森博嗣作品にハマっていたとき、作品の中で頻出する「口を斜めにする」という表現に引っかかりは覚えていたものの、特に追求することなく時間が過ぎた。
最近きまぐれに『スカイ・クロラ』のページをめくっているとふいに飛び込んでくるのはやはり「口を斜めにする」という表現。
やっぱり気になる。
「口を斜めにする」ってなに?
なんで違和感を感じるの?
そんなことを考えてみようと思います。
「口を斜めにする」どんな風に使われてるの?
「口を斜めにする」
慣用句ではない。少なくとも「目を細める」とか、「頬を膨らます」みたいに市民権を得ている表現ではない。
だけど森作品には本当に頻出します。
「近くで飲んでも構わない?」僕は礼儀正しくきいた。
「既に十分近い」土岐田は口を斜めにする。『スカイ・クロラ』単行本50p
「落ちていくときは、重い方がいい」彼はそう言って、立ち上がった。「襲う方は軽量である必要はない。機敏さってのは、逃げるものが欲しがる機能だ」
口を斜めにして、少し笑ったようだった。『ナ・バテア』単行本85p
「ああ、同業者かと思いましたよ。死体の前で先生が一番冷静でしたから……」弓永医師はそう言って、口もとを斜めにした。『すべてがFになる』144p
「ジェンキンスに聞いてみな」バーテンは教えてくれた。
「え、奴が扱っているのか?」
「いや、そうじゃない」バーテンは口を斜めにして首を小さくふった。『探偵の孤影』145p
「相手を捜しているんだ」
「何の相手を?」
「道連れ」
彼は口を斜めにして、細い目をますます細めた。『檻とプリズム』275p
※太字は筆者
おそらく
不満そうに口を閉じる様子
言いたいことがあるけれど口を噤む様子
不満には思っていないけど批判顔を作る様子
などを表しているのだと推測できます。
このシリーズにだけ出てくるとか、このキャラクターだけがする仕草とかでもないので、これは森博嗣の表現だと言えるでしょう。
表現したいことはすごく伝わる。見慣れない表現ではあるし造語と言っても良いと思うけど、分かる。
しかし、言っちゃ悪いけど「口を斜めにする」ってそこまで洗練された表現にも思えません。
というのも、基本的に森博嗣の言葉の選び方は普段が洗練して見えるから。
ミステリーを多く著していらっしゃるけれど、抒情的でありながらパズルをはめ込むように並べられる論理性も兼ね備えている。逆だろうか、「文系でも読める理系ミステリ」なんて呼ばれることもあるらしいから、多分論理を情緒でカバーしてくれてるから、僕らきっと森作品を読むと自分が賢くなったような感じがして楽しくなるんだ。
ちょっと話が逸れてしまったけど、そんな森博嗣の文章の中で「口を斜めにする」はなんか浮いてる気がする。
「口を斜めにする」には気の抜けた雰囲気がある
しかし、この「浮いてるような気がする」という印象こそ、森博嗣が表現したかったことなのかもしれないなと思いました。
何度も使う表現ではあるが、こだわるほどうまい表現だろうかとも読者が思うところまで計算されているのではないか。
「口を斜めにする」と出ると、何となく拍子抜けしたような気がする。
滑稽とは言わないまでも、間を作る役には立っていると思う。
よくドラマやアニメなどでBGMを一瞬消すことでキャラクターのセリフや表情に注意を引く手法があると思うけど、「口を斜めにする」はそれと同じような効果を感じることがある。
独特な表現であることは重々承知で、もっと言えば多少気の抜けた表現でもあることを承知して配置しているのではないか。
ちなみに「口を斜めにする」という表現を探すために『すべてがFになる』を読み返していたとき
「じゃあ、コンピュータウイルスは生物だね」犀川は口もとを上げた。44p
「ふうん……」萌絵は口をとがらせた。「なんか、納得がいきません、私」45p
※太字は筆者
という表現もあることが分かったので、微笑みや不満の表情を無理くり「口を斜めにする」という表現に押し込めているわけでもないことが分かります。
つまり、「口を斜めにする」を使うときは、「口を斜めにする」としか言いようのない表情なりメッセージの描写なのだということ。
「口を斜めにする」は日本語にない表現?
