創造にいたる病

理解とは創造的な行為だから、本気でやれば誰でも産む苦しみと産む喜びを味わえるはずだよ

では、理解というものは創造的な行為であるから、本気で理解をしようとしさえすれば産む苦しみと産む喜びを味わえるはずだという話をしました。

いやいや別に産む苦しみも産む喜びもわざわざ味わいたいと思わないんだけど…と仰るかもしれません。

でも言いたかったのは、「いかに要領よく物事を理解し解決するか」が求められる文明的な社会において、「理解に時間をかける」という発想がどんどん乏しくなっているのではないかということでした。

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理解する時間と心構えがない危険

理解とは創造的な行為だから、手軽に誰でもという訳にはいかず、むしろ苦しんで苦しんで自分の力で常に新しく構築するものであって、だから与えられるものではなくて、掴み取るものなのだということ。

そこを億劫がっていたり簡単に理解できないものを敬遠していたら、それだけ自分の世界が小さく貧しくなるのは当然で、小説はいつもあらすじだけ見て本編は見ないとか、CMと周りの評判だけで映画見た気になるとか、名刺を交換して知り合いになった気になったりする、さらっと表面だけの人生になってしまうのではないか。

それで構わないのなら構わないのだけど、職業的にクリエイターと呼ばれる側の人じゃないし別に表現したいこともないし創造行為とは無縁だという人でも、常に誰か(神や自然物も含む)が作り出した何かで取り囲まれている以上、理解というものは最低限の創作活動だという認識を持った方が人生は充実するだろうという話をしたいと思います。

強要はもちろんできないけれど。 よく、物事や自分の置かれてる環境がつまらないのはお前がつまらないからだと言いますがほんとそうで、手を出せば掴めるかもしれないものを「適当にポケットに入れといてくれや」とか、「玄関に置いといて!後で見とくから」みたいな態度では、誰があなたを目指した創作物を作るだろう。

相手にされないのは当然だろう。

自然に得られるものは少なくなって、ポケットにはもちろん家の中にも予期せぬプレゼントやおすそ分け程度のものすらなくて、ふいに、「ああ貧しいなあ寒々しいなあこの家は」って感じるかもしれない。

そしてそんなつまらない気持ちになっているのは、誰のせいでもなく自分のせいなのです。

簡単に手に入れられて当然と思うことや、簡単に手に入れられるものにしか興味がないと思うことはかように恐ろしいことだと僕は思う。

そして半ば強制的に「理解」にかける時間を奪うのが、文明ってやつだと思う。

だって文明って人が楽になるためのもののはずだから、「理解」なんて面倒でしんどい行為はまず最初に駆逐されてしかるべき対象だから。

理解できた方が面白い

しつこく「理解」について話しているけれど、こんなに諄々と語らなくても理解できないよりできた方が面白いという辺りには反対する人はいないと思います。

スポーツなんて特に理解度で全然面白さが違うよなって思う。

僕は高校まで野球をしていたから、甲子園を見てもプロの技を見ても何がどうすごいのかが少しは分かります。

ホームランを見ればそりゃみんなすごいと思うかもしれないけれど、バッティングをしたことがない人にとってそれはあくまで「ホームラン」がすごいのであります。

条件が揃えばプロ程の力がなくてもホームランは打てるのですが、例えば木のバットで、超外角の、ほぼ片手で打っているような状態でライトスタンドの最上段までボールが運ばれれば、自分の身には絶対に起こらない(と経験的に知っている)ことが起きた訳ですからすごく驚きます。

おお、プロすげえってなる訳です。 これは極端な例だからある程度誰でも分かると思うけど、もっと細かい部分でなんであの体勢から投げれるんだろうとか、すごい判断力だなあなんてことはもしかしたら知ってる人しか感じられないプロの凄さ面白さかもしれない。

あと、あれが出来るってことはすげえ努力したんだろうな、とか。 (あ、でも“正解”は無条件に美しいと感じるという側面もあるか…関連するかもしれない記事→ 勉強する意味を考えて何になる

