してしまうのは本末転倒というかなんというか。

お金と言葉の使い方における巧拙

お金も言葉も一人では機能しない。

名前のこととも共通するし、財産の保持が大切過ぎたりして他者を意識しないと、なんとなく下品というか顰蹙を買いますよね。

DQNネームが問題になったり。

そして意外に多くの人が気を遣ってると思うけど、相手に応じて使い方を変えたりするものだと思いませんか言葉とかお金って。

言葉とかお金の使い方には使う人の価値観とか世界観が色濃く出てしまうものだと思うんだけど、他者を意識せず自分の世界観、価値観を押し付けてしまうことはやっぱり下品、というか使い方が下手くそという感じになるでしょう。

お金だって、ランチ代に普通いくら出すとか、飲みに行くって言ったらどれくらいの予算が普通かって人とか状況によって変えるはず。

一番お互いが美味しく、かつ気分よく食事を取れるのはどんなところか、そしてそこにはどれくらいのお金がかかるのか、けち臭いと思われないか、逆に鼻に付くような水準ではないか、などなど、考えることはたくさんある。

言葉にしてもそうです。

今さっき見出しのところで「巧拙」って言葉を使って、さらにDQNネームって言葉を使って、さらに「顰蹙」って言葉を使いました。

これは多分中学生とかでは読めなかったり、意味が分からなかったりする漢字かなと思います。

DQNネームってのは逆に年齢層の高い方には意味が分からないかもしれないし、何となく知っててもそういや何でDQNネームって言うんだ?とか、てかなんて読むんだ?ってことはあるでしょう。

そういう予測を立てずに、知ってる言葉をひたすら並べたりすると熟語だらけになったり専門用語とか横文字がいっぱいになったりする。

僕は文章のうまい下手を語るレベルにいないけれど、なんて読む?なんでそこ横文字にする?って文章が多いのは一般的に下手ですよね。

言葉も自分の価値観とか世界観を押し付けるのではなく、相手の価値観・世界観に合わせて使うことが大事なのでしょう。

「いかに使うか」を考えることに人間的な営みの余地がある

あともう字数が多くなりそうだから細かいことは割愛するけれど、言いたいことはお金と言葉はすごく似ているということです。

性質だけでなくその重要性も。

それらの有意義な使い方を考えることは他者を考えることと同義と言っても良いと思うし、人間的な営みをする上では非常に大切であるはず。

だけどお金のことを考えるときのように言葉についてきっちり考えようとする人は少ないと思う。

お金はぞんざいに扱えないと思っている人は多いようだけど、言葉に対して誠実であろうとする人は少ないと思う。

僕だってそうならないようにとは思うものの、お金の威力に屈することは多いし、中身の伴わない言葉を発することがあります。

お金の貸し借りがあると、数百円単位でも清算しないと気持ち悪いけれど、結果的に反故にしてしまった約束について清算しようとは考えないです。

どの口が言ってるんだと自分でも思うんだけど、それでも言葉は大事だと思いたい。

だからって綺麗な言葉遣いを心掛けようとか、挨拶が人間関係のはじまりとかって平和なところに落ち着きたいワケではないのですが、自分の発したものが少なからず他者に影響するという点は大事にしたいのです。

今日コンビニで使った千円がいつか誰かの手に渡ることを想像するように、自分の使う言葉に敏感でいたいのです。

伝えるとか理解するって作業を行うときに必要なのは言葉です。

もちろん言葉だけで人は意思疎通や伝達行為をしている訳ではないけれど、むしろ言わない部分にこそ情報が隠されていて、実際には言葉が負う役割なんてたかが知れていると言います。

でもだからこそ?軽視しがちな言葉について少なくとも誠実に考えることに創造の余地は残っていて、どれだけ誠実に、苦しみながら、相手を思うかに違いが出るのかなと思います。

そりゃ1000円は誰が使っても千円だし、「ありがとう」は誰が言ってもお礼の言葉です。然るべきときに使えば良いかもしれませんし、ありがとうと言えばお礼を言ったことになるでしょう。

しかし人間が人間らしくあるのは明文化された機能(共通認識)をただ機械的に利用するだけではなく、それをいかに使うか、いかに自分のものにしながら他者と関わるか、にかかっているのだと思います。

こういう風に言葉について考えるって、お金の多寡同様に人生の質に関わると思うのですが、どうでしょうか。

「お金」と「言葉」の共通点(完)

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