そう考えていくと、もしかしたら「何かの言語を翻訳した日本語文」というイメージで書いているのかもしれないなとも思いました。
例えば欧米のドラマや映画に良く出てくるジェスチャーで、両手でピースを作って顔の横に上げ、指をクイックイッと二回折りたたむ動作があります。これは「エアクォーツ」と呼ばれます。引用の意味で、言葉を強調したいときに使うと言われます。
あともっと馴染み深いものだったら、目をグリッと天井に向けてうんざりだってアピールするあの仕草。「アイロール」と呼ばれます。
しかしこのどちらの動作も日本ではあまりしません。
だからこの仕草を日本語で表現しようとしたら「彼は目を天井に向けて…」とか言わなければならない。場合によっては「うんざりしたように」と付け加えなけらばならないかも。
慣用的なジェスチャーとして存在するけれども、日本語では適した表現が無いから、動作を直訳的に表現するしかなかった。
そういうイメージで生まれた「口を斜めにする」なのではないか。
だからこそ、ない言葉を無理やり日本語にした感、翻訳感があって、読んだときにちょっと違和感を感じるのかもしれない。
もっと言えば、森博嗣は英文を組み立てる感覚で日本語を綴っているのではないか。僕がろくに分かりもしないのに「論理的な文章」だと言ってしまうトリックがここにあるのではないか。
僕らの欧米コンプレックスというか、英語に対する盲目的な憧れを森作品に仄かに感じるから、なんかかっこいいなー、オシャレだなーっていう文章の印象になるのかもしれないなと思いました。
こんな感じで森作品に頻出する「口を斜めにする」という表現について思いついたことを書いてみました。
言語の違いと発想の違い、そして時代の移り変わり
最後に、ちょっと話が逸れるんだけど、やはり『すべてがFになる』の中で、こんなセリフのシーンがあります。
「日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね」犀川は突然話出した。「混ぜるという動詞は、英語ではミックスです。これはもともと液体を一緒にするときの言葉です。外国、特に欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。混ざるのではなくて、つながるだけ……。つまり、日本は、液体の社会で、欧米は個体の社会なんですよ。日本人って、個体がリキッドなのです。流動的で渾然一体になりたいという欲求を社会本能的に持っている。欧米では個人はソリッドだから、けっして混ざりません。どんなに集まっても、必ずパーツとして独立している……。ちょうど、土壁の日本建築と、煉瓦の西洋建築のようです」430p
こういう話って好きなんですよね僕。
言語から文化の違いを考える。
「比較言語文化論」というやつなのかな?
日本語の「行く・来る」と英語の「go・come」はちょっと感覚が違うから気を付けなきゃいけないとか、かと思いきや「恋に落ちる」って日本語は英語にしても「fall」を使うから感覚は一緒なんだとか、そういう話。
単語レベルのこともあれば、英語は基本的に主語を示すのが普通だけど、日本語では簡単に主語が脱落するとか言う話になればそれは文法の違いになって、ひいては僕らがどういう視点で世の中を見ているかという違いになるとか。
面白いなと思ったのはさっき引用した文章を読んで、日本の個人の感覚もかなりソリッドになってるんじゃないかなと思ったということ。
それぞれのパーツが独立してて、適宜協力し合う関係が好ましく思える人が増えてるんじゃないかなって感じられたということです。
『すべてがFになる』を初めて読んだのはいつだったか。多分大学2年生くらいのときだから20歳前後。それから7∼8年くらい経って読み直してみると、あー時代が変わってるのかもなって思った。
特に若い世代だとこういうソリッドな感覚は強くて、ややもすると「癒着」とか「しがらみ」に転じかねない人との繋がり、着脱不可能な人間関係に嫌毛が差している人が多いのではないだろうか。
感覚で言ってるだけだから根拠はないというか僕がそうというだけなのかもしれないけど。面白いなーって。
森博嗣の「口を斜めにする」という表現について(完)
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