だから比較的経験のないゴルフとかバスケットボールの試合を見てても、ホールインワンとかダンクとか見たらそりゃすげえってなるけど、細かな技に感動することはできないのです僕は。

だからあんまり見てられない。

スポーツひとつとってもそうだし、本も映画も絵も音楽も知れば知る程面白いということはみんな感覚的に、経験的に知っているはず。

そしてこれらはすべて「文化」と呼ばれる立場に属するものでもあります。

対して文明の利器である携帯電話の仕組みとかを知ったからと言って、おお通話ができる!って改めて感動しないと思うんだよな。

するかな?僕が興味ないだけかな?

理解に必要なモチベーションは欠乏感

さて、前置きが長くなってしまったのだけど、ここからが本題です。

これだけ「理解」ってする価値があるよ的な話をしても、やはり人はおいそれとしんどい創造行為に身をやつすなんてことはないと思うのです。

ここでいう創造行為とは「積極的な理解」に励むということ。

ではどういうときに人は創造的になるのかというと、僕の個人的な意見であってとてもありふれているけれど、何らかの欠乏感があるときだけなのではないでしょうか。

欠乏の種類は多岐に渡ります。

煮え切らない会話をしたとき、伝え切れてないという感覚は欠乏です。

自分の感性が追いつかなかったとき、表現できない感覚は欠乏。

退屈で退屈で仕方がないとき、不満が積りに積もっているとき、時間や感情は有り余っているけれど、それらを納める器や枠がないという欠乏感があるからこそ苦しむのだと思います。

この状態は確かに苦しいし、一種の病気だと思います。

感受性が強くオリジナリティ溢れる人ほど、既存のものでは納得できず心もとなく、欠乏感が大きく辛いはず。

それで何となく体調崩してしまう人もいて、世間的にも自分的にも鬱な気分になる。

『モモ』的に言えば「致死的退屈症」に陥りながら、その病気と闘っている状態です。 →うつ病ではなく「致死的退屈症」/ミヒャエル・エンデは人に優しい

誰かに相談すればそんな小さいこと気にするなとか考えすぎとかとっとと割り切れみたいなこと言われてやっぱり伝わらなくて欠乏感は増すばかり。

「割り切り癖」が「創造力」を阻むとして、そう言われたときどう思うか。

実際気にしなかったり考えすぎなければ楽になるのは分かるけれど、それを生理的に受け付けられない。

で体が置き去りになってしまって仕事や学校に行けないとなると社会的には弱いというレッテルを貼られてしまうからやりきれない。

モヤモヤと形のない不満や鬱憤が全て形にできれば納得して楽になることが分かるから、自分の手で自分の感性が納まる枠を作ろうとする。

こうなると、伝わらないという鬱憤がむしろモチベーションになったりして、一種の開き直りみたいな心境にもなるでしょう。

自分が作らなければない!と感じることが、全ての創作の源になっているのではないでしょうか。(既に作られている場合、それと出会うことでカタルシスを経験できる) そして創作に向かった時点で、健康状態は少し取り戻していたりするのです。

じゃあ「理解」という創造行為をするのに必要なモチベーションは何か。

同じように病的な欠乏感なのだとしたら、それは「もっと知りたい」という欲求に他なりません。

分かって欲しいと言う病的な欲求に対して分かりたいという病的な欲求ね。

だから、言葉遊びみたいなものではあるけれど、「もっと知りたい」と思わなければ本当の「理解」には及ばないということ。

結局理解は創造行為だという立場に立てば、受け身ではできませんという話です。

レスコミュニケーションと食い違いを生む理解不足

さてさて、文明的な現代では理解にかける時間は軽視されがちです。

文学とか絵画とかスポーツとか教養とか趣味の範囲のことは好きにやれば良いと思う。

だけどもっと切実に必要なのは、家族とか恋人とか同僚とか友達とかっていう身近な人の理解ではないでしょうか。

みんな忙しいから芸術の世界への理解を深めましょうなんて時間がないのは分かる。

そこに時間かけましょうって言ったって、好きでないならいくら知れば面白くなるって言っても強要なんかできません。

だけど日常のコミュニケーションレベルで時間ない時間ないっておざなりな理解しあっこをしていては、病的な表現欲求者と誤解とストレスが増えるのは当たりまえだと思います。

頭がモヤモヤっとして体が動かなくて、現代についてけねーって思う人が多くても全然変じゃない。

むしろ僕自身現代のスピードにはついていけないから、そっちのが普通だと思う。

僕がこんなブログ書いてるのも言ってしまえば病的でしょう。日曜の朝から何やってんだろう!笑

レスコミュニケーションが行き過ぎです。

例えばAさんを理解するのはとても難しいです。

AさんはAさんのエキスパートでありスペシャリストであり、Aさん歴=年齢のプロであります。

Aさんについてのことなら、Aさんの右に出るものはいません。

そんなもの、簡単に理解できる訳がないでしょう。

野球やったことない人があらゆるプロの絶技や苦悩を見逃しているのと一緒で、Aさんやったことない人がAさんのことを簡単に理解できる訳がないのです。

だから、Aさんを理解しようとすれば自分の中にオリジナルなAさんを作らなければならない。

その作業は時間がかかるしめんどくさいし別に意味もそんなにないのだけれど、人生の中でそれくらいの労力をかけて良いと思える人は二人や三人はいるはずで、それもできないなら一体誰と生きるつもりなのかという話です。

Aさんの言うことはただの上司の愚痴に聞こえるかもしれない。

あるある、分かるよーいるよねそういう人、みんな苦労してんだねー、上司ってそういうもんだよって言われてAさんはモヤモヤします。

そのときのテンションとか悩み具合にもよるだろうけど、いやいや私の上司とあなたの上司は違いますけど!って気持ちに。

こっちが大人げないから上司に楯突いてるみたいな処理の仕方やめてくれる!?もう自分はその域脱しました肩の力抜いて適当に流したら楽になるよって態度やめてくれる!?って。

相手の人は自分が知ってるものに当てはめて理解した気になってるだけなんです。

「生きにくい世の中だ」とゴムの壁/剣淵の夜、前夜

ゴルフの苦悩を語ってるのに、野球経験者というだけで分かった気になってるような。

同じ「球がクリーンヒットしない」という悩みでも、状況も条件も全然違うのに、「球に当てるって難しいよね、無心に振ったら当たることもあるよ」なんてとんちんかんなアドバイスされる羽目になればがっかりもするでしょう。

こちとら3割当たれば上々の世界と違うんですけど!って言いたくなるでしょうゴルファーにしてみたら。

理解を急ぐとコミュニケーションのズレは簡単におきます。

ああ話通じない!って思うんだけど、損をするのはなぜか積極的に伝えようとした側なんだよな。

この程度で良いと思っている人は理解不足の苦悩とは無縁だから、社会的に正常なのは考えない側だったりする。

真面目に正攻法で頑張れば頑張る程辛い社会だと思います。

ことコミュニケーションにいたっては実直で誠実であるだけ損をすることが多いのではないでしょうか。

理解はすればするほど面白いし、ちゃんと人のこと理解するということはコミュニケーションにおいてすごく便利なことでもあるのです。

その時間がないというのはすごく不便なことだと思います。

だから、文明が犠牲にしたものはあまりにも大きい。

文明という枠に人を詰め込み均一にすることは、人の感情の多くを殺すことになるのですね。

人々の時間を奪う文明に傾いた社会は病人を増やすけれど、理解に関する創造行為を諦めず、感情を持て余し苦しむ人と、文明に考える行為を明け渡して楽に生きている人とでは、どちらがより病的なんだろうか。    

創造にいたる病(完)

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